第2話

「さあ、天気が悪くならないうちに下山するか」


 軽トラックを停車してある林道まで寄り道せずに徒歩で二時間――さらに麓まで一時間――片道だけで計三時間も費やす。

 おちおちしているとあっという間に稜線の向こうに日が落ちてしまう。


 雪をかき分けて先を歩くリュウの背中を追っていると、昨年に引き続き異常とも呼べる降雪量の少なさと、歯止めの効かない気候変動の波が静かに福島の奥地にも忍び寄っていることを肌で実感する。


 今年は日本各地で記録的な暖冬だったことが災いし、豪雪地帯として知られている奥会津もその例外ではなかった。多い年では三メートルほどの積雪量をほこる人里離れた山間部でさえ、積雪量はせいぜい一メートル未満といったところだ。


 故郷から遠く離れた異国の地――紆余曲折を経て福島の奥地に流れ着いて二十年経つ木之下でさえも、かつて記憶にないほどの冬であることは間違いなかった。


 ――何事もバランスを欠いては歪みが生じる。歪んだもんは正さねばならねぇ。


 猟銃を手にするきっかけとなった師に教わった訓示は今も忘れない。一体いつになれば、人間という生物は己の利益を追求した結果に訪れる悲劇に目を向けることになるのだろうか。


 狩猟期間が認められている冬の数ヶ月を除いて、木之下は基本的に山菜採りや養蜂といった副業で細々と生計を立てていたが、秋を迎えると山全体で異変が生じはじめた。


 動物たちが越冬するために必要とされる食料源の木の実が大不作に陥ってしまったのだ。結実を迎える前の大事な受粉シーズンに、何度も本州を襲った台風や豪雨が結実を阻害したことが最大の要因だと思われる。


 とくに本州最大の動物であるツキノワグマにとって、栄養豊富な山の恵みは冬眠前に必要な脂肪を貯める絶好の餌である。

 若葉が芽吹き始める春先まで絶食に耐える為の定期預金に近い。


 栄養価の高いブナの実を始め、冬眠前に必要最低限の食糧を得られず準備が整わなかった個体は餌を求めて山を彷徨い歩く。必然的に気性が荒くなり、空腹に耐えかねた獣は人里との境界線を越えてしまい、時として人間に被害を及ぼす存在として駆除の対象となることもままある。


 人は生活圏内に現れたクマを必要以上に恐れ「害獣」と見做す。

 厄介なのはただでさえ猟師の数が減少し、人間に襲われる機会が減ったことで本来遺伝子に刻み込まれていた人間に対する警戒心が薄れた個体が、〝麓に下りれば一年中餌に困ることはない〟と、学習をしてしまうこと。


 一度学習したクマは本来住処とする山奥から人里近くに住み着き、人と食料を紐付けて記憶する可能性がある。クマはそれだけ知性が高く、こうなるとパブロフの犬ならぬパブロフのクマとなってしまう。


「どうした? リュウ」


 突然立ち止まったパートナーは辺りの様子を探るように鼻と耳を忙しなく働かせ、訴えるような目つきで見上げてきた。


「そうか、ナニか見つけたんだな。どこにいるかわかるか」


 もちろん言葉が通じ合っているわけでもないのだが、長い付き合いで互いに考えていることくらい想像がつく。つい先程まで情けなく垂れていた耳はレーダーを思わせる動きで辺りの音をつぶさに拾い、気配の正体を教えてくれる。


「待て」と声をかけて足を止める。

 年齢を忘れ、いつまでも若い気分のまま突っ走ってしまいそうな狩猟犬の本能を抑えて息を殺す。木立の奥に目を凝らすと、目測でおよそ七十メートルほど離れた場所にこちらに背を向けているツキノワグマの姿を発見した。


 下を向いてナニか漁ってる様子で、着実に老眼が進みつつある木之下の視力をもってしても、その巨体は確認できた。


「あいつは、今年最大のサイズだな」


 怪我か、はたまた餓死か――何らかの要因で命を落とした鹿の屍体にありついてるいる。時折顔を上げて鼻をひくつかせながら、周囲への警戒を怠らずに貴重なタンパク源を摂取していた。


 犬より敏感な嗅覚を持つとも言われているクマを相手に、風下に位置していたことはもっけの幸いだった。背後から静かに距離を詰める。食事の邪魔にならないよう自然と同化し、至近距離へと気配を殺してにじり寄る。


 ――距離約五十メートル。


 散弾銃を肩にあて、銃口を標的に向ける。装填されている銃弾はスラッグ弾。散弾銃は銃腔内部にライフリングが掘られたライフル銃と比べ精密性では劣るが、そのぶん選択する弾の自由度で勝る。


 通常の散弾では威力を発揮することが難しい大型獣相手に使用することが多いスラッグ弾は、一撃で仕留めるには有効射程距離が短く急所から外れると逃げられる可能性も高いが、木之下の腕を持ってすればまず急所から外す余地のない近距離だった。


「あとはこっちを向いてくれればいいんだがな」


 分厚い脂肪に覆われた背中や尻は、殺傷力の高いスラッグ弾をもってしても致命傷を負わせるには至らない。その場から逃走を許してしまい、目の届かないところまで逃げられてしまうミスを犯したことも過去にはあった。


「それは未熟者の証だ」と、師匠に叱られたのは今となればいい思い出だ。


 ――殺すことには変わりないだろ。

 ――馬鹿言え。余計に苦しませてどうするんだ。


 独り立ちしてもう何年になるか。厳しかった先代とのやり取りも懐かしく思える。

 狩猟免許を取得して十年経てば、より長距離から高精度に獲物を仕留められるライフル銃所持の許可が国から認可されるが木之下はそれを良しとはしなかった。


 容易に命を刈り取ることは無駄な殺生につながり、結果として自然のバランスを損なってしまう。

 高倍率の狙撃眼鏡を覗き、遠距離から一方的に仕留めるのはアンフェアでしかない。それでなくてもライフルには苦い記憶しか宿っていなかった。


 ――さぁ、こっちを向くんだ。


 思いが通じたのか、ゆっくりと緩慢な動きで振り返り立ち上がったクマの胴体には、その名が示す通り特徴的な白い三日月模様が浮かび上がっている。


 ――よし、今だ。


 三日月模様の上に位置する心臓めがけ、銃弾を発射せんと引鉄を引こうとしたそのときだった。タイミングを見計らったように頭上で鳥が羽ばたき、クマは雪上とは思えないほど機敏な動きで反転すると、瞬く間に逃走を図った。発射された鉛玉はクマのケツに掠り傷を負わせる程度で、結果狩猟は大失敗に終わる。


「クソ……しくじった」


 笹薮の中に姿を消していく後ろ姿を見送ると、木之下は溜息を吐いて姿を消した獲物を見送った。標的を前にまんまと逃げられたのはいつ振りだろうか。


 これもまた自然と受け入れるしかなく、弾一発、値段にして三百円を無駄にしたとスリングベルトを肩に掛け直し下山を再開する。そうこうしている間にも西の稜線に日が傾いていた。


 異国の地に流れ着いて初めて目にした線香花火の輝きを、ふと思い出す。それとそっくりな緋色の玉がこずえに真っ赤な灯りを灯すと、木之下の心境を察したのか慰めるように一鳴きしたリュウと来た道を戻るのだった。

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