第一章

第1話

「十五時三十分か――」


 マウンテンパーカーの裾をまくり腕時計を確認すると、日没時刻が残り一時間ほどに迫っていた。一月中旬の東北の日没は平地に比べて早く、もたもたしていると瞬く間に夜の帳が落ちてしまう。


 木之下忠義きのしたただよしは休憩の為に腰掛けていた杉の倒木から立ちあがると、雲行きが怪しくなってきた奥飛騨の空をしばし眺めた後に予定より一足早く、下山の準備に取り掛かることを決断した。


 山中で信じられるものは長年の経験と勘――移ろいやすいのはなにも女心だけではないということだ。


 狩猟を許可されている日の出から日の入りを迎える時刻まで、移動時間も含めれば都合八時間ほど山中を歩き通した計算になる。三キロを超える散弾銃ショットガンに実際の重量以上の負荷を感じるようになったのはいくつの歳からだろうか。


 思い出そうとする行為自体が既に年老いた証左しょうさのように感じられ、木之下は沈んでいく思考を強制的に中断した。いくら強がったところで人は老いには勝てやしない。


 一昔前の体力があれば、一日や二日程度なら寝ずの番の行軍もなんなく押し通せていたというのに、およそ疲労というものを感じたことのない無尽蔵のスタミナと集中力は、この数年で見事なまでに経年劣化が著しかった。


 銃であれば故障したパーツをその都度、分解、点検、修理オーバーホールをすれば事足りるのだが、人体はそう簡単に分解もできなければ修理も利きやしない。

 今ある部品でその場をやりすごさなくてはならず、だというのにサビつくのも壊れるのも一瞬であるのが嘆かわしい。


 沢から尾根へと獲物の足跡を追って上り下りを繰り返し、豪雪が作り出す急峻な雪食地形を雪崩が起きないよう祈りながら突き進んでいく。起伏に富んだ地形は人間の足が入りにくく、天然の獣道となっていることが多いことは経験則から熟知している。


 足跡やフンといった痕跡を頼りに体力の続く限り歩き続けていたが、今日に限っては最大の標的である獲物ツキノワグマどころか、野兎一匹見かけることがなかった。


「仕方ない……こんな日もあるさ。山の恵は授かりもんだからな」


 視線を落として声を掛ける。


「ワフ」


 猟果が芳しくなかったことを気にしてるのか、それとも狩猟犬のプライドが傷付いたのか、相棒パートナーのリュウは頭を耳も尻尾も項垂れさせていた。


 現在九歳――人間の年齢で言えば中年に相当するが、被毛や顔の周りに既に白い毛が混じっている。かつてはアオシン(カモシカ)に比肩していた俊敏さも鳴りを潜め、今では縁側に佇むご隠居のように緩慢な動きしかみせないが、まだまだ若い犬に負けない気概を持ってはいるようだ。


 おやつ代わりに猪肉のジャーキーを与えてやると、現金なもんで尻尾を千切れんばかりに振って食らいつく。

 そうやってリュウが夢中になっている間に背負っていたザックからガラケーを取り出す。


「いい加減スマホに変えたらどうだ」と、とうとう近隣の老人にまで小言を言われるようになってしまい肩身狭い思いをしているが、電話をするだけであれば今更買い替える必要性も感じない。


 履歴の一番上――今頃は麓のレストランで仕込みに追われてるであろう親友の電話番号を選択する。


「お電話ありがとうございます。ラ・テロワールでございます」


 常連客のハートを鷲掴みにしているバリトンボイスが電話口で鼓膜を震わす。


「円堂、悪いが今日も猟果はゼロだ」

「なんだお前か。いいよいいよ気にするな。まだ店の在庫はあるし」


 業務用冷蔵庫の扉を開ける音がすると、円堂篤えんどうあつしは中の在庫数を確認しているのか「ひい、ふう、みい」と数ながら会話を続けた。


「それに元から気まぐれな経営だもんで、材料が手に入らなければSNSで臨時休業を伝えてるから大丈夫だよ。って、機械音痴のお前にゃ何の事かわからないか」

「悪かったな。俺には必要ないもんでね」

「そんなんだから瑠奈るなにも馬鹿にされんだぞ。まあそれはいいとして、たまには営業中に顔出せよ。〝狼〟のご尊顔見たさにわざわざ奥会津くんだりまで来てくれる奇特な常連さんもいんだからよ」

「その名を呼ぶのはやめろって何度も言ってるだろ。もう切るぞ」


 つい苛立って電話を切ろうとすると、一転して口調が変わる。まるで子供を心配する親のように。


「そろそろ山の天候が悪化しそうだから、道草食ってないでさっさと帰ってこいよ」

「わかってる。これから帰るから心配するな」


 ラ・テロワールのホームページには、木ノ下に無断で撮影した散弾銃を構えている写真が掲載されている。そのせいか客も村人は木之下を「マタギの人」と呼んでやまない。


 講釈を垂れるつもりは微塵もないが、そもそも〝マタギ〟とは生きる為に狩猟を生業としているものを指す名称である。


 動物の毛皮に需要があった時代ならいざ知らず、その利用価値が暴落した現代では精々が兼業猟師がいいところだ。現代に残る猟師の大半が趣味で猟銃を手にしているのが実情だと言っていい。


 昨今地方では野生動物による農作物の被害額が無視できないものになり、有効利用にと押し勧められていたジビエ料理がふつふつとブームを迎えていはいるが、それにしたって安定供給には程遠く年々減少していく残り少ない猟師の高齢化も著しい。


 かつては故郷を何ヶ月も離れ、腕一本で稼ぐ現代の傭兵と似たような暮らしぶりの〝旅マタギ〟と称される人間も存在していたが、近代化が進むにつれてより手っ取り早く稼げる職業へと鞍替えしていった。


 それは必然であり防ぎようがない時代の趨勢すうせいでもある。先達たちは生きる為に猟銃を捨てる選択をしただけであり、それを大げさに嘆いたり文化の喪失などど口にする輩もいるが、避難する資格は誰にもない。 


 捨てることを選べる奴はまだマシではないか――。


 ここに銃を手にする以外に生きていく術を知らない愚者も存在する。

 いつか時代に必要とされなくなるその時まで、粛々とトリガーを引くだけだ。

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