狙撃手の名は狼

きょんきょん

プロローグ

 中東の小国を砂塵と血煙が覆い隠していた。逃げ惑う無辜むこの民。凌辱される母娘。いたずらに殺される老人。

 全ては救えない。救えるのは狙撃眼鏡スナイパースコープの先に映る僅かな者だけだった。


 引金をいくら引けども悪は無尽蔵に湧き出てくる。一向に減るきざしを見せない敵兵のなかには、幼くして武装勢力に洗脳された哀れな少年兵達も含まれていた。


 戦闘のプロである傭兵相手に、ろくな訓練も受けていない子供が出来ることといえば唯一つ――〝聖戦ジハード〟と称して身体に爆弾を括り付けて突貫する他にない。敵が追い込まれれば追い込まれるほど、至る所で若い命が散ってゆく様を見届けるしかなかった。


 せめて、来世は平和な世界に生まれますように――。


 首から下げていた十字架ロザリオを握りしめると、哀れな子供に照準をあわせ、引鉄に指をかけた。


        ✽✽✽


 数日前まで『非戦闘地区』に指定されていた市街地では、今も激しい銃撃戦が繰り広げられている。

 煉瓦造りの民家が建ち並ぶ街路には、殺気立った武装勢力が多国籍軍をこれ以上先進めさせないようにとバリケードを建て、武器を手に徹底抗戦の構えを取っていた。


 自爆さえいとわない連中の眼は一様に濁っている。その視線は背中を見せて逃亡を図るヒジャブ姿の母親と子供に注がれていた。同胞であっても逃亡は即ち敵と見做みなされ、老若男女関係なく凶弾に命を奪われる。


 見せしめのために回収されないままの遺体は道端で腐臭を放ち、腹を空かせた野犬共の良い食糧エサになっていた。上空では日を追うごとに増えていくハゲタカがご馳走にありつこうと旋回をしている。


 任務に当たる前に聞いていた時刻から一週間が過ぎた頃――双眼鏡を覗くと一〇〇〇ヤード(九一四・四メートル)先の根城アジトに向かって走行している一台のジープを発見した。


 車内にはAK47《カラシニコフ》を携えた護衛の男たちが乗車し、後部座席には今回の獲物ターゲットである反政府軍幹部の姿も確認できた。


 長距離狙撃には目標との距離、重力による弾道の下降、気温、気圧、湿度、風向きと風速などの外部要因を考慮して弾道を解析する必要があり、常に変動する不確定要素を考慮して複雑な弾道軌道を計算シミュレートしなければならない。


 此度の愚劣極まる作戦をたてた指導者の眉間に、狙撃眼鏡の十字線レティクルを重ねて瞬時に計算を行う。


 対象距離が三〇〇メートル以上離れると、僅かな微風や体のブレに弾道が大きく影響を受けてしまう。息を吐ききって、愛用のレミントンM700の引鉄トリガーに指を乗せ、その瞬間ときを待つ――。


 対象が乗る車両がアジトの前で完全に停車しエンジンを切った瞬間、引金を引きしぼった。


 銃腔じゅうこうを抜けた弾頭は初速八〇〇メートルを超え、スコープ越しに蒸気の痕跡を残して次の瞬間に対象の眉間に真っ黒な銃痕を穿うがった。

 リアガラスに灰色の脳漿を叩きつけて絶命した幹部の姿に、車内で慌てふためく護衛も残さず抹殺した。


『ターゲットの死亡を確認――』


 目的さえ達成すれば、あとは正規部隊に任せて休む間もなく次の戦場へと向かう。

 この世界から争いが無くなる日まで、傭兵を辞めるつもりなど微塵もなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る