第4章 転機、策謀、疾走

 それは悪夢だった。


 かすみがかかったような意識の向こうで、自分の体が勝手に動いている。


 自分の体が、違法な薬を誰かに売ってお金を巻き上げている。自分の体が、薬に溺れた女性を代わるがわる手篭めにしていく。自分の体が、有り金を薬に注ぎ込んだ男性に他人から金を騙し取るよう唆す。


 嫌だ。止めたい。こんなことしたくない。


 なのに体は指一本、舌の先に至るまで「僕」ではない「俺」のものになっている。


 かすれた意識を振り絞って体を止めようとする「僕」をあざ笑うかのように、「俺」は薬のケースを取り出し、あの忌々しい薬を噛み砕く。


 やがて広がってくる暴力的な刺激の波に「僕」の意識は押し流され、また次の悪夢が始まるまで闇の底へ落ちていく…。



 かすみの向こうに、光が見えた。


 いつまでも手は届かないのに目に焼き付いて離れないそれがうっとうしくて、目を覆うように手をかざす。


 視界に影がかかり、少し気分が落ち着いた。


「……え?」


 かすれた声が喉から漏れた。聞き間違いではないだろうか。


 ぱくぱくと口を動かしてみる。あごは「僕」の意思通りに動いた。


 顔にかざした手を握り締める。今、この体は「僕」のものに戻っていた。


「……っ!」


 思わず叫び出しそうになるのを堪える。


 これまで続いてきた悪夢のような状況から逃げられるかもしれない。


 息を深く吸って吐き、すぐさま飛び出したがる本能を押さえ込んで、確実に逃げるために周囲の状況を確認した。


 辺りを見回すと、いつものライブハウスの控え室にいることがわかった。


 ベンチの上で横になり、「僕」は眠っていたようだ。


 服はちゃんと着ており、普段使いのバッグもすぐ近くのテーブルの上にあった。


 テーブルには手書きの楽譜が散らばっている。


 うっすらと頭に残っている記憶では、「俺」がここで一人で作曲をしていたような気がする。曲を書き終え、薬を飲んで眠りについたところで記憶は途切れていた。


 ここまで思い返して、「僕」は自分の視界が薬でトリップしている時の歪んだものでなくなっていることに気づいた。


「眠っている間に、薬の効果が切れたのか?」


 誰もいない控え室でつぶやくが、当然答えはない。


 考えても仕方ないことは考えるな。今重要なのは、この薬と犯罪でいかれた生活から逃げ出すチャンスがようやく巡ってきたということだ。


 早く、早くどこかに――。


「――どこに?」


 思考が凍りつく。長い悪夢に落ちる直前の記憶がよみがえる。


 薬から手を引こうとした「僕」に薬を盛ったのは、警察官ではなかったか。


 あの警察官は「僕」の薬物使用の情報をもみ消し、この体に宿っている恐ろしいもう一つの人格のことを「兄さん」と呼んでいた。すべての警察官がそうだとは考えたくないが、少なくとも「俺」があれだけ好き放題犯罪行為をはたらいているのに捕まっていない以上、相当数の警察官が「俺」の下に抱きこまれているのではないか。


 少なくとも、この街の治安維持機能が骨抜きにされるほどの侵食が起きている。


 だとしたら、この街に「僕」の逃げ場なんて……。


 ――コンコン。


 背筋が凍り付く。控え室のドアがノックされた。


 誰に? それは当然、「俺」を呼びに来た誰かだろう。


 どうする? 今この体を動かしているのが「僕」だとバレれば、あの警察官と話した時のように、また無理やり薬を飲まされるかもしれない。そうすれば、次の機会がいつくるかわからない。


 ここはうまくやり過ごすしかない。


 「僕」はベンチに横になり、目覚めた時と同じ姿勢を作った。


「おっす、『リーダー』……っと、まだ寝てたか」

「夜通し作曲してたからね。寝かせておこう」


 入ってきたのはバンドメンバーの二人だった。


 SNSでのやり取りを思い出す。今やこの二人も薬に染まってしまっている。


 同じ志を持って音楽の道を歩んでいた二人まで、こんなことになってしまった。


 「僕」は呼吸が荒くなるのを必死で抑えた。


「さすが『リーダー』。もう新曲ができてる。仕事が早いね」

「今回もキレキレだな。やっぱり『リーダー』すげーよ。この薬のおかげだって言ってたけど、『おれたち』はここまでできねーもんな。『リーダー』についてきてよかったぜ」

「そうだね。じゃあ、そんな『リーダー』の頑張りに報いるために、『ぼくたち』も練習しようか」


 やがてドアが閉められ、控え室に静寂が戻る。


 「僕」は手で顔が隠れる姿勢で眠っていたことに感謝した。自分の情けなさと二人への申し訳なさで涙が止まらなかった。


 だが、ここで泣いていても事態は一向に良くならない。


 逃げなくては。この街の警察が既に機能していないのなら、もっと遠くに行くしかない。


 薬の現物を持って出頭すれば、他の県の警察でもとりあってもらえるだろう。


 問題は、「僕」がこの街を離れることを、「俺」が作り上げた人の網に気付かれてはならないということだ。


 体を「俺」に奪われていた間のかすかな記憶では、「俺」は常にこのライブハウスにいた。今着ている服も、「僕」が警察官に薬を飲まされた日と同じものだ。


 もしかすると、「俺」は身の回りのことは全て「兄弟」と呼んでいた配下の人間にさせて、自分はほとんどライブハウスから出ていなかったのかもしれない。


 そうなると、「僕」がこの建物から出て街を歩いているだけで「兄弟」からは異常事態と判断されるかもしれない。


 「兄弟」に見つかった時点で無理やり薬を飲まされるだろう。


「くそっ……どうすればいい……」


 警察はもうすべて「兄弟」に染まっていると考えるべきだ。制服を見つけたら気付かれないように隠れるしかないが、これはまだ警戒のしようがある。


 問題は一般人の「兄弟」だ。全員が常にライブハウスに入り浸っているわけではないだろう。街のどこに「兄弟」の目があってもおかしくない。


 スマホを取り出し、今日の日付を確認する。


 今日は土曜日だ。休日にライブハウスで享楽に耽るためにこの街に来ている「兄弟」は多いだろう。その目をかいくぐってこの街から逃げなくてはならない。


 しかも、この街の駅前には交番があり、常に警察官が前に立っている。


「『僕』一人じゃ、どうしようもない……」


 誰かに助けを求めようにも、元々数少ない「僕」の親しい人はみんな「兄弟」に入ってしまっていた。


 SNSの画面をスクロールして、慣れ親しんだ名前が薬や犯罪行為の話をしているのを見るにつれて心が絶望に染まっていく。


 いっそすべて投げ出して、薬を飲んで楽になってしまえという声が聞こえる。


「……それは、嫌だ。『僕』は、こんな風になりたかったわけじゃない」


 地獄の底で蜘蛛の糸を探すように、SNSの名簿をスクロールし続ける。


 誰でもいい、誰か、まだまっとうなままの人がいないか……。思いつく名前を検索しては絶望するのを繰り返す。


「……あ」


 一人、いた。


 「俺」がこの街を染め上げるのを見て、「僕」から離れていった人が。あれからこの街に、このライブハウスに来ていないとすれば、「彼女」はまだまっとうかもしれない。


 「彼女」のアカウントを検索する。「彼女」とのやり取りは、最後に別れた日から更新されていなかった。「彼女」に振られた「僕」だが、幸いブロックはされていない。


『お願いだ。今すぐ助けてほしい』


 端的に、祈るようにメッセージを送った。既読マークが付くのを待つ時間が、ひどく長く感じられた。



 やがて、着信があった。


『何かあったんですか?』


 返事があったことの安堵で深い息を吐く。


「僕」ははやる思いを抑えつつ、現状を端的に説明した。


『信じられないような話ですけど、確かに普段とライブの時の「あなた」は別人みたいでした。普段の「あなた」がファンに乱暴なことをさせるような人じゃなかったことも知っています。だから、「あなた」の話を信じます』

『もう嫌なんだ。終わらせたいんだ。でも「僕」一人じゃどうにもできない。「君」しかいないんだ。力を貸してくれ』

『わかりました。「私」の車を貸します。それで隣の県まで行きましょう』


 暗闇に、一筋の光が差した。



 このライブハウスは駅から南に数分歩いた商業区画の中にあり、ここからさらに南に五分ほど歩いたところに国道が通っている。


 「彼女」はあと二十分あれば国道まで車で迎えに来てくれるという。


 車に乗ればインターチェンジまでは数分、高速に入れば十分弱で隣の県まで行ける。


 さて、どうやって「彼女」が来てくれるまでの二十分間で、どこにいるかもわからない「兄弟」の視線を潜り抜けてここから国道までたどり着く?


 さっきバンドメンバーが「僕」が眠っているのを確認したから、ライブハウス内の「兄弟」はしばらくこの控え室に入ろうとはしないだろう。ここから「僕」がいなくなってもしばらくはバレない。


 問題は街の中だ。休日はどこの通りにも常に人がいる。


 しかも国道の周りには身を隠せる場所が無く、突っ立って車を待っていればそれだけで目立つ。


 今の「僕」に必要なのは、極力「兄弟」に見つからず国道まで移動し、仮に見つかっても気付かれない、あるいはごまかすための手段だ。


「まず、この服装をなんとかしないとな」


 「俺」がずっとこの服を着続けていたのなら、この服も「兄弟」に覚えられているだろう。


 どこかで別の服を買って着替えて、できれば顔を隠せる帽子も手に入れたい。


 バッグの中を見ると財布に入りきらない量の札束が無造作に放り込まれていた。


 金の出所を思うと気分が悪くなったが、この際使わせてもらおう。


 スマホでこの近辺で服を買えそうな場所を探すと、ここから国道へ向かう道の中間あたりに大型のディスカウントストアがあった。雑多な商品棚でひしめいているあの建物の中なら、身を隠す場所も多いだろう。


「よし……!」


 覚悟を決めて、ベンチから立ち上がる。


 控え室の扉に耳を当て、外の物音に耳を澄ませる。かすかに、遠くから人の声とベースとドラムの音が聞こえる。


 ステージで二人が練習している周りに人が集まっているのかもしれない。ステージから控え室は直接見えない。


 「僕」は音を立てないようにドアノブを回し、息を殺して扉の陰から通路を覗き見る。


 右、左。通路は無人だった。


 肺が空気を求めてせき込みそうになるのを抑えながら、足音を立てないように控え室を後にする。


 誰かが気まぐれにこちらの通路に来ないことを祈りながら、速足で地上への出口へと向かう。


 通路を曲がった先にある階段に、外の光が差し込んできていた。階段の周りにも人はいない。吸い寄せられるように光に向かって足を進める。


「じゃ、買い出しいってきまーす」


 軽い調子の声が、ステージ側の通路から響いてきた。声のした方に首を向ける。


 ステージの観客用出入口の分厚い扉が、今まさに開けられようとしている。


 「僕」は全速力で階段に足をかけた。


「ん? 誰かいるのかー?」


 振り返らない。姿を見られた。もう足音を気にしている場合じゃない。


 少なくとも顔は見られなかったはずだが、この服を見られたことで「僕」がいなくなったことに気づくかもしれない。


 国道に迎えが来るまであと十九分。それまで誰にも気づかれず、逃げ切らないと……!


「ひっ!?」


 甘かった。街の中において、誰にも気づかれないということが限りなく不可能に近いことを、地上に出て一瞬で理解した。


 人、人、人。どこを見ても人目がない場所など存在しない。網の目どころか布のように織り重なる視線。その中から特定の集団の視線だけを躱して歩くことなどできはしない。


 ――カン、カン、カン。


 後ろから足音が迫ってくる。


 考える時間はない。「僕」は運を天に任せ、ディスカウントストアに向けて走り出す。


 雑踏の中を駆け抜けていく「僕」に、いくつかの顔が振り返る。


 顔を見られないように下を向き、一分でも、一秒でも早く、隠れられる場所を求めて走り続けた。


「はあ、はあ、はあ……」


 圧迫感を覚えるほどに狭苦しく商品棚が配置されたディスカウントストアの中で、「僕」は乱れた息を整えた。


 辺りに「僕」を注視する目線は感じられない。さっきの「兄弟」はついてきてはいないようだ。


 迎えまではあと十七分。ここから歩けば二分ほどで国道に着くだろう。


 それまでの間に、できる限りの手札をここで揃えていく。


 まず、安物のシャツとジーンズ、目元を隠せるつばのある帽子を買って、トイレに駆け込んだ。


「……は?」


 トイレの手洗い場の鏡に、目が釘付けになった。


 「僕」の正面の鏡に映っているその男は、まるで見覚えのない姿をしていた。


 髪の毛はぼさぼさでだらしなく、目の下には深いクマができている。遠目にもわかるほど肌が荒れていて、頬はこけ、無精ひげが伸びっ放しになっている。


「これが、『僕』なのか……?」


 声と連動する口の動きで、かろうじて事実を認識する。


 改めて、自分の体が「僕」ではない何者かに操られていたという事実に戦慄する。


 ……けれど、これは「兄弟」の目をあざむくチャンスでもある。髪を整え、ひげを剃るだけでもだいぶ見た目の印象は変わるはずだ。


 トイレの前に清掃中の看板を置いて当座の安全地帯を確保し、「僕」は見た目を整えるための道具を買いにいった。


 五分後、鏡の中の「僕」は髪型から服装まで完全に別人になっていた。


「あとは、顔を見られた時にどうごまかすか……」


 「俺」が「兄弟」とどんな会話を行っていたかなど、「僕」には知りようがない。顔と今の姿を見られて会話でボロが出れば、まず間違いなく薬を飲まされる。


 それを防ぐには、どうすればいい? 薬を、飲まされないために……。


 バッグの中から薬の入ったケースを取り出す。プラスチック製の箱の中に、忌々しいラムネ菓子のような薬が数十粒入っている。


 これをここですべて捨てても、「兄弟」が持っている薬を飲まされたら意味がない。


「飲むふりをして捨てる……。偽の薬を準備して飲む……。飲まされても後で吐き出すようにする……?」


 藁にも縋る思いで、スマホで検索して可能性を探る。


 幸いにも、いくつかのアイデアはここで売っている商品を使えば実現できそうだった。


 「僕」は再び店内に戻り必要なものを買い集めた。


 トイレの中で仕込みを済ませた頃には、ここを離れる時間になっていた。


 やれることはすべてやった。「僕」は怪しまれないように自然体を装って店を出ようとした。


「……っ!」


 呼吸が止まる。


 店の出入り口に警察官が複数人立っている。すぐに商品棚の陰に隠れる。


 まだ「僕」に気付いている様子はないが、店の前から動こうとしない。明らかに確信を持って「僕」を探しに来ている。


 なんで? 後をつけられた? いや、考えてもしょうがない。


 正面から出られないなら、従業員専用の出入り口を使うしかない。


 店の奥へと足を進める。関係者以外立ち入り禁止の掲示を無視する。商品搬入用の出入り口の横に、作業中の店員が一人いた。


「あ、お客さん、ここは立ち入り禁止です。トイレでしたら……」


 最後まで言葉を聞かずに、バッグから札束を取り出した。


「すいません。ちょっと通してください」

「え? ええ!?」


 突然渡された札束の重さに混乱する店員を横目に、従業員用の出入り口から裏道に出る。


 迎えが来る時間までは、残り三分を切っていた。


 裏道を縫うように走り抜け、国道沿いに立ち並ぶオフィスビルの前までたどり着く。


 警察官が近くにいる様子はない。


 「僕」は「彼女」に現在地と今の自分の恰好を写真で送って車を待つ。


「頼む……早く来てくれ……」


 ちらちらと商業区画の方を振り返り、制服姿の人間がこちらに近付いてこないか確認する。


 一秒が数十倍に引き延ばされる。


 国道を行き交う車に期待を抱いては過ぎ去られる。合流予定時刻はすでに過ぎている。


 「彼女」か、「兄弟」か。どちらが先に「僕」を見つけるかで運命が変わる。


「……!」


 やがて、商業区画で動きがあった。ディスカウントストアの前でたむろっていた警察官数人が、無線で何かを話した後、国道の方に向かって歩き出した。


「くそっ……! 来るな……来るな来るな来るなぁっ……!」


 「僕」の姿に気付いている様子はない。しかし着実に、一歩ずつこちらに近付いてくる。


 時間が加速する。一分経過。


 遠目からだが、警察官の顔が判別できる距離まで近づいている。向こうからも「僕」の顔が見えるということだ。もう振り返れない。


 十秒経過。並んで歩く革靴の音が速くなる様子はない。まだ「僕」に気付いていない。だが、靴音は確実に近づいてきている。


 十秒経過。ここで立ったまま何もしないでいるのは目立つだろうか? 今からでも合流地点を変えた方がいいか? いや、そんな余裕はない。運転中の「彼女」に細かいメッセージを読む余裕があるとも思えない。ここで待つしかない。


 十秒経過。靴音はいよいよはっきりと聞き取れる場所まで近づいている。顔を伏せていることを不審に思われないよう、スマホを覗き込む。「僕」は息を殺して気付かれないよう祈った。


「よし、ここら辺だな」


 背中で男の声がした。三人分の靴音が止まる。


 呼吸どころか心臓まで止まる気がした。


「手分けして探すぞ」

「おう」


 靴音がばらけて国道に散っていく。


 国道には「僕」の他に数人通行人がいた。警察官たちはここから離れる方向に歩いていく人を見つけては、その人の顔を確認していく。


 動かずにいた「僕」は後回しにされたらしい。けれど、見つかるのは時間の問題だ。


 「僕」はできるだけ目立たないように、道の車道側へと歩いていく。


 その時だった。


「お待たせしました! 乗ってください!」


 目の前に停車した小型の電気自動車から、「彼女」が声をかけてくる。


 「僕」はすぐにドアを開け、助手席に乗り込んだ。


 国道を一気に走り抜ける。


 バックミラーに映る警察官は、こちらに気付いていない。


「はあ……っ、はあっ、はあっ……」


 ようやく満足に呼吸をする。新鮮な空気に気管がひりつく。


「あ、ありがとう……」


 絞り出した言葉は、自分の喉から出たとは思えないほどかすれていた。


 バッグからさっき買ったペットボトルの水を取り出し、喉を潤す。


 運転中の「彼女」は、硬い表情で口を開いた。


「これから、どうするんですか」

「……この街の警察はもうあてにならない。どこまでいけばいいかはわからないけど、とりあえず隣の県の警察署までいってみよう。まともな警察なら、違法な薬を持って出頭したら身柄を確保してくれるはずだ」


 そうだ。おかしいのはこの街だけだ。ここから離れれば、ここから逃げれば、あとは警察がなんとかしてくれる。


 そうすればこの薬とも縁が切れて、いつか普通の生活に……。


「警察に捕まって、その後はどうするんですか」


 淡々とした声が車内に響く。「彼女」は目線を一切こちらに向けることなく言葉を続ける。


「『あなた』の話を信じるなら、薬を飲んで人が変わってしまった『あなた』が、この街を薬漬けにしてしまったんですよね。今の『あなた』が自首して警察が動いたとして、それで問題は全部解決するんですか?」

「それは、『僕』だってできる限り捜査に協力するよ。スマホの履歴なんかを調べれば、薬のやり取りをしていた人は割り出せる、と思う」


 そう言いつつも、確信はなかった。


 「俺」が直接やり取りをしていた以外にも、人づてに薬に手を出してしまった人がいるかもしれない。SNSの履歴にどこまでの証拠としての能力があるのかもわからない。


 なにより、警察の中に「兄弟」がいることで、警察の捜査が入る前に証拠を隠滅されてしまうことも考えられる。


 この街に根付いた悪徳の根は、簡単に取り除けないほど広がってしまっている。そんなことは、考えればすぐにわかることだった。


「『あなた』も被害者のひとりであることは確かです。でも、そもそも『あなた』が薬に手を出さなければこんなことは起きなかった。その責任をどうとるつもりなんですか」

「責任って……そんなの……」


 「僕」にどうしろっていうんだ。確かにきっかけは「僕」だけど、やったのは「僕」じゃないじゃないか。


 「僕」にできることなんて、薬と完全に縁を切って、二度と「俺」が表に出てこないようにするくらいしかない。


「刑罰を受けて……他に、なにができるっていうんだ……」


 無機質な走行音だけが響く。


 この先、「僕」の人生に何が残っているだろう。正直、目の前は真っ暗だった。


 そんな闇に差す一条の光のように、「彼女」の静かな声が響いた。


「曲を、作ってください」

「え……?」


 「彼女」は視線を半分だけ「僕」の方に向けていた。


 いつか、「僕」の歌に喜んでくれた時と同じ目をしていた。


「『私』、この街が、あのライブハウスが好きだったんです。みんながむしゃらに夢を追いかけている、そんな空気が好きだったんです。でも、この街は変わってしまった。薬がなくなっても、すぐには元には戻らないでしょう。だから、『あなた』が、『あなた』の歌で、元の街を取り戻してください」

「『僕』の、歌で……」


 言葉にして、自分が泣いていることに気づいた。


 なにもかも失ったと思っていた「僕」にも、まだ残っているものがあった。無力だと思っていた「僕」にも、まだできることがあった。


 助手席で嗚咽する「僕」に、温かい声がかけられた。


「『私』、『あなた』のこと応援していますからね」

「うん、うん……!」


 涙をぬぐい、希望を抱いて顔を上げる。


 その時、バックミラーに赤い光が映っていた。


「あ……」


 全身から血の気が引く。


 この車の数台後ろで車体の上の赤色灯を光らせているのは、まぎれもなくこの街のパトカーだった。


「スピード上げて! 今すぐ!」

「え?」

「警察が来てる! このままじゃ捕まる!」

「は、はい……!」


 「彼女」がアクセルを踏み込み、モーターが加速する。


 「彼女」の車が追い越し車線に入ると同時に後ろのパトカーも車線変更し、両者の間に遮蔽物がなくなった。


「確実にこっちを追ってきてる……! なんで!?」

「まだそうと決まったわけじゃ……」


 ――ガァン!


 「彼女」の言葉が轟音に遮られる。


 それは、あまりに現実感のない、冗談みたいに破壊的な破裂音。


 フィクションの世界ではおなじみの、人を殺すための火薬の音。


「……うそだろ」


 バックミラーを確認する。


 後部座席のガラスのど真ん中に、蜘蛛の巣のようなヒビと、銃弾が貫通した痕がついていた。


「え……。いや、うそ、なんで? なんで『私』撃たれてるの……?」


 「彼女」の顔が青ざめる。ハンドルを握る手がカタカタと震える。


「この街の警察は普通じゃない! 早く逃げるんだ! 高速に入って、県の外まで!」


 弾かれるようにモーターが回る。法定速度を完全に無視しているが、もう気にする意味もない。


 左へ、右へ、車線変更を繰り返し車を追い抜いていく。


 それなのに、バックミラーの影は貼り付いたように離れない。


 パトカーが近づくと他の車はうやうやしく道を譲り、追跡車は一直線に加速を続ける。


 じりじりと影が近づいてくる。


 「僕」は目を固く閉じて祈った。


「来た! インターチェンジ!」


 「彼女」の声に目を開ける。正面にはいくつものゲートが並んでいた。


「この車、ETCは!?」

「ついてる!」


 専用ゲートに全速力で突っ込む。


 間隔の広い、まっすぐな道路に出る。


 「彼女」がアクセルをベタ踏みして、モーターが唸りをあげる。バックミラーに映るゲートの向こうの影が小さくなっていった。


「はあ……はあ……やった……」

「あとは、このまま、県境を越えれば……」


 車はらせん状の道路を走り高架道路へと上っていく。


 窓に映る景色が広くなり、ようやく息を整えられた。


 どこまでもまっすぐに続いていく道は、「僕」がこれから切り開いていく未来を思わせた。


 ――バックミラーにその影が映るまでは。


「……は?」


 らせんを抜け、バックミラーに映り込む影は二つ。


 一つはさっきまで追いかけてきていたパトカー。


 もう一つは、車体の後ろに長い空の荷台をつけた、巨大なトラックだった。


 「彼女」も二つの後続車に気付いたのか、顔から血の気が失われていく。


「ねえ、あれ……事故車を積んで運ぶための車だよね……? なんで? なんでそんなのが高速にいるの? なんでパトカーと一緒にいるの? なんで、『私』を追ってきているの……!?」


 半ば叫びながら、「彼女」は限界までアクセルを踏み込む。


 メーターが振り切れ、車が加速する。


 しかし、パトカーの影はじわりじわりと大きくなってくる。


 その後ろから、積載車の処刑台のような威容が圧力を放ってくる。


「やだ……やだ、来ないで! 来ないでよ! ねえ、『あなた』もなんとかして! 『あなた』を助けるために来たんだから、『あなた』も『私』を助けてよ!」


 「彼女」の声に弾かれ、混乱していた意識がはっきりする。


 けれど、限界まで加速しているこの車になお迫ってくるパトカーを振り切るすべなど、「僕」には思いつかない。


 このままでは捕まり、「僕」は薬を飲まされ、「彼女」は――。


「くそっ……!」


 「彼女」だけは、こんな「僕」を助けに来てくれた「彼女」だけは守らないと。


 「僕」には「兄弟」を止められない。「俺」に体を奪われたら全てが終わる。


 エンジン音がすぐ近くまで近づいてくる。


 「僕」はディスカウントストアで買った赤い錠剤の袋を取り出し、ありったけ喉の奥に流し込んだ。「僕」に思いつくことは、これが限界だった。


「なにを、してるの……?」

「今できることを」


 パトカーは互いのサイドミラーが当たりそうなほど近くを並走している。


 こちらから見えた警察官は二人。助手席に座っている方がこちらとの距離を確認し、運転席の方は運転に集中しているようだ。まるでこれが通常の業務であるかのように、平然とパトカーを走らせている。


「あ……ああ……」


 真っ青な顔で声を震わせる「彼女」に、「僕」はなにもしてあげられない。並走したまま車間距離を開けるパトカーを、夢の中のような意識で見ていることしかできなかった。


 ――ガッギギギギギギギギィ!


「きゃあああああああ!」


 パトカーが一気に車間を詰め、横殴りに激突する。金属音と振動が全身を震わせる。


 「彼女」はハンドルを離さなかったが、それでも徐々に車は道路の端に追い込まれていく。


「いや! 怖い! 助けて! 誰か――」


 ――ゴシャアッ! ボフッ!


 前後に突き飛ばされる衝撃が全身を襲う。


 最後に見たのは、勢いよく視界を覆いつくすエアバッグと、車が衝突した衝撃で折れ曲がった県境の標識。


 「僕」の意識はそのまま闇に落ちていった。



 ――ごくん。


 喉の奥を、なにか硬いものと液体が流れていく感触がした。


 誰かの声が聞こえる。声が小さいのか、耳が遠いのか、なにを話しているのかはわからない。


 ぼーっとした意識が少しずつはっきりしてくる。


 辺りは薄暗く、話し声はエコーがかかったように反響している。


 体は硬い地面に投げ出されているようで、下になっている左肩が少しごつごつする。


 体を起こそうとして、両手と両足に冷たい輪がはめられていることに気づいた。動かした手足から、じゃらじゃらと金属がこすれる音がする。


「ん、今ので目が覚めたか」

「まだ薬が回っていないだろう。しばらくは様子を見よう」


 顔を上げると、数人の警察官が取り囲むように周りに立っているのが見えた。


 頭上には灰色の天井があり、辺りには何台もの車が並んでいた。どうやらここは地下駐車場らしい。


「……ねえ、大丈夫?」


 近くから、ささやくような声が聞こえた。


 すぐ横に「彼女」が、体の後ろで両手足に手錠をかけられた状態で転がされていた。おそらく今の「僕」も同じ体勢だろう。


「『私たち』、これからどうなるの……」


 「彼女」の瞳は潤み、声は震えている。


 「僕」はそれを支えることも、抱きしめることもできない。


 視界が歪んでいく。色彩は禍々しく鮮烈に。反響音は絢爛に。


 刺激の波が意識を埋め尽くしていくのを、「僕」は文字通り手も足も出せずに感じていた。



「……ふう」


 意識が鮮明になる。


 拘束された手足を動かし、地面から体を起こす。こちらを見つめる制服姿の人影に向かって口を開いた。


「One for all, all for one」

「おかえりなさい、『兄さん』」


 合言葉を確認した「兄弟」が、うやうやしく「俺」に近付き、拘束を解く。


 再び自由になった「俺」の体を確認し、口元がつり上がるのを感じた。


「手筈通りことが運んだようだな」

「はい。『兄さん』が眠っている間の体の動きもすべて事前の計画通りでした。いくらか予想外の行動もありましたが、スマホのGPSを切ることは思いつかなかったようです」

「全く、つくづく愚かなガキだな。それで、こいつが例の女か」

「はい。映画館の監視カメラに映っていた女です」

「え……?」


 立ち上がり砂を払い、地べたに転がっている女を見下ろす。確かに、ビデオカメラの映像で見た姿と特徴が一致していた。


「われわれ『兄弟』のことを知っており、なおかつ従わない人間はこの女で最後です」

「ご苦労。あとはこいつを始末するだけだ」

「始末……? なんで? 助けてって言ったのに。だましたの……?」


 女が惨めったらしくこちらを見上げてくる。


「全く、いつの時代のどこの国にもいるもんだな。何をしようと自分だけは正しい、自分だけは報われるはずだとのぼせ上がっている馬鹿は」


 そう、前の人生で「俺」の足を引っ張ったのもそういう女だった。


 少し考えればわかることだ。この世に絶対の正解なんてない。それなのに自分が正義の側に立っていると思い上がって余計な真似をする。


 ただ今回は、それが味方ではなく敵だったのが幸いだった。


「車を貸せ」


 「兄弟」にパトカーのドアを開けさせる。運転席に乗り込みながら、女をあごで指す。


「あれを車の前に置いて、下がってろ」


 車のギアをバックに入れる。駐車場の中に規則的な電子音が響く。


「な、なに……? きゃっ……!」


 前方に両手足を拘束された女が投げ出される。


 車を後退させ距離をとりながら、ハンドルで車体の方向を微調整する。


 前輪の延長線上に女の頭が重なるようにして、ギアをドライブに入れる。


 鳴り響いていた電子音が止まる。


「え……うそ。やだ。やだ。ちょっとまって」


 自らの運命を悟った愚かな女の声だけが響く。芋虫のように無様に這って逃れようとする。


「いや……! だって『私』、なにも悪いことなんてしてないのに……!」


 それを踏み潰すように、アクセルを踏んだ。


「いや、いやいやいや、いやあああああああああ!」


 ――ゴギャガガッ!


 ハンドル越しに、前輪が女の頭部を踏み砕いた感触が伝わってくる。


 ひと仕事終えた感慨をため息と共に吐き出し、車を降りた。


「事故死で処理しておけ」

「わかりました」


 これでこの街の情報を外に漏らす可能性がある人間はすべて消した。


 監視カメラに映っていた女の身元がわからなかった時には頭を抱えたが、この体の持ち主がすぐに他人に頼るクズだったおかげでうまく問題が片付いた。


 「俺」の楽園はここに盤石なものとなった。


 もうわざと薬の効果を切らすようなギャンブルをする必要もない。


 駐車場に「俺」の哄笑が響いた。

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