第3章 逃避、退廃、楽園
自分の浅はかさに死にたくなった。
数か月前の自分を殴り飛ばしたい。あんな怪しい薬になんて、なにがあろうと手を出すべきじゃなかったんだ。
くすくす。くすくす。「僕」の後悔をあざ笑う声が聞こえる。
昼も夜もなく、鼓膜の内側から脳髄に直接「僕」に再び薬を手に取るようささやいてくる。
「うるさい! うるさいうるさいうるさい!」
幻聴をかき消すように、ギターをかき鳴らす。
全身を這いまわる指の感触から逃れるために、ひたすら指先の弦に集中する。
けれど、出る音はよれて、リズムは安定せず、音楽すらも「僕」を見放したかのようだ。
いや、そもそも音楽が「僕」に微笑んでくれたことなど今まであっただろうか?
今さら薬から手を切ったところで、その後「僕」に何が残る? 才能も何もない、ただ死を待つだけの人間が一人転がるだけじゃないのか? だから、ほかの何を捨ててでもバンドマンとして成功する覚悟を決めたんじゃないか?
「違う違う違う! こんなのは違う! 『僕』はこんなことしない! こんなことしなくたって『僕』はやっていけるんだ!」
楽譜を読み込んで必死に指を動かす。
この曲も、薬の力で書いたものなのに?
違う、書いたのは「僕」だ。これは「僕」の中に眠っていたんだから「僕」のものだ。
なら、あの惨状も「僕」のもの?
違う、違わない、違う、違わない、違う、違わない……。
一睡もできないまま夜が明けた。
スマホのアラームが、次のライブの計画を立てるウェブ会議の予定を表示していた。
指先はまだ震えている。
今の「僕」に、満足な演奏ができるのか? いや、そもそもあのライブハウスにまた「僕」が行っていいのか?
そんな「僕」のためらいをよそに、バンドメンバーからのSNSが届く。
『よーし、それじゃ次のライブのセトリ決めようぜ』
『手堅いところで、最近の三曲を発表順にやっていけばいいんじゃないかな。観客の反応もいいし』
『曲の盛り上がり的にもそれがベストだよな。「リーダー」もそれでいいか?』
『うん』
二人のやる気の腰を折ることもできず、適当な相槌を返す。
顔を見られることがないのが心ばかりの救いだ。今の「僕」の顔を見られたら、会議どころではなくなるだろう。
『セトリはこれでいいとして、「リーダー」の調子はどうだ? 新曲はいつ頃できそうだ?』
『ああ、新曲か。ごめん、すぐには作れそうにない』
『「リーダー」どうかした? スランプかなにか?』
『まあそんなところ。ちょっと調子が悪くてさ。しばらく曲を作れそうにない』
『おいおい、大丈夫か』
『まあ最近の「リーダー」は働きすぎなところがあったから、少しぐらい休んでもいいんじゃないかな』
『それもそうだな。ゆっくり頭と体を休めるのも仕事のうちだ。「リーダー」が倒れたら「おれたち」はどうにもならないからな』
二人の優しさと信頼が弱った心にしみわたる。「僕」はお礼のメッセージを打ち込もうとした。
『「リーダー」がいなくなったら誰がみんなに薬を配るんだって話だよな!』
『うんうん。「リーダー」は薬飲んで気を楽にしてゆっくり休んでよ』
手がスマホを投げ出しそうになる。
あまりのことに全身が硬直していなければ実際そうしていただろう。
眼球に映る文字列が意味する内容が、じわりと「僕」の意識を蝕んでいく。固まった視界の中で、見たくない会話が続いていく。
『「リーダー」が休んでいる間に、「おれ」も薬キメて練習頑張るぜ』
『あんまり休んでると、「リーダー」のこと置いていっちゃうよ』
『この薬キメて練習すると、すげー集中できるんだよな。おかげで「おれたち」全員、めっちゃレベルアップできた。教えてくれた「リーダー」にはマジで感謝だぜ』
「僕」はよりにもよってこの二人にまで、いや、さっきの文面からするともっと多くの人にまで、あの薬をばらまいていたというのか。
乱れたライブハウスから逃げ出した時から薄々感づいていた事実が、最悪の形で眼前に突きつけられる。
止めなくてはいけない。けど、どの面下げて?
最初に手を出した、それを広めた張本人が、この薬は危険だから手を引こうって? それを誰が聞いてくれる?
「僕」に答えは出せなかった。
「僕」の選んだ手段は、逃避だった。
ひたすら家に引きこもって、外界との接触を断った。
間断なく襲い来る幻覚や幻聴に耐えながら、薬への依存が抜ける日を待ち続けた。
数日経つと、スマホが頻繁に着信を告げるようになった。
全て「僕」にとっては見覚えのない名前だった。いつ連絡先を交換したのかもわからない。
その誰も彼もが「僕」に薬を分けてくれと頼みこむ。
「知らない……。『僕』はそんなの知らない……。『僕』にはもう関係ない……」
「僕」の逃避をあざ笑うかのように、着信は日増しに増えていった。
「僕」はスマホの電源を切って、ベッドにもぐりこんだ。
無音になると、幻はより強く五感を侵してきた。
「僕」は部屋のテレビをつけ、ひたすらその音だけを聞くことにした。
何日が過ぎただろうか。幻は一向に勢いを緩めなかった。
空腹と乾きに耐えかねて起き上がるたびに、「僕」の神経はすり減っていった。
包丁を見ると耳を削ぎ落したくなるので引き出しの奥にしまった。フォークや箸を見ると目を潰したくなるので引き出しの奥にしまった。
ひたすらシリアルと水だけで腹を満たし続けた。視界がふらつくのが薬のせいなのか食事のせいなのかよくわからない。
そんな中、テレビのニュースの音声が、胡乱だった「僕」の意識を覚醒させた。
「……県内の暴力団事務所に家宅捜索が入りました。以前よりこの組織には違法薬物の密売の疑惑がかかっており、先日夕方に警察が捜査に踏み切ったとのことです。事務所内からは多数の違法薬物が発見されており、警察は覚せい剤取締法違反などの罪で構成員を検挙した模様です」
それは「僕」が暮らしている街のニュースだった。
ニュースは、警察はこれから薬物の取引を行っていた組織の詳細について捜査を進めていく方針だと報じていた。
「……そうだよな。違法な薬に関わったら、捕まるよな」
当たり前の事実を失念していた。「僕」は法に触れる行為をしている。
なら、遅かれ早かれ「僕」は警察に捕まることになる。そうなれば「僕」の人生は名実共におしまいだ。
そう、おしまいにできる。この行くも戻るも地獄のような状況から抜け出すことができる。
逮捕されて刑務所に入れば、薬からは完全に断ち切られることができる。前科持ちにはなるが、人生をやり直すことだってできるかもしれない。
「まだ、間に合うかもしれない」
わずかに芽生えた希望に、視界がぱあっと開けたようだった。
「僕」は久々にスマホの電源を入れた。大量のSNSの着信を無視して、ニュースに出ていた警察署の情報提供窓口の番号に電話をかけた。
「あの、すいません。違法薬物の取引についての情報提供なんですけれども……」
数時間後、玄関のチャイムが鳴った。
玄関のドアの向こうには、二十代ほどの男性の警察官が立っている。ドアを開けると、お巡りさんは丁寧に一礼した。
「お電話をいただいて参りました。違法薬物の使用について自首されたい、ということでよろしいでしょうか?」
「はい、よろしくお願いします」
「それでは、長く込み入った話になりますので、中に入れていただいてもよろしいですか?」
「僕」が道を空けると、お巡りさんは遠慮がちに中に入ってきた。がっしりとした背中がとても頼もしい。
向かい合ってテーブルに座ると、お巡りさんはまっすぐこちらを見つめて口を開いた。
「では、本題に入らせていただきます。違法薬物の使用、覚せい剤取締法などの違反について自首したいとのことですが、現在『貴方』はその違法薬物を所持していますか?」
「いいえ……怖くなったので捨ててしまいました」
「そうなると、一度簡易的な検査をして、体内に薬物が残っているか確かめる必要があります。尿検査キットはこちらに持参しておりますが、すぐにお小水を出すことはできますか?」
「すいません。待ってる間に緊張して、さっき出したばかりなので」
「わかりました。それでは、今軽く飲み物をお飲みになって、用を足す準備ができるまで他のお話をしましょう。コーヒーや緑茶など、カフェインの含まれる飲み物がありましたら、そちらを飲んでください」
言われるままにお湯を沸かし、インスタントコーヒーを淹れる。自分だけが飲むのも気まずいので、お巡りさんの分も淹れる。
久しぶりの温かい飲み物に、体の緊張がほぐれていく。
思わずため息が漏れると、お巡りさんは柔和な微笑みを浮かべた。
「部屋にこんな制服の人間がいたら難しいでしょうけれど、どうかリラックスしてください。『貴方』は今回自首されましたので、犯罪行為に対する反省を示すことができれば減刑も十分考えられます」
「減刑……。あの、具体的にはどれくらいになるんでしょう?」
「そうですね。違法薬物の所持であれば、まず『貴方』の犯行に至るまでの経緯などを考慮したうえで七年以下の懲役刑が課されます。ここから減刑措置が行われ、刑期が半分になります」
「それでも、三年半はかかるんですね」
自分のしたことの重さを、今更になって思い知る。
こめかみを押さえる「僕」に、優しい声がかけられる。
「安心してください。七年というのはもっとも重い場合です。『貴方』の犯行当時の状況など、様々な要素を考慮して情状酌量の余地ありと判断されれば、刑期はもっと短くなります。ですので、ここからの調査に嘘偽りなく、正直にご協力いただければ、それが結果的に『貴方』の負担を減らすことになります」
「はい……わかりました。全部、正直に話します」
それから「僕」はお巡りさんに、自分がバンドマンとして行き詰っていた時に「彼」に渡された薬に手を出したこと、その後も薬に頼って作曲や音楽活動を続けていたことなどを話した。
バンドメンバーやライブハウスの人たちについては伏せておいた。「僕」の一存で話していいことかどうかもわからなかったし、なにより「僕」自身に記憶がないから語りようがないというのもあった。
「僕」の話を、お巡りさんは神妙な表情で聞き続けた。
「なるほど。だいたいの事情はわかりました。正式な供述書類は署の方で改めて作ることになります。ところで、尿検査の方の準備はそろそろお済みですか?」
「そういえば、そろそろ出そうですね」
話している間に体の緊張がほぐれたのか、かすかな尿意を感じ始めていた。
「では、こちらの検査キットを使って、検体を採取してきてください」
健康診断で使うような折り畳み式の紙コップとスポイトを渡され、トイレに入る。
紙コップに入れた小便をスポイトで吸い上げ、蓋を閉める。
手を洗ってリビングに戻ると、お巡りさんがコーヒーを飲んで待っていた。
「お疲れ様でした。これから検査しますので、結果が出るまでしばらくお待ちください」
お巡りさんは板状の器材にスポイトから検体を垂らし、腕時計で時間を確認した。
結果が出るまで時間がかかるようなので、「僕」はマグカップに残っていたコーヒーを飲みつつ今後のことを訪ねた。
「あの、これから『僕』はどうなるんですか?」
「そうですね。検査の結果が出て、薬物反応が陽性となれば、署までご同行いただくことになります。それからもろもろの書類の手続きをして、正式に逮捕という流れですね」
「逮捕……。そうなれば、当然拘置所とかに送られて、薬からは切り離されますよね?」
「ええ。その場合は」
やった。これで楽になれる。もう薬に悩まされることはない。
夢心地で、頭がふわふわする。さっきまでの緊張が嘘のようだ。
安心した「僕」に合わせるように、お巡りさんも笑顔を浮かべている。
「もちろん、それは検査結果が陽性の場合ですが」
「……え?」
お巡りさんは笑顔を崩さずに、淡々と言葉を並べていく。
「検査結果が陰性であった場合、『貴方』に違法薬物使用の事実はないものとみなされ、この件はなかったことになります」
「なかったことって……『僕』は確かに……」
「まあ落ち着いて。コーヒーでも飲んでください」
勧められるままにマグカップを傾ける。口の中に流れ込んでくる液体の中に、ざらざらとした食感がした。
砂糖を入れた覚えはない。
コーヒーの溶け残りだろうか、とマグカップの底をのぞき込む。
そこには、見覚えのある、白っぽい、砂糖菓子を砕いたような、粉末の欠片が残っていた。
「……は?」
一瞬で、悪寒と疑問が意識を満たす。
これは、なんだ? もしかして、あの薬か?
なんでコーヒーの中に入ってる? いつの間に、誰が?
混乱する「僕」をよそに、笑顔のお巡りさんは検査キットを覗き込んでいる。
「検査結果が出たようです。これは陰性ですね。なので、署にはこの件は『貴方』の勘違いとして報告させていただきます」
「勘違いって、そんな、はずは……」
景色が歪む。意識が明滅する。
この感覚は、間違いない。あの薬を飲んだ時のものだ。
なぜ、という言葉で頭がいっぱいになる。
ろれつが回らなくなってきた「僕」に対して、お巡りさんは歪んだ笑顔で語りかける。
「実際、大変なんですよ。警察に通報された電話は基本的に録音されていますから。電話がかかってきた事実そのものはなかったことにはできません。でも、そこから先の処理に関しては、『兄弟』がなんとでもできるんですよ、『兄さん』」
薄れゆく意識の中で、「僕」はまた間違えたのだと、歯を噛み締めた。
長い眠りから覚め、「俺」は自分の体を確かめるように両手を握り締める。
「苦労をかけたな、『兄弟』」
「いえ、事前に『兄さん』から、連絡が取れなくなった時の対処法については聞いていましたから。おかえりなさい、『兄さん』」
「ああ、ただいま。この様子だと、首尾よくことが運んだようだな」
「はい。既にうちの署の末端はほぼ全員われわれ『兄弟』のメンバーです。この街で起きるあらゆることは、『兄さん』の指示でコントロールできます」
口元がつり上がる。これでこのやり直しの人生は完璧なものとなった。
前回のようなヘマはしない。音楽も、ドラッグも、セックスも、この世界での楽しみには制約が多すぎる。
思えば前の「俺」はその制約のために失敗したと言ってもいい。
だが、この街で「俺」と「俺」の新しい家族、「兄弟」を縛るものはもう存在しない。
「街に出るぞ。車を回せ」
警察官の「兄弟」と共にアパートを出る。
スマートフォンには無数の「兄弟」からの着信が放置されていた。停めてあったパトカーの後部座席に乗り込み、メッセージをチェックしながら、運転席に座った「兄弟」に声をかける。
「『俺』が『俺』でなくなっている間、何か変わったことはあったか?」
「この街で『俺たち』と競合していた暴力団の事務所を、警察を使って潰しておきました。これでこの街で薬の販売は『兄弟』が一手に握ったことになります」
「よくやったな。商売敵は少ないに越したことはない」
「それと、『兄弟』に新しく入った若いのの母親が息子を探しに来ていろいろ騒いでたんで、他の署に情報流される前に事故死させました」
「ああ、それでいい。『兄弟』を脅かす芽は早めに摘んでおけ」
「俺」の意識が眠っている間に来ていたメッセージに返事を打ち続ける。どれもこれも、「俺」に演奏や薬の施しを求める声だった。
「『俺』が起きる前のこの体はどんな奴だった?」
「薬に手を出したことを後悔して引きこもり、最終的には警察に自首しようとしてましたね。ただ、知っていたはずの『兄弟』のことを話さなかったあたり、問題を大事にする気はなかったみたいです」
「ふん。思った通り、この体の元の持ち主はくだらねえ野郎だったようだな。でかいことを成し得る才もなく、つまらんしがらみを捨て去る度胸もない。この人生、そんなゴミに浪費させるぐらいなら、『俺』がこの街に楽園を築くために使ってやる」
「さすがです『兄さん』。それで、どこに行きますか?」
「まずは薬局だ。手持ちの薬を補充しないとな。それが終わったらライブハウスだ。『兄弟』が『俺』を待っている」
車窓から流れゆく街の景色を眺める。
かつて「家族」と過ごした街とは違うが、ここも悪くはない。体感でひと月足らずしか過ごしていないが、ここにもあの街と似た匂いが漂っている。
窮屈な日常。変わらない現実。そんなものにとっくに愛想をつかしながらも、どこにも行く当てのない奴らの声が吹き溜まっている。
そんな奴らのための楽園を「俺」が築く。このクソったれな世界が勝手に腐れ落ちて滅ぶその時まで、「俺たち」が享楽に浸る楽園を。法律も道徳も宗教もクソくらえだ。
……だが、前回は焦り過ぎた。失敗は謙虚に受け止めなくては。
前の人生で、「俺」はこの世界への嫌悪と義憤に駆られるあまり、自分自身の手で腐った世界を終わらせようとしてしまった。「家族」と協力して、この世界に破滅をもたらしてやろうとしたのだ。
だが、世界はのうのうと生き汚く続いていき、それどころか「俺たち」は警察に捕まり、死ぬまでブタ箱の壁を眺める羽目になった。
今、こうして文字通り生まれ変わり、二回目の人生を送るチャンスを得た以上、前回のようなヘマはしない。
世界なんざ「俺」が何かしなくても勝手に滅ぶ。
「俺」はただ、「俺」と「兄弟」が幸福に過ごせる場所を作り、守ればいい。「俺たち」が自由に生きられる小さな世界があれば、それでいい。
「『兄さん』、薬局に着きました」
街外れの個人経営の小さな薬局のドアを開ける。
老齢の薬剤師がカウンターで出迎える。「俺」の顔を見て要件を察したのか、通りに面した窓のブラインドを閉めた。
「いらっしゃい」
「しばらくぶりだな。いつもの、まとめて頼む」
「あいよ」
「親父」が奥に引っ込んでいく間に、手持ちの現金を確認する。
「ちっ、シケてやがる」
「なんなら今回もツケにしておくかい?」
「いいのか?」
「『旦那』は上客だからね。踏み倒さない限りは大目にみるよ」
「ありがとう。売り上げが出たらすぐに払いに来る」
「じゃあこれ、いつもの。これだけあれば数百人の一週間分ぐらいにはなるだろ」
カウンターに段ボール箱が置かれる。
中身を確認し、自分の手持ち分をケースに確保しようとして、バッグの中に入れていたケースがなくなっていたことを思い出した。
「ついでに薬のケースもつけてくれ。前のをなくしたんでな」
「あいよ。今後ともごひいきに。それにしても、『旦那』が来るのも久しぶりだが、『旦那』を紹介してくれた『あんちゃん』ももうずいぶん来てねえなあ。『旦那』ほどの太客じゃないが、うちの常連だったんだが」
「さあな。どこかの海で泳いでるんじゃないか」
軽い雑談を交わしながらケースに薬を数十粒ほど移し替える。
薬局を出る前に、「親父」に礼がてら土産を残すことにした。薬局前で待っていたパトカーから、一枚ステッカーを取ってきて「親父」に渡す。
「『親父』。もう『俺』が来た時にブラインドは下ろさなくていいぞ。代わりに店先にこれを貼っておけ。それを貼っておけば、この街で『親父』の商売に文句をつける奴はいなくなる」
それは、「警察官立ち寄り所」と書かれた赤いステッカーだ。
今や「兄弟」の証となったそれは、この街のいたるところに貼られている。この赤い掲示のある場所で起きたことにケチをつける人間はもうこの街にはいない。
再び乗り込んだパトカーをライブハウスへと走らせる。
パッシングなどをしなくとも、行き交う車がおのずから道を譲る。この街においてパトカーはそういうものになっていた。
「ライブハウスでは何をするつもりなんです?」
「せっかく久々に『兄弟』を集めるんだ。薬を配るだけじゃ味気ないだろ。ライブをしてそのままパーティだ」
バンドメンバーには既に招集をかけておいた。今頃二人ともライブハウスに向かっている。同時に、他の「兄弟」への呼びかけも済ませてある。
この車が着く頃には、あの地下室は「俺」を待ちかねた「兄弟」でひしめき合っているだろう。
ああ、懐かしい陶酔と快感の狂騒曲が「俺」を待っている。ルームミラーに映る口元がつり上がっていた。
「ライブかあ。聴きにいきたいけど、まだ勤務時間なんですよね。『兄弟』のみんなが羨ましいです」
「心配しなくても何度でも開いてやるよ。この街は『俺たち』の楽園だ。望むものはなんでも手に入る。『俺』がそうしてやる」
「期待していますよ、『兄さん』。……と、着きましたね。それでは頑張ってください。『本官』は勤務に戻ります」
雑居ビルの地下へと続く階段を下りていく。
階段を一歩下りるごとに、通路を一歩進むごとに、期待と興奮で揺れる空気を肌が感じる。
そして、「俺」が会場の扉を開け放った瞬間、歓声と喝采が大気を震わせた。
「待たせたな、『兄弟』」
波のように押し寄せる「兄弟」をかき分ける。
調達した薬をマスターに渡し、ステージに上がる。
ステージではバンドメンバーの二人が演奏の準備をして待っていた。
「よう『リーダー』! ずっと返信なかったけど、調子はもういいのか?」
「ああ。この通り、すこぶる快調だよ」
「だけど、復調したとはいえいきなりライブなんて大丈夫なの? もう少し休んでからでも……」
「問題ない。みんなを待たせた分、しっかりアゲてやる。『お前ら』こそしっかりついてこいよ」
「上等!」
やがて、マスターが会場の「兄弟」に薬を配り始めた。待ちかねた「兄弟」がカウンターに殺到する。この分なら「親父」へのツケはすぐに返せるだろう。
「ん……?」
人ごみの中に、騒がしいやつがいる。
どうやら薬代が払えずごねているらしい。せっかくのライブに水を差されるわけにはいかない。
「おい、そこのやつ。手持ちの金が足りないならこっちへ来い。後ろがつかえてる」
人ごみから離れ、一度ライブハウスを出る。
騒いでいた男は、この体とそう歳の変わらない、頭の弱そうな感じのやつだった。
ビルの裏の周りから見えない場所で向かい合うと、男は「俺」に拝むように手を合わせた。
「なあ『兄貴』、あの薬もっと安くしてくれよ。『兄弟』だろ? なあ?」
「別に今払えないならツケにしてやってもいいが、それは結局後で払うんだぞ。そのアテはあるのか」
「それはまあ、ほら、その時になったら考えるからさ……。頼むよ『兄貴』! この通りだ!」
目の前の男が何も考えていないのを隠そうともせずに手を合わせ頭を下げる。
「俺」は小さく息を吐いた。
「わかった。今回はツケにしておくよう『俺』からマスターに伝えてやる」
「やったぜ! サンキュー『兄貴』!」
男はライブハウスへ戻ろうと「俺」に背を向けた。
「俺」はポケットからカッターナイフを取り出し、男の背後に立つ。
「そうだ。『お前』にひとつ伝えておかなくちゃならんことがある」
男が足を止め、振り返るよりも早く、カッターで男の頸動脈を切断した。
「か……あ……?」
「『兄弟』というのは、苦楽を共にし、楽園を築くために支えあうものだ。『お前』のような最初から他人の力に寄生するだけのクズは『兄弟』ではない」
噴き出す鮮血を眺めながら、最期まで自分が死んだ理由を理解できないまま男が崩れ落ちる。
服に返り血がついた様子はないが、一応控え室の鏡で確認した方がいいだろう。
スマートフォンで警察勤めの「兄弟」に死体の処理を頼みながら、「俺」はライブハウスに戻った。
些末事を片付け、準備は整った。ステージから「兄弟」に宣言する。
「さあ『兄弟』! 待たせたな! 準備はいいか!」
歓声と共に、「兄弟」が薬を噛み砕く。会場の全ての人間が、極彩色の世界を共有する。
刺激に満ちた色彩の中に、世界を繋ぐ「俺」の旋律が満ちていく。
『I’ve come back』。「俺」は帰ってきた。このクソったれな世界に、「俺たち」の楽園を築くために。
『Here is our home』。ここが「俺たち」の居場所だ。誰にも侵させはしない。
そして、『Locked Paradise』。「俺たち」の絆は誰にも切れない。邪魔者はすべて排除する。
歌声と共に、「兄弟」の理念が浸透していく。誰もが、この居場所を、この快楽を、守り続けたいと強く願っている。
裏切り者など出ようはずもない。不安分子は最初のうちにすべて消しておいた。
故にこそ、この地下空間はかつての「俺」が夢見た理想郷を体現している。
繰り返されるアンコールに応えたのち、やがてライブ会場はパーティ会場へと変貌していった。「兄弟」の誰もが放埓に快楽を貪っている。
「俺」も代わるがわる寄りかかってくる「妹たち」を愛でながら、満たされた時間を過ごした。
そんな中、意識に不快なノイズが走った。
「ちっ……もう時間か」
融け落ちるように、世界が色彩を失い始める。胸を満たしていた高揚感が熱を失っていく。
薬の効果が切れ始めているのだ。このまま何もしなければ、「俺」の意識は再び眠りにつき、あのくだらない野郎が目覚めることになる。
「ねぇ、どうかしたの『兄さん』?」
「いや、なんでもない」
そんなくだらない未来を、「俺」は認めない。
ポケットから薬のケースを取り出し、調達したばかりの薬を一粒噛み砕いた。
次第に視界に色が戻り始め、眠りに落ちる前のような浮遊感は消えていった。
「『兄さん』、まだキメるの? そろそろみんな寝始めてるけど?」
「ああ、『俺』も休む。その前に一粒飲んでおくだけだ。こうすれば、いい気分で朝を迎えられるだろ」
薬がキマっている間しか意識が保てないのなら、常に薬を飲み続ければいい。
これまでは様子を見ていたが、この街で「兄弟」と暮らす基盤が整い、薬を得るルートも確立した今、もうそんな必要もない。
この体の元の意識に、体を預けるだけの価値がないこともはっきりした。これからはこの体は「俺」が使う。
「さあ、明日はどんなことをしようか」
これから始まる夢のような日々に胸を躍らせながら、「俺」は目を閉じた。
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