第2章 楽観、侵食、暗転
次の曲も、作詞作曲に一日かからなかった。例の薬がもたらしてくれる集中力はすさまじい。
朝に薬を飲んで、気付いたら夜になっていて、曲ができあがっていた。
曲名は『Here is our home』。また全編英語の曲だ。
前の曲は全体的に静かで、盛り上がるところは熱い感じの曲だったが、今度の曲は始めから終わりまで温かく、優しく包み込むような感じだ。
さて、曲ができても練習しなければ始まらない。スマホでバンドメンバーと新曲の楽譜を共有し、スタジオを予約する。
『またすげー曲書いてきたな! 最近の「リーダー」引き出しやばくね?』
『前回とはまたずいぶん曲調変えてきたね。「ぼく」ちゃんと合わせられるかな……』
『弾いてて気になるところがあったらいつでも聞いてくれ』
『「リーダー」が頼りになりすぎる!』
『うんうん。ギターも歌も磨きがかかってるし。なにか練習とか変えた?』
『別に。ただちょっと覚悟を決めただけだよ』
『精神論かよ! なんの参考にもならねえ!』
『そうだな、今度のスタジオ練の時にでも話すよ』
CDや楽曲ダウンロードの売り上げが増えたおかげで、バイトの日数が少なくなっても生活していけるようになった。
空いた日は練習か、「彼女」とのデートに使えるようになった。
これまでの綱渡りのような生活からしたら考えられないような充実した日々だ。
練習の時も、薬を飲むと文字通り寝食も忘れて練習に没頭できた。気付けば腹ペコで夜になっている。
この調子で薬を使っていたら、手持ちのものはすぐに無くなってしまうだろう。近いうちに「彼」と連絡を取って薬を融通してもらわないと。
「『リーダー』、そっちの肉もう焼けてんじゃね?」
「あ……? ああ、そうだな」
箸はなにもない空中を掴んでいた。テーブルの上の七輪には焼けた肉と野菜が並んでいる。手近な焦げそうなものをつまんで手元の皿に乗せていく。
「いやー、こうしてスタジオ練の後に焼肉食えるようになったのも、『リーダー』のおかげだよなあ」
「ちょっと前まではせいぜいファミレスだったからね。まだ音楽で食べていけるとまでは言えないけど、それももう夢じゃない感じがするよ」
「おいおい、焼肉くらいでちょっと気が大きくなりすぎじゃないか、『お前ら』。まだまだこれからだろ」
「いやいや、この前の曲だけならまぐれかもって思ったかもしれねーけど、今回の新曲でまぐれじゃないってはっきりわかったよ。『おれたち』イケるって!」
「そうだね。『リーダー』に引っ張られて『ぼくたち』もぐんぐん良くなってるのがわかる。感謝してるよ、『リーダー』」
「なんだよ急に……。そんなことより肉食べようよ」
焼肉の間、二人はずっと「僕」のことを持ち上げてきた。なんだかむずがゆい。
「僕」が肉を食べている間も、二人のよいしょはずっと続いた。酒を飲んで酔いが回っても、二人のテンションは変わらなかった。
飲み会がお開きになるまで、二人はずっとそんな調子だった。
翌日は「彼女」とのデートだった。異性と付き合うこと自体が初めての「僕」には、まだデートとはどういうことをすればいいのかもよくわからない。
今回は彼女の提案で映画を観に行くことにした。
「こうして映画館に来るのは、子どもの頃以来だなあ」
「そうなんですか?」
「うん。高校からずっとバンドばっかりやってたから。休みの日はずっと音楽漬けだったよ」
「バンドを始めたきっかけとかはあるんですか?」
「中学の時にたまたま観に行ったライブがすごくって、自分もあんなふうになりたい、って思ったのが始まりかなあ」
「それで今まで続けてらっしゃるんですね。バンドの他のお二人も高校から?」
「ううん。高校や大学の軽音部でもバンド組んだけど、進学とか就職とかでみんなバラバラになっちゃった。今のバンドメンバーは『僕』が大学を卒業してからあのライブハウスで集めたんだ」
「やっぱり、ひとつのことを続けるのって難しいんですね……。それができる『あなた』はすごい人だと思います」
「いや、はは……」
まっすぐな称賛が照れくさくて頬をかく。大人びた雰囲気の「彼女」に認めてもらえると、それだけで心が満たされる。
「『私』も、学生時代は習い事とか部活とかいろいろやってたんですけど、全部なんとなくで、特に目標とかも無くて。だから、働き始めて忙しくなったらやめちゃって。そんななんにもない『私』を、『あなた』みたいな人が選んでくれたことが、本当に夢みたいです」
「『僕』も、夢みたいだよ。『君』にそんな風に思ってもらえるような人間になれるなんて、少し前まで思ってもみなかった」
お互いに自信のなさを補い合える。それはとても尊い関係に感じられた。
「僕たち」はほほえみを交わして街を歩いていく。
やがて、「彼女」が選んだ映画館にたどり着いた。
それはなんの変哲もない、大型のビルの中にいくつかのスクリーンと商業施設が詰め込まれた、一般的な映画館。
けれど、その入り口で「僕」の足は凍り付いた。
「あの、どうかしましたか?」
「……いや、なんでもないよ」
笑顔を作り、建物の中に入っていく。入口の横に貼られた「警察官立ち寄り所」の掲示を頭から振り払いながら。
それから「僕たち」は並んで外国のコメディー映画の吹き替え版を観た。
薄暗い中で「彼女」の笑顔を見ているうちに、胸に刺さったトゲは忘れられた。
「映画、面白かったですね。これからどうしますか?」
外の明るさに目をしばたかせながら、「彼女」が「僕」の顔をのぞき込む。
今日の予定は映画以外は決めていなかった。
「よかったら、これからカラオケに行かない? 『君』に聴いて欲しい曲があるんだ」
適当な店を選んで部屋をとる。ドリンクを持ってソファに座ると、「彼女」が期待に満ちた目を向けてきた。
「あの、聴いて欲しい曲って、もしかして」
「うん、新曲。前に言ったでしょ。もっと近くで、『君』のために歌いたいって」
スマホで先日のスタジオ練の音源を再生して、マイクを握る。「僕たち」だけのためのミニライブが始まった。
こんな至近距離で「彼女」の視線を感じながら歌うのは初めてだ。
練習はしたつもりだったが、何度かとちってしまう。
それでも、曲が終わると「彼女」は目を閉じて余韻をかみしめるようにしながら拍手を送ってくれた。
「……今回の曲も、すごく良かったです。英語の歌詞だから意味はちょっとしかわからないけど、自分はここにいていいんだ、って安心できる感じというか」
「よかった。『君』にそう言ってもらえて、『僕』も安心した」
「『私』、ライブで飛んだり跳ねたりするのが得意じゃないので会場では後ろの方で聴いてますけど、それでも『あなた』のことを応援してます。頑張ってください」
「うん。これ、次のライブのチケット。あげるから来て」
「はい。あれ、ちょっと待ってこの日は……」
チケットを受け取った「彼女」がスマホを取り出す。
「ごめんなさい、この日は午後から仕事が入ってるみたいです……。『あなた』のバンドの出番はいつですか?」
「多分いつも通りライブの最初の前座だと思うよ」
「よかった、それなら『あなた』の演奏は見れそうです。最後まではいられませんけど、応援しにいきますね」
「ありがとう。『君』もお仕事頑張ってね」
それから何曲か二人でカラオケを楽しんで、デートはお開きとなった。
別れてからもずっと夢の中のようで、頭がふわふわしていた。にやけそうになる口元を隠すようにスマホをかざしてスケジュールを確認する。
次のデートはライブの翌日になりそうだ。
さっきは「彼女」の前で緊張してしまったが、ライブで同じことを繰り返すわけにはいかない。しっかり練習しないと。
帰宅して、床に就く前に軽くコード進行を復習する。
「……あれ?」
練習はしているはずなのに、思ったように指が動かない。スタジオ練で録音した音源はもっとスムーズに弾けていたし歌えていたのに。
「薬がないと、いまいち気分がのらないのかな……」
あの薬は「彼」から融通してもらってまだいくらかストックがある。
けれど、今日はもう夜も遅いし、「彼女」とのデートで楽しみつつも緊張した後だ。本腰を入れた練習は今度でいいだろう。
大丈夫、あの薬があれば、「僕」はいつだってスターになれるんだから……。
「それにしても、『キミ』もすっかりこちら側に来たね」
「え? ああ、はは……」
「なんだいその気の抜けた返事は。もう『キミ』にもたくさんのファンがついているじゃないか。『キミ』のバンドの名前だけでも十分会場のキャパを埋められるようになった。変わったんだよ、『キミ』は」
目の前の「彼」がぽんぽん、と肩を叩いてくる。対等な友人のように。
実感がない。ついこの間まで天と地ほども差があった人と、こうして差し向かいで話していることに、頭がついてこない。
「どうした? 何かほかに気になることでも?」
自分の情けない本音を口にするのがはばかられ、「僕」は別の話題をひねり出した。
「それにしても、あの薬っていったいなんなんですか? あの薬でトリップしている間は、これまでの自分とは別人みたいなパフォーマンスが出せるんです。薬ってそういうものなんですか?」
「僕」の質問に、「彼」は少し言葉を選ぶように首を傾げ、やがて静かに口を開いた。
「そうだね……一言でいえば、降りてくるんだよ。神とか、精霊とか、そういうものが」
「……は?」
突拍子もない単語に、思わず気の抜けた声が漏れる。
「聞いたことないかい? どこだかの宗教では、薬物によるトリップを神とつながっている状態だと解釈してたことがあるって」
「なんというか……スピリチュアルな話ですね」
「まあさすがに本当に神やら精霊やらが降臨して『オレたち』に憑依しているとまでは言わないよ。けど、現代の科学でも人の脳の仕組みについてはわかっていないことも多い。この薬が『オレたち』の脳になんらかの作用をもたらして、別人のような力を出させてくれる。これだけは確かだよ」
「彼」は半ば冗談めかして答えを締めくくった。なぜか、後半の科学的な答えよりも、前半のスピリチュアルな答えの方が「僕」の頭に残った。
「なんにせよ、薬のおかげで『僕たち』は成功できてるわけですから、感謝しないといけませんね。薬が足りなくなったら、また融通してください」
「おいおい、寝ぼけてるのかい? 今さっき、『キミ』を薬屋に紹介したばっかりじゃないか」
「え……」
いつの間にか手に持っていたスマホを開く。SNSの連絡先の一番上に、「薬局」とだけ書かれたアカウントが追加されていた。
よくよく思い出すと、さっきまで「彼」と街外れの薬局にいた気もする。直前のことなのに、記憶があいまいだ。
「『オレ』は『キミ』を同士だと思っているからね。薬屋を紹介したのはその証さ。これからも共に頑張ろうじゃないか」
「はい……」
「ん……」
カーテンから差し込む朱色の光で、目が覚めた。頭がぼーっとして、自分がどこにいるのかわからない。
何度も目をこすり、ようやく自分が自宅のベッドの上にいて、窓の外が夕方になっているということを理解した。
「まず……寝過ぎた……」
スマホを開き、時間を確認する。
「え……」
信じられない。カレンダーは今日がライブの翌日、「彼女」とのデートの日だと表示していた。
SNSには「彼女」からの呼び出しが何件か入っている。慌ててスマホを操作し、「彼女」に寝坊したことを伝える。
『連絡が取れて安心しました。返事がないから何かあったんじゃないかと思って』
『本当にごめん、今さっき起きたんだ』
『昨日のライブ、前にも増してすごい熱量でしたからね。疲れるのも無理ないと思います。今日は無理せずゆっくり休んでください』
『ありがとう。本当にごめんね。この埋め合わせは必ずするから』
『気にしないでください。おやすみなさい』
スマホを置き、ベッドに仰向けに倒れ込む。確かに、体にはまだだるさが残っていた。
「……よっぽど興奮してた、のかな」
ベッドに入る前の記憶を遡ろうとする。けれど、もやがかかっていてはっきりとは思い出せない。
打ち上げ……ライブ……練習……断片的な記憶だけが頭の隅に引っかかるように残っている。
落ち着いてもっとはっきり思い出そうとしたところで、「僕」は自分がどうしようもなく空腹であることに気づいた。
「とりあえず、何か食べるか」
冷蔵庫の中は、最後に見たときとほとんど変わっていなかった。ただ、その最後がいつだったかははっきりとは思い出せない。
かすかな違和感を感じながら、「僕」は賞味期限を一日過ぎたラーメンを冷蔵庫から取り出した。
次にできた曲は、熱く激しい曲だった。
曲名は『Locked Paradise』。歌詞に口語的な表現が多く、うまく訳すことができない。ただなんとなく、身近な人との絆を大切にしようと歌っていることはわかる。
まあ歌詞はともかくとして、また聴く人の心に響く曲になっている。きっと次のライブも成功するだろう。
「次のライブも、か」
自分の口から出た言葉に、妙に現実感がない。
「僕」はそれが何による違和感なのかわからないまま、薬を口にしてギターを手に取った。
時間が矢のように過ぎていく。身の回りの変化が急すぎて、ついていけない。
ついこの間まで他のバンドの前座しかやらせてもらえなかった「僕たち」が、いつのまにか単独でライブを開いている。しかもチケットは予約で完売状態。
街を歩いていて、目線を感じたり声をかけられたりすることも増えた。こんなことは今までにはなかった。
「彼女」とのデート中に、遠目に「僕」を見ていたグループが「僕」のことを「兄貴」と呼んでいるのも聞いた。
「ファンの中には、『あなた』のことをそう呼んでる人たちもいるみたいです。最近流行ってるみたいですよ」
「そんな風に人から慕われたことがないから、戸惑っちゃうな」
「そうなんですか? 最近のライブの『あなた』は、ずいぶんと観客を盛り上げるのに慣れているように見えますけど」
「そう、なんだ……」
正直、まったくと言っていいほど覚えがない。
最近分かってきたが、薬でトリップしている間はパフォーマンスが上がる代わりに記憶がほとんど残らないらしい。
練習でもライブでも、「僕」に分かるのは周りが「僕」を絶賛してくれているという結果だけで、「僕」が今どんな演奏をしているのかは「僕」にもわからなくなっていた。
これは、まずいのだろうか?
「僕」は結果を出して、みんなに認められている。それなら、その過程にこだわるのは些末事だろうか?
「あの、どうかしましたか?」
「いや、なんでもないよ」
難しいことを考えるのはやめよう。今はバンドマンとして成功して、こうして「彼女」も隣にいてくれている。それでいいじゃないか。
今日は久しぶりに「彼女」と街で買い物をする時間がとれたんだから、それを楽しもう。
「おい、『兄ちゃん』。ちょっといいかい」
突然背中にかけられた声に振り向く。
またファンの誰かだろうかと思って作った笑顔が、一瞬で凍り付く。
がたいのいい体にスーツを纏った三十代ほどの男が、ひりつくような威圧的な視線を「僕」に注いでいた。かっちりと固められた髪、高級そうなサングラス、引き絞られた口元。
頭からつま先まで、堅気の人間ではないことが一目でわかるようないでたちだ。
「あ、あの……『僕』に何かご用ですか……?」
おそるおそる、相手を刺激しないように丁寧な口調で応対する。
隣の「彼女」は不安そうに「僕」を見つめている。「彼女」がトラブルに巻き込まれないように遠くに行ってもらおうかとも思うが、目の前にいる相手を無視してそんな話ができる度量は「僕」にはなかった。
「『兄ちゃん』だろ? 最近ここらで幅を利かせてきてる若いのってのは」
「え、ええと、たぶん、その、はい。最近はファンの人も増えてきてくれているみたいで……」
「そういうのはいいんだよ。『ワシ』が言いたいのはな? ここらで商売するんだったら通すべき筋ってもんがあるってことなんだよ。わかる?」
「商売って言っても、『僕たち』はライブハウスでCD売ってるくらいで、大した金額じゃあ……」
戸惑う「僕」に対して、目の前の男は明らかに苛立ちを募らせていく。
大きく舌打ちをして、鼻息がかかりそうなほど近くまで踏み込んでくる。
「しらばっくれるのはよそうや『兄ちゃん』。こっちはここいらの事情については全部把握してんだ。あんまり聞き分けがねえようなら、ちょっと事務所まで来てもらうことになるんだけどなあ」
あまりの状況に、指一本動かせない。
心臓の音がやけに大きく聞こえる。
男が「僕」の腕を掴もうと手を伸ばしてくるのがスローモーションに見える。
どうしたらいいのかわからないまま突っ立っている「僕」の前で――。
「……あ?」
男の腕が、止まる。
横から伸びてきた別の手が、男の前腕を掴んでいる。Tシャツの上からパーカーを羽織った二十代前半ほどの青年が、にこやかな笑顔を男に向けていた。
「『おじさん』、なにしてるの?」
「こっちは今大事な話してんだ。邪魔すんな『ボウズ』」
「『ボクら』も『おじさん』に大事な話があるんすよねー。ちょっとこっち来てもらってもいいっすか?」
「ああ? 『てめえ』なに言って……」
そこまで口にして、男の表情が固まる。「僕」も周囲の状況が視界に入ってきて、異常に気づく。
いつのまにか「僕たち」は、十数人の若者に取り囲まれて、通りから完全に遮断されていた。
若者たちの服装に統一感はない。誰も彼も、休日の街で買い物をしていそうな普通の学生風の若者だ。
ただそれが壁のように密集し、周囲の目線を遮っているさまは、明らかに異様だった。
「な、なんだ『てめえら』……!」
「そっちこそ、この街で『兄貴』に向かってずいぶんな態度とってたみたいじゃないっすか。ちょっとこの街のルールってもんを知ってもらいましょーか」
人の壁からさらに数本の腕が伸びてきて、男の身動きを封じる。何本もの腕が屈強な男から身体の自由を奪っていく。
「『てめえら』、『ワシ』が誰だかわかってんのか!」
「知らねーよ。この街の中では『俺たち』がルールだ。それに従わねーなら、それ相応の報いを受けてもらわねーとなー」
ずるずると、男が引きずられていく。人の壁に飲み込まれ、姿が見えなくなる。
なにやら叫んでいたが、すぐに声がしなくなった。
やがて、人の壁は男ごと街の路地裏に入っていった。
「お騒がせしました」
最後に若者の一人が「僕」の方に一礼して、路地裏に入っていった。その笑顔は柔和なものだった。
休日の街の光景が戻る。
「僕」と「彼女」は、直前のできごとを受け止めきれず、呆然と立ち尽くしていた。
ごすっ、ごすっ、と重く鈍い音が路地裏から「僕たち」の耳に届く。あそこで今何が行われているのか、恐ろしい想像が意識を満たす。
「あ、あの……止めないと……でも、どうしたら……」
「彼女」が「僕」の袖をつかむ。
「僕」は辺りを見回し、誰かに助けを求めようとした。
けれど、「僕」の目に映るのはさらなる異常な光景だった。
いつもどおり過ぎる。
ほんの数十秒前のできごとが、今も響いている暴力の音が、まるでないものかのように街の人々は休日を過ごしている。
通行人を呼び込む靴屋の店員も、ゲームセンターの入口でクレーンゲームに興じる学生も、一連の異常に一切関心を持っていない。
「僕」は薄ら寒いものを感じて、「彼女」の手を握りその場から離れた。
どこに行っても心が休まる気がしなくて、気付けば駅に着いていた。
「きょ、今日はなんか遊ぶ気分じゃなくなっちゃったね。今日はここまでにして、デートはまた今度にしようか」
取り繕いながら振り向くと、「彼女」は「僕」に不安そうな目を向けていた。
「どうして、止めなかったんですか……?」
「え……? だって、巻き込まれたら怖いし……」
「でも、あの人たちは『あなた』のファンなんですよ? 『あなた』なら止められたかもしれないじゃないですか」
「で、でも、『僕』は知らないし……。あんなおっかない人たちがいるなんて……」
「それは、そうかもしれませんけど……」
「彼女」の目には不安だけでなく不信の色も浮かび始めていた。
「『あなた』は、これからファンの皆さんに対してどう接するつもりなんですか?」
「どうって……そんなこと、言われても……」
ライブ中の記憶は「僕」にはほとんどない。「僕」はこれまでの「僕」がどんな風にファンに接してきたか知らないのだ。
「僕」が言葉に詰まると、「彼女」は目を閉じ、ひとつ息を吐くと、まっすぐに「僕」を見据えた。
その目には、これまで向けられていた親しみは欠片も残っていなかった。
「『私』、あんな人たちが集まってくるような人と、お付き合いしていける自信がありません。『あなた』がああいう人たちを呼び寄せて、それを御しきれないのなら、『あなた』とはここでお別れです」
突然投げかけられた別れの言葉に、「僕」は口をぱくぱくさせるばかりで返事もできない。
止めたいのに、かけるべき言葉が見つからない。「彼女」の言葉は、完全に正論だった。
「彼女」は悲しそうに目を伏せて、最後の言葉を告げた。
「さようなら。『あなた』の歌は、好きでした。お元気で」
駅の中に去っていく「彼女」の背中を、「僕」は見送ることしかできなかった。
雑踏の中で「僕」は立ち尽くす。
やがて人の波に流されるように、ふらふらと街をさまよった。薬を飲んだわけでもないのに、自分がどこにいるのかよくわからない。
「は、はは」
乾いた笑いがこぼれる。
よく考えたら、「僕」はなにもしていない。「僕」は渡された薬を飲んだだけだ。
みんなに受け入れられる曲を作れたのも、「彼女」と付き合えたのも、バンドが成功したのも、ファンができたのも、そして今「彼女」に振られたのも、全部あの薬のおかげだ。
だから、これは夢みたいなものなんだ。「僕」はなにも失ってはいない。
そう思うと、少し気が楽になった。
気持ちが楽になってあたりの様子が見えてくると、「僕」は自分の足がいつものライブハウスに向かっていることに気づいた。無意識に自分が落ち着く場所を探していたんだろうか。
もとより「僕」には音楽しかない。心身を休めるならあそこがいいだろう。
ライブハウスに向かう道すがら、なんとなしに手がバッグを漁る。
内ポケットの中から、薬の入ったケースを取り出していた。
今までは集中したいときにだけ飲んでいたから、こんな風に目的もなく使うのは初めてだ。
清涼菓子を食べるような気楽さで、錠剤を噛み砕いた。
粉末が唾液に溶けて喉の奥に流れ込んでいく。
歩きながら見える景色が、少しずつ色合いを変えていく。
より艶やかに。より深淵に。体が浮遊する感覚。重力から解き放たれる錯覚。
「僕」という意識が剥がれ落ちていく。
極彩色に歪むライブハウスで「僕」が最後に見たのは、「警察官立ち寄り所」の文字列だった。
肌を撫でるくすぐったい感触で、目が覚めた。
何かが乗っているのか、腹の上が重い。
押しのけようと手を伸ばすと、さらさらとしたものが指を通り抜けた。
「ん……。え?」
それは、人の髪の毛だった。
見知らぬ女性が、「僕」の腹に頭を預けて眠っている。
女性は裸だった。「僕」も裸だった。「僕」と女性は折り重なるようにして硬い床の上で横たわっていた。
「え……? え……?」
理解できない。なにがあった?
ふらつく頭を起こし、辺りを見回す。
そこは、見慣れたはずのライブハウスだった。
いつもの喧騒はなく、静まりかえっている。けれど、人はそこら中にいる。
誰も彼も、男も女もみんな裸で床に倒れている。
床は酒だかなんだかわからない液体で汚れ、部屋中にすえた臭いが充満している。
乱痴気騒ぎの跡が見て取れるほどフロアが乱れているというのに、マスターは受付に突っ伏して眠っている。
「なんだ……これ……」
「んん……。『兄さん』、起きたの……」
思わずこぼれた言葉に、すぐ近くから応える声があった。「僕」の上で眠っていた女性が目を覚ましていた。
「へへ……起きたならぁ、じゃあ、パーティの続き、しよっか」
「パー、ティ?」
女性は衣服やコップで散らかった床の上をまさぐり、やがてなにかを掴みとった。
「これこれ。『兄さん』が『あたしら』に教えてくれたこれ、すごくいいよ。いくらでもハイになれちゃう」
女性の手の袋には、あのラムネのような外見の薬がいくつか入っていた。「僕」は目の前で女性がそれを噛み砕くさまを呆然と見ていた。
「それを……『僕』が……?」
「ほら、『兄さん』も。また『あたし』とイイこと、しよ?」
蕩けた目で女性が微笑み、薬を差し出す。
「僕」はその言葉の意味を理解することを拒もうとしたけれど、無駄だった。
トリップしている間の「僕」が、この惨状を作り出したのだ。
差し出された錠剤が、今更のように恐ろしく感じられた。
「僕」は床に散らばったものの中から自分の服と荷物を探し出し、フロアを後にした。
「あれぇ、帰っちゃうの『兄さん』」
「あ、ああ。今日はもう疲れたんだ」
「ふーん。また来てねぇ」
粘り付くような女性の声を背中に受けて、「僕」はライブハウスを後にした。
空は真っ暗で、誰も通りを歩いていない。
けれど、ずっと誰かに付き纏われているような感覚から抜け出せない。
家までの帰り道も、気が気でなかった。意識がない間、「僕」は何をしていたんだ? 答えの出ない問いが、頭の中をぐるぐると回り続ける。
「……だめだ。もう、あれはだめだ」
震える手で、バッグから薬のケースを取り出す。
薬はすべて、駅のトイレに流した。ケースはゴミ箱に捨てた。
それでも体の震えは収まらなかった。
「僕」は自宅のベッドで布団にくるまり、この状況が全部夢であってくれと祈り続けた。
それが無駄な行為だとわかったうえで。
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