第1章 閉塞、解放、変質

 最後のフレーズを奏で、残響の後、薄暗いライブハウスに静寂が満ちる。


 汗をぬぐい、酸欠でちかちかする視界を客席に向ける。いつもの場所、客席の一番奥の柱の前に立っている「彼女」を探す。「彼女」は今、どんな顔をしているだろう。


 やがて眼球が「彼女」の姿をとらえる。まばらな拍手を送る人ごみの奥で、「彼女」の端正な顔がスマホの灯りに照らし出されていた。「僕」はマイクのスイッチを切った。


「……はあ」

「お疲れ! こないだよりはうまくやれたんじゃないか?」

「うん。少しずつだけど、『ぼくたち』着実に成長してると思うよ」

「……そうだな」


 舞台袖に引っ込みながら、バンドメンバーのすがすがしい声に相槌を打つ。


 今の二人は会場が見えていないのだろう。客席はすでに、「僕たち」の次に演奏する「彼ら」への期待に胸を膨らませている。


 実際、会場が開いた時には受付の横に山と積まれていた「彼ら」のCDは、既に売り切れ一歩手前まで数を減らしている。一方、その横にちんまりと並んでいる「僕たち」のCDはほとんど減っていない。


 わかっている。これが現実。これが実力。これが「僕」が選んだ道だ。


 今を変えたいと願うなら、それ相応の努力をしなくちゃいけない。ただ、目の前の大きな壁を超えるためにどれだけの努力が必要になるのか、それを思うと気が遠くなる。


 いっそこんな冴えない自分を捨てて、才能溢れる存在に生まれ変われたら、なんて夢想が頭をよぎる。



 ――わああっ!


 「僕たち」の時には聞こえなかった歓声がステージの向こうから届く。気さくな挨拶と、軽快な試し弾きの音が、客席の熱を高めていく。


 今、客席の奥の「彼女」はどんな顔をしているのだろうか。少なくとも、スマホは見ていない気がする。


 「僕」も、見てもらいたい。客席を熱狂させるあの輝きが、欲しい。


「『僕』はここで『彼ら』の演奏を見ていくけど、『お前ら』はどうする?」

「あー、悪い『リーダー』。『おれ』これからすぐバイト行かなきゃならねーんだ」

「『ぼく』も。『リーダー』もこの後バイトじゃなかった?」

「『僕』は少し時間に余裕があるから。売れてるところ見て研究していかないと」

「なるほどねえ。それじゃあ研究は『リーダー』に任せる。次のスタジオ練の時にでも感想聞かせてくれよ」

「わかった。それじゃあ二人とも、今日はお疲れ様」

「お疲れー」


 二人は控え室に下がっていった。背後のステージでは激しい旋律とともに演奏が始まり、客席のボルテージが上がっていく。


 ボーカルの歌唱に合わせ、盛り上がった聴衆が飛び跳ね、髪をかき乱す。


 一曲が数十秒に感じられるような没入感。ステージと客席の一体感。演奏終了から残響が消えるのを待たずに響き渡る歓声と喝采。


 なにもかもが、「僕たち」とは違っていた。技術がどうとかいう次元じゃない。滲みだすオーラ、魅力、カリスマ……。


 そんな理屈じゃない理不尽な差をこれでもかとまでに感じさせられる。


 それでも、何か得るものがあるはずだと、「僕」はステージ横から眩く輝く「彼ら」を見つめ続けた。


「そうだ……。ここで何も得られなければ、音楽で食べていくなんて夢のまた夢だ。掴みとるんだ。なんでもいい、這い上がるための何かを……」


 食らいつくように、「彼ら」のボーカルの一挙手一投足に視線を注ぐ。「僕」と「彼」、何が違うのか。声の張り、表情、振り付け、目線……。


 その時、「彼」と目線が合った。


 ほんの一瞬。客席に向けられていた蕩かすような色気が、ほんの一瞬なりを潜める。代わりに「僕」に向けられたのは、悪戯っぽい微笑みだった。


 がっつくような自分を見られた恥ずかしさに慌てて顔を背ける。


 「彼」の目線はすぐに客席へと戻り、それからセットリストが終わるまで「僕」の方を向くことはなかった。



 鳴り止まない拍手を背に受け、「彼ら」がステージから退場していく。「僕」は邪魔にならないように、舞台袖から控え室へと下がろうとした。


「ねえ、『キミ』。ずいぶん熱心に『オレたち』のこと見てたね」


 背中から軽い調子の声がかかる。ライブの熱がまだ冷め切っていないのか、息が上がっているのがわかるが、それでもその声の艶は損なわれていない。


 振り返ると、機材を片づけているメンバーから抜け出した「彼」が舞台袖の「僕」の目の前まで歩いてきていた。


「あっ、す、すみません。ええと、その、せっかく近くから見れるから、勉強させていただこうと思って……」

「うん。そういうハングリーな感じの顔してたよ。いいことだ。って、あんまり上から言えたもんじゃないけどな。『オレたち』もまだまだヒヨッコだし」

「そんな、すごく盛り上がってたじゃないですか」

「それは地元の小さいハコだからだよ。ずっとここでやってきて、ずっと応援してくれてるファンの前だから、ここまで盛り上がれるんだ。もっと広いところに行ったら全然さ。ここのファンには感謝してるけどね。けど、そこで満足したらそこから先はない」


 なんてことだ。「僕たち」がどう背伸びしても敵いそうにない人たちですら、現状に満足せず、まだ上を目指すのだという。


 これでは、「僕たち」が日の目を見る時なんて、いつまでたっても来そうにないじゃないか。


「だから、『キミ』みたいなガツガツした感じの後輩には、期待してるんだぜ」

「『僕たち』に……?」

「うーん、言いにくいけど、『キミ』以外の二人はそこまで、かなあ。演奏聴かせてもらったけど、なんていうか、ギラギラした感じが足りない。やってやるぞ、っていう感じが。『キミ』も、あの二人に比べたらいい感じだけど、あと一歩踏み込みが足りないかな」

「ど、どうすればいいですか……!」


 はっきり告げられた厳しい現実と、かすかに垂らされた希望の糸。


 「僕」はなりふり構わず、その細い糸にすがりつく。「彼」は、演奏中に一瞬だけ見せた悪戯っぽい笑みを再び浮かべ、声を落としてささやいた。


「そうだね。『オレ』にできるのはちょっとしたアドバイスぐらいだけど、『キミ』が望むなら力を貸すよ。控え室に行って、少し話そうか」



 控え室は、「僕」と「彼」の二人きりだった。ステージの熱狂とは切り離された、静かな空間。


 所在なく椅子に座っている「僕」の前で、「彼」はどこか楽しげにカツカツと靴を鳴らしている。


「ええと、『僕』には何が足りないと思いますか? あと一歩踏み込みが足りないって、どういうことですか?」

「うん。まず『キミ』からはさ、音楽で食っていきたい、ここを自分の居場所にしたい、っていう意志を感じるんだ。それはすごく大事なことで、意外とそれができてるやつは少ない。ただ、それだけじゃ足りないんだよ」


 カツン、と靴音を立てて「彼」が正面から「僕」に向き直る。口元は微笑んだまま、目はまっすぐに「僕」を、あるいは「僕」が見て見ぬふりをしてきた「僕」の心の弱い部分を射抜くように、鋭く細められる。


「『キミ』に足りないのは、覚悟だよ。背水の陣、とでも言えばいいかな。この場所を、音楽を自分のよりどころにするのなら、他の生活すべてを捨ててみせるくらいの覚悟を持って挑まないといけない。ここは、何かの片手間で這い上がれるほど甘い世界じゃないよ」

「れ、練習だったら、毎日やってます。曲作りの勉強も、寝る間も惜しんで……」

「バイトの合間に、だろう?」

「それは……そうしないと、生きていけないから……」


 言葉が突き刺さる。本当は気づいていた。


 絶対的に「僕」たちが音楽に費やしている時間は、その道のプロの足下にも及ばない。量も質も、圧倒的に足りてない。届かないのが道理なんだ。


 でもしょうがないじゃないか。家族には頼れない。食わなければ死ぬ。死ねば夢もクソもない。これで精一杯なんだ。それを否定されたら、もう、夢なんて諦めろと言われているのと同義じゃないか。


「まあ、『オレたち』も普通にバイトしながらバンドしてるんだけどね。週四で」


 うつむいていた「僕」の頭上に、軽い調子の声が響く。顔を上げると「彼」は気さくそうな笑みを浮かべていた。


「いくらファンがついてくれてるって言っても、今の『オレたち』じゃチケットとグッズの売り上げだけで食べていくのは無理だって。『オレたち』も『キミたち』とそこまで変わらないよ」

「じゃ、じゃあ、どうやって……」

「そこが、覚悟の違いだよ。現実問題として、生きるために金は必要だ。金を稼ぐためには音楽以外の仕事もしなくちゃいけない。なら、残りの時間はそれこそ命を捨てるつもりで全てを音楽に注ぎこまなくちゃならない。リソースの集中、と言い換えてもいいかな」

「命を、捨てる……」

「もちろん、つもりでいいんだぜ。本当に死んだら何も残らないからな。でも、『キミ』にそこまでの覚悟はあるかい?」


 これまでの自分を振り返る。「僕」は、本当にそこまで音楽にすべてを捧げてきただろうか? まだどこか、安全な場所から夢を追いかける自分を見て満足しているところがなかったと、本当に言えるだろうか?


 ここが、分岐点だ。直感がそう告げる。今までの自分のままか、新しい自分を手に入れるか。「僕」は、迷わなかった。


「あります、覚悟。今のままじゃ、いられない」


 その言葉を聞いて、「彼」は破顔して手を叩いた。


「よく言った! やっぱり『キミ』はいいよ。『オレ』の見立て通りだ」


 ぽんぽん、と「僕」の肩を叩きながら「彼」はひとしきり笑って、立ち上がった。


 控え室のロッカーの中から鞄を取り出し、ごそごそとポケットを漁り始める。


「さて、それじゃあ『キミ』の覚悟に報いないとね。覚悟を決めて、全てを音楽に注ぎ込む。言うのは簡単だけど、具体的にどうすればいいかって言われると、難しいだろう?」

「それは、まあ」

「だから、それを手助けする魔法のアイテムを『キミ』に譲ってあげよう。これを使えば、余計なことは全部忘れて、自分だけの世界に没頭できるようになる。そこから先は『キミ』次第さ」

「はあ……」


 いまいち話に現実味がない。「僕たち」よりはるか上をいくバンドのボーカルがこうして親身になってくれているのもそうだし、与えてくれるものが助言ではなく道具だというのもピンとこない。


 呆然としている「僕」に、小さな薄い紙袋を持った「彼」が笑顔で近付いてきた。


「これだよ。これを自宅で、作曲や練習に入る前に一つ試してみるんだ。新しい世界が開けるぜ」


 白い、百均で売っていそうな紙袋。封はされておらず、口のところを折ってあるだけだ。


 中を覗くと、いやにカラフルなラムネのようなものがいくつか入っていた。


 それは学生時代、保健かなにかの授業で写真を見た、違法な薬物によく似ていた。


「え……?」

「大丈夫、悪いものじゃないよ」


 サッ、と頭から血の気が引いた。この状況はまずい、と体が反応するより前に、がしっ、と「彼」の腕が「僕」の肩に回される。


「おっと。このことはここだけの秘密だぜ? 『オレ』は『キミ』に期待しているんだ。同じ地元で活動する、前途あるミュージシャンとしてね。一緒に地元を盛り上げて、やがてはもっと広い世界に飛び立っていく。そういうライバルに、『キミ』にはなってもらいたいんだ。『キミ』もそうだろう?」

「あ、あの……その……」

「それは今の『キミ』に必要なものだ。使ってみればすぐにわかる。いや、使うまでもなくわかっているはずだ。もう、なりふり構っていられる状況じゃないって」


 ささやきが、吐息が、脳髄に浸み込んでいく。


 拒めない。拒むには、「僕」はこれまで多くのものを投げ出しすぎた。何もない「僕」に残った数少ないよりどころに絡みつくように、「彼」の言葉が響いていく。


「アーティストに年齢は関係ないとはいえ、人間の体力的なピークはどうあがいても二十代までだ。そこから先は活動を縮小せざるをえない。『キミ』には、あと何年残っている?」

「それは……」

「さあ、覚悟を示す時だよ。『オレたち』には音楽しかない。それ以外はすべて些末事だ。悩むことなんてないだろう?」

「あ、ああ……」


 その時、控え室の外から話し声と足音が近づいてきた。片付けを終えたバンドメンバーたちだろう。


 「彼」は「僕」から離れ、何事もなかったかのように着替えを始めた。「僕」の手には安っぽい紙袋が握られている。


 やがて、控え室に楽器を抱えたバンドメンバーたちが入ってきた。「僕」はスペースを空けるため、そそくさと支度を整えて控え室を後にした。


 手汗でふやけた紙袋は、バッグの内ポケットにしまい込んだ。



 気付けば、バイトまでそう時間も残っていない。


 薄暗い廊下から日の差し込む地上階への階段へと歩いていく。脳裏に響く深く甘い声を振り切るように、光に向かって足を動かす。


 歩くのに必死になっていたせいか、通路の曲がり角から出てくる人影に気付くのが遅れてしまった。


「あっ……」

「ご、ごめんなさい……」


 出会いがしらにぶつかってしまった人の顔を見て、「僕」は心臓を鷲掴みにされた。


 「彼女」だ。いつもこのライブハウスの最後列で見かける、理知的な風貌で、左右の髪を三つ編みにして後ろで束ねた「彼女」。いつもステージから一方的に探していた「彼女」が、今目の前にいる。


「いえ、こちらこそすいません。よく見てなくて……」


 初めて聞く「彼女」の声は、落ち着いて透き通った、大人びた外見にふさわしいものだった。きっとバラードなんかを歌ったら映えるんじゃないか、なんてことを想像する。


 思わぬ出会いに意識をもっていかれ、「僕」は自分がバッグを落としていることにすら気付かなかった。


「あの、バッグ落とされましたよ。どうぞ」

「あ、ああ。ありがとうございます」


 バッグを渡してくれた「彼女」と目が合う。「僕」はそれだけでもう頭がいっぱいいっぱいなのだが、「彼女」は「僕」の顔をじっと見つめて何か言いたそうな顔をしている。


 「僕」は努めて不自然にならないように、「彼女」に話しかけた。


「あの、『僕』に何か?」

「『あなた』、さっきのライブに出ていた人ですか?」

「え、ああ、はい。前座の方ですけど。ボーカルやってました」

「やっぱり。遠目からだけどよく見た顔だと思ったんです」


 やばい。嬉しい。顔を覚えてもらえていただけでこんなに嬉しくなるとは思わなかった。


 「僕」は顔がゆるみそうになるのを必死に抑えて、「彼女」との会話を続けた。


「『僕』も『君』の顔に見覚えがありますよ」

「本当ですか?」

「ステージから客席ってけっこうよく見えるんです。何度も来てくれてるお客さんだと、自然に覚えちゃいます」

「そうなんですね……」


 「彼女」は気まずそうに目を逸らす。今日のライブ中にスマホを開いていたことを咎められたと思ったのかもしれない。


 ……まいった、話題選びを間違えただろうか。せっかくの会話のチャンスを、気まずいままで終えたくはない。


「あの、何度もここに来ているようですけど、ライブ、お好きなんですか?」

「はい。大きい会場でやってるメジャーなアーティストさんのライブにもいくんですけど、こういう小さいライブハウスで一生懸命演奏しているバンドさんのライブにも独特の良さがあって、よく聴きにくるんです」

「そうなんですね。楽しんでいただけるように頑張ります」

「…………」


 精一杯の笑顔で「彼女」の言葉に応じたが、「彼女」は奥歯にものがはさまったような表情で「僕」を見つめている。


 これがここでの最後の会話になるだろうな、と思いながら「僕」は彼女の言葉を促した。


「まだ、何かありますか? お客さんの声をこういう形で聞ける機会ってあまりないので、ぜひ遠慮なくおっしゃってください」

「あの……今、ご自分の演奏に、自信を持っていますか?」

「……え?」


 出会った時とは別の意味で、心臓を掴まれる。体温が下がって、嫌な汗がふきだす。答えに迷う「僕」に、「彼女」は淡々と言葉を重ねていく。


「こういう場所で演奏してる人たちって、自信に溢れている感じがするんです。そういうのが好きでここに来るんですけど……最近の『あなた』からは、そういう感じがしないっていうか……。あ、す、すいません! 悪く言うつもりはないんです! ただちょっと元気がない感じがしたのが気になったっていうか……。すいません、やっぱり気にしないでください。えと、その、応援してます!」


 「僕」は何も言えないまま、光の差す階段を上っていく「彼女」の背中を見送るしかなかった。


 観客に、それもよりにもよって「彼女」に、自分の内心を見透かされていた情けなさ……。


 スマホのアラームに促されるまで、「僕」は薄暗い通路に一人立ち尽くしていた。



 そこからどうやってバイト先に向かったのか、よく覚えていない。


 通り過ぎる街並みが、行き交う人々が、どれもこれも眩しくてひたすら足下だけを見ていた気がする。


 バイト先の中華料理屋に来るスーツ姿の大人たち。ある者は最低限の食事だけを済まして仕事に戻り、またある者は仕事の疲れをビールと共に流しこんで家路につく。仕事と三大欲求しかない生活。かつて「僕」がつまらない、と切り捨てた道を歩んでいる人の方が、「僕」よりよっぽど生き生きと輝いている。


 これは、なんだ? 「僕」はどこで間違えた? 「僕」に何が足りなかった?


 答えの出ない自問に、昼間の控え室での残響がへばりつく。


 終日、「僕」は仕事が手につかなかった。



「『きみ』さ、来週から仕事こなくていいよ」


 シフト終了と同時に、店長からそう告げられた。


「来なくていい……って、クビってことですか……?」

「そうだよ。この一か月ぐらい様子見させてもらったけど、『きみ』ホール担当なのに暗いんだわ。接客業なんだからそこはきちっとしてもらわないと困る」

「あ、あの、ごめんなさい……! 次からはちゃんとしますから、もう少し猶予を……」

「だから与えたよ、一か月。その間何度も笑顔が足りない、って注意もした。でも改善が見られなかった。だからクビ」

「そんな……『僕』にだって生活が……」

「『きみ』に『きみ』の生活がかかってるなら、こっちは店の経営、もっといえば従業員全員の生活がかかってるんだわ。ホール担当が辛気臭い顔してる店で、誰が好き好んで食事したいと思うよ。ミュージシャン志望だかなんだか知らないけどさ、サービス業なめんじゃねえよ。こちとら客の笑顔に命かけてんだよ。客を笑顔で迎えられない奴にこの仕事が務まるか」


 話は終わりだ、と言うように店長は店の奥へと引っ込んでいった。「僕」は何も言い返せなかった。


 制服を畳んでロッカーに戻し、荷物をまとめて「僕」は店を後にした。ギターケースとバッグの重みが肩を締め付けた。


 これからどうする。ギラギラと眩しいネオンの中で、その言葉だけが頭の中をループしている。


 収入は途絶えた。貯金はせいぜい一か月分。ろくな資格も職歴もない。ただでさえ不景気なのに、こんな自分をすぐに雇ってくれるところが見つかるかもわからない。「僕」にあるのは音楽だけ、それも金を稼げるようなものでは到底ない。


 駅の改札をくぐるための百数十円さえ、今の「僕」には手痛い出費に感じる。


 交通費。明日からの食費。家賃。光熱費。水道代。スタジオ代。金。金。金。


 金がなければ何もできない。この狭苦しいワンルームに住み続けるのにだって金が要る。でもどうしようもない。


 「僕」は自室のリビングで着替えるのも忘れて頭を抱えて座り込んだ。


 一瞬だけ、実家に援助を頼むことも考えた。けれど、メッセージアプリのボタンを押すことはできなかった。


 「僕」が音楽の道を歩むことを決めた時、「僕」が両親の望みを裏切った時から、その道は閉ざされている。


 代わりに「僕」が選んだのは、バイト紹介サイトで新しい職場を探すことだった。


 だが、今日までと同じ条件で「僕」を雇ってくれる場所は一つもなかった。どこかで働くということは、バンドを捨てるということだった。


「そんなこと……今更できるわけないだろ……」


 スマホを落とす。もうなにも考えられない。床の上に大の字で寝転がる。


 視界の端に、今日一日持ち歩いたバッグが映った。今日の出来事が、走馬灯のように脳内に遡る。


 今のままでは生きていけない。今の「僕」には魅力がない。


 けれど、「僕」はまだ、終わってはいない。


「…………」


 「僕」には何もない。「僕」にあるのは音楽だけだ。なら、それにすがるしかない。どれだけ細く頼りない糸でも、すがりついて上っていくしかない。


 ――そのためには、手段を選んでなんて、いられない。


 バッグの内ポケットから、くしゃくしゃになった紙袋を取り出す。


 紙袋の中には、毒々しいほどカラフルな錠剤が六錠。


 震える指で、その中の一つ、ピンク色のものを取り出す。


 見た目や肌ざわりはラムネにそっくりだ。飲むのに水はいらないだろう。


 投げかけられた言葉の残響が混ざりあって、一つの命令を脳に下す。


「――さあ、こんな『僕』を捨てて、生まれ変わろう」


 奥歯が錠剤を噛み砕き、粉末が口の中に広がり、溶けていく。溶けていく。とけていく。



 電流が、走る。


 光が見えた。意識が体から抜け出し、極彩色のジェットコースターを駆け抜けていく。脳髄を駆け巡る快楽のパルスが魂を満たす。暴力的なまでの精神的充足。秩序が支配する社会では味わえない、ある種原始的な体験。それはまさしく生まれ変わったと呼ぶにふさわしい衝撃だ。


「――ああ」


 口からこぼれた声が別人のものに聞こえる。だがこれが「俺」だ。


 両手を握り締め、自分の体があることを確かめる。全身にみなぎる生の実感を叫びたい。


 歌いたい。その衝動をぐっと腹の底に力を入れて堪え、感情を殺さず、しかし頭脳は冷静に、息を吸って、吐いた。


「そうだな。やるべきことは、わかっている」


 確実に。千載一遇のこの機会を、万全の形でモノにする。知らず、口元がつり上がる。


 「俺」はバッグから五線紙とペンを取り出し、新鮮な体験のインスピレーションをすぐさま書き殴った。


 ペンが走る。音符が踊る。こんな高揚感はいつ以来だ?


 いや、そんなことはどうでもいい。今はこの脳髄に湧き上がる情動を最高の曲に仕上げる。


 それだけを、ただそれだけを考えればいい――。



「――あ……れ?」


 カーテン越しに揺れる光で、目が覚めた。テーブルに突っ伏して眠っていたらしい。


 狭い部屋の中は雑然としていて、最後の記憶と微妙に結びつかない。


 ぼーっとした頭で部屋を見渡すと、隅っこでへしゃげたバッグが中身をまき散らしていた。


「そうだ……。『僕』は……『彼』からもらった薬を飲ん、で……」


 体を起こそうとして、「僕」は腕とテーブルの間にくしゃりとしたものを感じる。力を入れた肘に押されて、五線紙が折れ曲がっていた。


「これ……この曲、「僕」が、書いたのか……?」


 五線紙の上には紙の裏に移るほどの筆圧で書き込まれた、バンドスコアが一曲できあがっていた。


 荒々しい筆跡から迸る激情とは裏腹に、奏でられる旋律は緻密で繊細、けれども壮大なものになっている。斬新な、それでいて心の深いところに寄り添うようなどこか懐かしさを感じるメロディ。


「……いい曲だ。曲名は『I’ve come back』。歌詞も全部英語か。トリップしていたとはいえ、『僕』によくこんな引き出しがあったな……」


 英語の勉強なんて大学の英書講読の単位のためにやって以来手を付けた覚えがない。歌詞の内容を理解するのも一苦労だ。


 ウェブ翻訳とにらめっこしながら、なんとか歌詞を読み解いていく。


「これは……!」


 読み進めるほど、曲と合わさった歌詞の言葉選びの巧みさに唸らされる。


 社会からつま弾きにされ居場所がない人間が、自分の居場所はここだと叫ぶ哀切な歌。


 そこに連なる言葉のひとつひとつが、今の「僕」の、あるいは「僕」と同じように自分の居場所を切望している人の苦しみと怒り、そして祈りを代弁している。


「これは、『僕』の、歌だ」


 確信にも似た直感が走る。この曲は「僕」を変えてくれる。


 スマホを取り出し、手の震えを抑えながら楽譜の写真を撮っていく。


 メッセージアプリを開き、撮り終えた楽譜をバンドグループの共有アルバムにアップロードした。


『新曲ができたんだ。見てくれ』


 今日は日曜日。メンバーは自宅にいるはずだ。


 トーストとコーヒーを空っぽの胃袋に流し込みながら、返信を待つ。コーヒーを三杯おかわりし、むずむずする体を部屋の掃除をして落ち着け、どうしようもなく手持ち無沙汰な両手でギターを弾く。



 昼前になってようやく、スマホがメッセージの着信を告げた。


『なにこれすげーイケてんじゃん! 「リーダー」やるぅ!』

『次のライブはこれでいこうよ! 絶対いける!』


 期待通りの反応に、拳を握り込む。返事を打ち込む指にも力が入る。


『次のスタジオ練の時に合わせて録音して、CDも出そう!』

『間に合うかなあ……』

『間に合わせるんだよ!』

『「リーダー」がいつになくやる気だ! 「おれたち」もノってこうぜ!』

『うん、わかった。なんとか間に合わせる』

『じゃあ次までにそれぞれのパート、練習しておいて』

『おー!』



 それから「僕たち」はひたすら新曲の練習を重ねた。


 特に「僕」はバイトをクビになったので目が覚めている間はずっとギターを弾いて歌い続けた。


 英語の歌は初めてだったが、意外とフレーズは口に馴染んだ。自分はこの曲を歌うために生まれてきたんだとさえ思えるほど、この曲はしっくりきた。


 他の二人もこの曲を気に入ってくれたようで、頻繁に個人練習の進捗状況を共有してくれている。


 おかげでスタジオで初めて合わせる頃には、ほとんど楽譜通りの演奏ができるようになっていた。


「それにしても『リーダー』、曲の雰囲気ずいぶん変えてきたね。英語の歌詞とか初めてだし」

「あれか? こないだ他のとこ見て研究してたのがびびっときたとか?」

「ああ、うん。そんなとこ」


 録音した演奏データは自宅でCDに焼いた。安かった時にまとめ買いしていたものを使い切った。


 この曲ならいける、という確信があったし、どの道この曲が当たらなければ「僕」は終わりなのだと思えば迷うことはなかった。



 練習に明け暮れ、気付けばライブ当日を迎えていた。


 場所はいつものライブハウス。いつも通り、「僕ら」は「彼ら」の前座だ。開演前の受付に置かれたCDの減り方もいつも通り。


 ただ、新曲のCDの山を置くときに受付の人が、大丈夫か?と目で聞いてきたのに笑顔で応えたのだけはいつもと違っていた。


 開演前にざわめく観客の誰も、「僕たち」に期待なんてしていない。客席の一番奥にいる「彼女」もそうだろう。


 けれど、今日の「僕たち」はこれまでとは違う。


 変えるんだ。変わるんだ。何者にもなれない誰かじゃ終われない。人の目を釘付けにする、光り輝く存在になるんだ。


「新曲です。聴いてください。『I’ve come back』」


 前奏が静かに、会場を音で満たしていく。染み渡るように。包み込むように。


 雑音はいつしか消えていた。その場にいる誰もが、静かでありながらどこか強い存在感を感じさせるフレーズに聴き入っている。


 やがて穏やかな声で紡ぎあげられる詞が、鼓膜を揺らす。


 歌詞の意味を聞きながら理解できる人間はこの場にはほとんどいないだろう。しかし、孤独や哀愁を感じさせる旋律と、切々と胸の内に高まる感情を吐露する歌声に、脳が、情動が揺さぶられる。


 高まっていくメロディ、叫び。会場に熱が生まれる。一度目のサビを歌い上げ、間奏に入った瞬間、会場は喝采に包まれた。



 四分弱の演奏を終え、ステージから観客を見回す。


 拍手。歓声。口笛。そして笑顔。その全てが「僕たち」に向けられている。


 舞台袖に下がろうとする「僕たち」にかけられる、アンコールの嵐。その声の中には、会場の一番後ろの「彼女」の声も混ざっていた。


「構わないよー、多少時間押しても。せっかくのアンコールだ。応えてあげなよ」


 反対側の舞台袖から、「彼」が顔だけ出して手を振っていた。厚意に甘え、「僕たち」は結成以来初めてアンコールで演奏した。



「いやー、良かったよ! 『キミ』、やるじゃん!」


 アンコールを終えると、「彼」がステージに上がってきて握手を求めてきた。


 「彼」は「僕」の手を握りながら、客席に向けて叫んだ。


「会場のみんなー! 次の『オレたち』の演奏までしばらく時間があるから、今のうちにCDとか買っちゃいな! なくなっちゃうよ!」


 会場が喧騒に包まれる。視界の隅では、受付に山と積まれていた「僕たち」のCDが、みるみる少なくなっていく。


 そんな様子を夢のように見つめている「僕」の肩に、「彼」の腕が回る。


 「彼」は「僕」の耳にしか届かない声でささやいた。


「やったねえ。『オレ』のアドバイスは、参考になったかな」

「は、はい! おかげさまで……!」

「うんうん。それは結構。これからも相談に乗るから、一緒にこのライブハウスを盛り上げていこうぜ」

「はい!」

「それじゃあ、連絡先交換しておこうか。その方が後々都合がいいだろ?」


 ざわめくライブハウスの中で、「僕」と「彼」は互いのSNSをフォローした。


 スマホの操作を済ませると「彼」はさっさと自分の演奏の準備に入った。


 「僕」まだ夢心地のまま、控え室へと戻っていった。


 CDは即日完売だった。インディーズの楽曲販売サイトでも売上の出足は好調だ。


 今日の売り上げから諸経費を引いたものをバンドメンバーで分けても、「僕」の手元にはそれなりの金額が残った。


 これなら、いける。手取りの少ないバイトでも、生活と音楽を両立していける。


 必死にすがりついた糸の先に、希望の未来があると確信して両手を握る。


「またすぐに新曲書くよ。次のライブまでに仕上げよう」

「マジかよ! 『リーダー』ノってんなあ!」

「でも無理はしないでね。焦ったらいいもの書けないでしょ?」

「大丈夫。もうこれまでのパッとしない『僕』じゃない。やれるさ」


 熱に浮かされたように、「僕」はそう宣言した。


 それから二人はバイトがあるからと先に帰っていった。「僕」も早く次のバイトを見つけないと。


 けれど、バイト紹介サイトを眺める目の焦点が定まらない。


 「僕」の目に焼き付いているのは、さっきのライブの後の観客の笑顔。耳には遠くから聞こえた「彼女」の歓声が今も響いている。


 「僕」の頭の中は「僕」が音楽で認められたことの喜びでいっぱいで、他のことなんてなにも考えられない。


 結局、「彼ら」が演奏を終えて控え室を空けなくてはいけなくなるまで、「僕」は椅子の上から動けなかった。



 控え室を出て、薄暗い廊下を進んでいく。


 地上階からの光が差し込む階段の前に、「彼女」が誰かを待つように立っていた。


 誰を? 期待に胸が膨らむ。それを表情に出さないようにしつつ、駆け出しそうな足を一歩ずつ前に進める。


 そして、手が届く距離にまで近づいた時、「彼女」が唇を開いた。


「あの、今日の演奏、すごく良かったです……!」


 遠目では見えなかった「彼女」の笑顔が、光の中で輝いていた。大人びた顔立ちの「彼女」が、少女のように笑っていた。「僕」がずっと求め焦がれ続けてきたものがそこにあった。


「前にお話した時は失礼なことを言ってしまいましたが、撤回させてください。『あなた』の歌声からは、熱い気持ちが伝わってきました。何度でも聴きたくなるような……。あ、CDも買いました! これからも応援させてください!」


 喉の奥に熱いものがこみ上げてくる。鼻の奥がつーんとする。


 ――ああ、報われた。「僕」の人生は間違ってなかったんだ。


 そう思ったら、自然に口が動いていた。


「……そんな風に言ってもらえる曲が作れたのは、『君』がいてくれたからです」

「え?」

「いつもライブの時に『君』が見えて、とても綺麗で。でもいつも落ち着いていて、ライブで気分があがってる感じはしなくて。いつか『僕』の歌で笑ってくれないかな、って。ずっと思ってたんです」

「そ、そんな風に見えてたんですか……。なんだかはずかしいです」

「ここまであきらめずに頑張れたのも、あの曲を作れたのも、『君』のおかげなんです。だから、お礼を言わせてください。ありがとう」

「え、ええと……なんていうか……光栄、です。『私』、夢とか目標とかそういうのが無くて。ここに来るのも、ここで頑張ってる人たちを見てると、自分に欠けてるものが埋まっていくような気がするからで。そんな、なにもない『私』なんかが、頑張ってる人の助けになれたなら。とっても、嬉しいです」


 照れくさそうに、「彼女」は頬を赤らめて笑った。「僕」はもうこみ上げるものを抑えられない。


「あの……『君』がよければ、もっと近くで『僕』の歌を聴いてくれませんか?」

「は、はい! これからはもっとステージの近くで聴かせてもらいます!」

「ええと……そうじゃなくて……」

「なんですか?」

「『僕』は、もっと『君』と個人的な関係になって、『君』のために歌わせてほしい。そうして、『君』の笑顔を、誰よりも近いところから見たい」

「そ、それって……」

「『君』と、付き合いたい」


 「彼女」の顔は真っ赤だった。きっと「僕」もそうだろう。頭がくらくらして、今にも倒れそうだ。


 けれど、「僕」は気力を振り絞って「彼女」の目を正面から見つめた。「彼女」は左を見て、右を見て、もう一度左を見てから、「僕」と向かい合った。


 整った眉を少し困ったように傾けて、「彼女」は微笑んだ。


「……『私』で、いいんですか?」

「『君』がいいんだ」

「『あなた』がそう言ってくれるなら、そばに、いさせてください。『あなた』の頑張っている姿を、一番近くで見せてください。『あなた』の真剣な歌声を、一番近くで聴かせてください」


 「僕」が手を伸ばすと、「彼女」の手が触れた。指と指が、一本ずつ絡み合っていく。


 「僕」が引き寄せると、「彼女」は「僕」の胸に寄りかかった。指を解いて、「彼女」の体を抱きしめる。


 腕の中に収まった「彼女」と見つめ合う。薄闇の中で、「彼女」の赤く染まった笑顔がはっきりと目に映る。それを心の底から愛おしく思った。

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