第4話




 その巨体が動くたびに、焦げ茶色の体毛が波打っていた。熱を帯びた吐息をこぼす大きな口には鋭い牙が覗いており、丸太のように肉厚な四本の足には包丁みたいな爪が生えそろっている。


 外見は熊そのものだ。それもかなりデカイやつ。体長はゆうに二メートルを超えている。

  

 ただし、そのツラは俺が知っているどんな動物よりも凶悪で、人間を二、三十人は食っているんじゃないかってほどの危険な目つきをしていやがる。現に俺のことだって獲物として捉えている。


 この世界の冒険者が、冒険者をやめたくなるときっていうのは、きっとこういうときなんだろう。


 自分よりも強い相手が、殺しにやってくるとき。


 逃げたくても、逃げられない。


 恐怖を心に植えつけられる。


 一度だけ息を吹くと、ステータスの能力を使って、鑑定を行う。


【暴れ熊】

 レベル:20

 全身が固い体毛におおわれており、怪力を持つ凶暴性の高い熊型の魔物。


 敵のレベルは俺の倍ある。 


 よく一発もらって、生きていたものだ。


 そしてここからは、もう逃げられない。背中を向けた瞬間、死に直結することになる。


 暴れ熊は牙を剥き出しにして、雄叫びを響かせてくる。四本の足で地面を蹴り、筋肉の塊のような巨体を躍動させて突っ込んできた。


 自分がまともな抵抗もできずに、肉体を粉砕される光景が脳裏に浮かぶ。数秒後には、その光景は現実になっている。


「冗談じゃねぇぞ! こっちは難易度がおかしい死にゲーを山ほどプレイしてきたんだ! こんな生ぬるいダンジョンRPGなんかで死んでたまるかよ!」


 突進してくる暴れ熊を睨む。右手に力をこめて、ロングソードを握りしめる。奥歯を噛みしめながら、相手に負けないほどの殺気をぶつける!


 俺が殺されるんじゃない!


 その逆だ!


 俺が、おまえを!


「ブッ殺してやるっ!」


 自分に気合いを入れるための言葉を発する。


 死にゲーのボス戦でやられそうになったとき、よく口にしていた言葉だ。


 死の淵だからこそ、集中力が高まる!


 相手が殺そうとしてくるなら、こっちが先に殺す! そうすれば死なない! 


 迷うな! 迷えば負ける! 殺される!


 猛然と突っ込んでくる暴れ熊を注意深く観察。


 互いの距離が狭まってくると、スピードの勢いはそのままに、暴れ熊はぶっとい右腕を横薙ぎに振るって、殴りかかってきた。


 暴れ熊の動作にタイミングをあわせ、左斜め前に向かって回避――爪先がかすめることもなく成功。


 こっちを殺せたであろう致命の一撃をかわしきる。緊張が高まって呼吸が苦しくなっているが、体の動きを止めることはしない。


「オラッ!」


 暴れ熊の横っ腹に、ロングソードで渾身の一撃を叩き込む。


 斬り裂かれた腹部から鮮血が噴き出す。流血表現がなかったゲームと違って、ちゃんと血が出るみたいだ。


 暴れ熊は唾液と一緒に悲鳴を飛び散らせると、巨体を回転させるようにひねり、今度は左腕で殴りかかってくる。


 回避――間に合わない。ロングソードを構えて防御の姿勢を取る。直後に打撃の衝撃がくると、体ごと軽々と吹っ飛ばされた。


 靴底が地面にこすれ、暴れ熊との距離がひらいていく。


 なんて怪力。完璧に防御したってのに、腕から肩にかけて激痛と痺れが流れてくる。


 念のため残りのライフを確認してみると、『HP:140/1200』のまま変化はない。物理攻撃に関しては、ガード越しでもダメージをもらうことはないみたいだ。


 どうにか、一矢を報いることはできた。


 とはいえ、レベル差があるので与えたダメージは微々たるものだ。


 状況は依然として絶望的。


 暴れ熊の殺気は先ほどよりも増している。威嚇するような唸り声を発して、俺のことを睨んでいる。


「来るなら、来やがれ! 何度だって斬って、八つ裂きにしてやるっ!」


 一撃で駄目なら、それ以上にお見舞いするだけだ!


 アイツが死ぬまで剣で斬り裂いて息の根を止めてやる!


 俺はこんなところでやられるつもりはない!


 絶対に生き延びるんだ!


 食うか、食われるか、二つに一つ!


 暴れ熊の一挙手一投足を見逃さずに凝視する。


 そして、それは起きた。


 俺だけに殺気を向けていたはずの暴れ熊が、突如として視線をめぐらせる。


 ……どうしたんだ?


 最初はわけがわからなかったが、暴れ熊が周囲を警戒しはじめた原因は、すぐに理解できた。


 興奮状態で五感が敏感になっている俺の耳にも、その音が聞こえてくる。


 これは……足音。それも二人分。どちらもあまり重量を感じさせない軽やかな足取りだ。


「騒がしいと思えば、実力のない冒険者が無様にあがいているようね」


 高貴さを感じさせる、美しい声音だった。


 俺が直面しているこの状況を、物ともしていない余裕の響き。


 さきほど俺と暴れ熊が通ってきた道に視線を向けてみると、そこに少女が立っていた。




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