二十二

  二〇一八年 十一月二十日 二十二時五分


 アルバイトが終わってスマートフォンを開くと、音琴から素敵なLINEが入っていた。

『ねえ、はるちゃんの元彼がお兄ちゃんだって知ってたでしょ?』

 これは怒っているな。きっとプラネタリウムで二人は会っていたのだろう。そこで元彼の話になったに違いない。ネココは返信した。

『ラグドール同盟でプラネタリウムに行くことを決め』

『翌日すぐ実行するのは称賛に値する』

 音琴からは、着替えている間の数分で返事が来た。

『話逸らさないで

 ねー、知ってたんでしょ?

 まあ、今日は眠いから勘弁してあげるけど

 明日は容赦しないからね?

 じゃ、おやすみなさい』

『あ、バイトおつかれさま』

 音琴は寝るのが早い。彼女は、ネココが塾やアルバイトを終えて帰宅する頃には、必ず就寝していた。寝る前に二人で通話したかった。今日あった事とか愚痴とかを、二人が寝落ちるまで話したかった。ネココはそれを音琴に進言したことがあった。その時は「別に、朝教室で話せばいいことじゃないの?」と軽くあしらわれてしまった。

『おやすみなさい』

『ありがと』

 ネココはそう打ってLINEの画面を閉じた。だがすぐに開き直して確認した。

「音琴のやつ、はるのことをはるちゃんって呼んでる。今まで猫塚さんだったよな」


  二〇一八年 十一月二十一日 六時二十四分


 ネココはいつも通り登校した。おそらく音琴からお小言が待っているから、いつも通りに登校するか逡巡した。だが、音琴の猫塚の呼び方が、「猫塚さん」から「はるちゃん」に変わったのは、事態の好転を意味する。なぜかは解らないが、音琴の兄が猫塚の元彼氏と知った二人に何かしらの絆が生まれたのだろう。怒られることはない筈だ。

 教室に入り、立ったまま、座った音琴に挨拶をした。

「おはよう、音琴」

「挨拶の前にすることがあるよね?」

 あれ、おかしいな。

「謝罪……ですか?」

「ふうん。そう思うってことは、やましいことがあるってことだよね」

「それは」

 墓穴を掘った。誰だ、音琴に怒られることはないって言っていたのは。

「じゃあ、とっとと謝罪したら」

 ネココは、上体を九十度に曲げた。

「音琴さん、お兄さんがはるの彼氏だってこと、黙っててすみませんでした!」

 こういうのは勢いが大事だと思う。ジェットエンジンぐらいの勢いが出ていた筈だ。

「何で黙っていたの?」

「いやー、はると音琴の関係を阻害する情報かと思って……。二人の関係性が拗れたら可哀想だなって。それにそもそも、はるの今の彼氏ならともかく元彼だし。そんなのわざわざ言って何がしたいのって思われるのも厭だし」

「でもさ、私、一回はるちゃんに怒鳴られてるからね。なんでアタシの元彼といたの、って。すごい剣幕だったよ」

「それは……。ごめん……」

「まあ、許すよ。理由があってのこととは思ってたし。恋心君のことだから深い理由があると思ったけど、そんなことなくてびっくりだけど」

 よかった、許してもらえた。

「俺にとっては深い理由だけどな。さて、じゃあそろそろ自習室行くわ」

「あ、戻ってくるの早めがいいと思うよ。八時くらい」

「はるが怒ってるならギリギリに来て逃げたいところなんだが」

 音琴は「はあ」と溜息を吐いた。

「それが逆効果だってことぐらい分かるだろうに。彼女からの命令です。八時に来なさい!」

「彼女って何か命令できる立場なんだっけ? 知らなかったなあ」

「はいはい、ふざけてないで早く行きなさい」

 音琴は右手でシッシッとネココを追い払うような仕草をした。

「はいよ」


  二〇一八年 十一月二十一日 八時


 自習室から戻ったネココは、教室を見渡して呆れた様な苛立たしい様な気持ちになった。

「はるのやつ、まだ来ていないのか」

 そう呟くとネココは、音琴の席へ向かった。教室に集まっているのは、全体の二割ほどだった。都合が良いことに、音琴の周りは人がいなかった。音琴は本を読んでいて、ネココには気付いていないようだった。

 ネココはそうっと音琴に近付くと、右手で彼女の頬をつついた。お餅みたいだ。音琴は、「いたっ」という声とともに、抗議の目をネココに向けた。でもその顔がリスみたいで、つい、にやけてしまった。

「何笑ってるの」

 音琴はそう言って、ネココの脇腹をつまんだ。そうしてじゃれていると、教室の入り口から声がした。

「おっ! ネココったら今日は早いじゃん。感心感心」

 猫塚だ。猫塚は、鞄を持った左手を、そのまま肩の高さまで上げた。

「は、はるちゃん」

 音琴は、それに応えるように、胸の前まで手を上げた。

「おはよー、アオイ」

「おはよう、はるちゃん」

 挨拶の交換後、猫塚は、ネココと音琴との三人が正三角形を作るように立った。

「ネココったら、狐につままれたような顔してどうしたの?」

 ネココは、自分がポカンと口を開けていることが自分でも分かった。

「どうしたも何も、逆転してたら驚くだろ」

「何が?」

「呼び名だよ。昨日までは、はるは音琴を音琴ちゃんて親しく呼んでいたのに、今日はアオイって余所余所しくなっている。音琴は、はるを猫塚さんを余所余所しく呼んでいたのに、今日ははるちゃんて親しくなっている」

 猫塚は首を傾げた。

「別に苗字だから余所余所しいとか、下の名前だから親しいとか、必ずしもそうとは限らないと思うけどな。アオイも何か言ってやりなよ」

「うん。私もはるちゃんの言う通りだと思う。ブルマだって、孫悟空のこと『孫くん』って呼ぶしね」

 音琴は猫塚の方を向き、胸の前で二つ握り拳を作った。

「いや、え? アオイ、何の話?」

 猫塚の視線は、音琴とネココの顔を行ったり来たりした。

「ドラゴンボールだよ? 知らない?」

「あー! タイトルは知ってるよ。何か戦うやつでしょ?」

「そうそう、戦うやつ」

「という訳だから、ネココ、苗字呼びはおかしくないよ!」

「お前、ブルマ知らないのに適当言ってるだろ」


二〇一九年 十一月二十日 二十時九分


「あー、懐かしいなあ……。それからだよね、三人で遊ぶようになったの」

 ナイター照明が、猫塚の頬に一筋の光を浮かばせた。

「ああ、そうだな。正直俺は音琴と二人で遊びたかったが。まあでも三人で遊ぶのも悪くなかったな」

「たくさん色んなとこに行ったよね。スキー行ったでしょー、ディズニー行ったでしょー、美術館行ったでしょー、博物館行ったでしょー、後は、天文台に行って星見たなー」

「みらい科学館も忘れちゃ駄目だな。何だかんだ、あそこでプラネタリウム観るのが一番好きだったかもしれない」

「そうだね……」

 鼻を啜る音が聞こえた。

「ああ……、全部アタシが壊しちゃったんだ……」

 猫塚の声にならない声が響いた。

 ただただ、猫塚の嗚咽を聞いていた。何分経ったか分からない。途中でグラウンド用のナイターが消えた。

「ねえ」

 ふと、猫塚が口を開いた。

「そろそろ、アオイが死んでからの話をして」

 暗くてよく見えなかったが、ネココには猫塚が覚悟を決めた顔をしている気がした。

「いいだろう」

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