十九
二〇一八年 四月四日 七時三十二分
入学式翌日の朝、ネココは自分の教室にいた。ネココは、昨日指摘された髪色は戻していなかった。校則に髪色の記述は無いようだし、問題ないだろう。
今日は始業式だ。ショートホームルームが始まるのは八時三十分だから、やっぱり真面目だと思う。他の生徒はまだ来ていない。但し、一人を除いて。彼女は、音琴の席に座っていた。二年生の先輩が、間違えて一年生の教室に入ってしまったのだろうか。ネココは席の真正面に立った。
「あの、そこは蒼井音琴さんの席ですよ?」
すると彼女は、頭の上に疑問符を浮かべた。
「私は蒼井音琴だよ? 茅根君」
「え?」
声は間違いなく音琴だ。しかし、昨日の音琴が白鳥なら、今ネココの目の前にいる女子は醜いアヒルの子だ。いや、それではどちらも白鳥か。とにかく、雲泥の差があることは間違いない。
「本当か? 昨日と全くの別人なんだが」
ネココが続けて言った。
「あー、ほら、昨日はお母さんがヘアメイクと化粧やってくれたから……」
音琴は机の方に視線を遣り、言った。
「それでこんなに変わるのか」
ネココは猫塚の机に諸手を置き、音琴をじっくりと見た。すると、音琴の顔が赤くなった。
「お母さんが上手いだけだよ……。お兄ちゃんも上手いけど……」
「亜蓮さんにもやってもらうのか」
「まあね。ていうか、失礼じゃないかな……? 素の私がブスって言ってる様に聞こえるけど」
音琴は顔を背けたまま言った。
「すまん、そんなつもりじゃなかったんだが」
「謝るってことはそう思ってたって事でしょう……?」
「それは……」
ネココは唇を噛んで、音琴から目線を逸らした。
「まあいいや。席座ったら?」
「あ、ああ」
ネココは手を音琴の席から退かし、自分の席に着いた。すると、音琴は席に座ったまま後ろを振り向いた。
「それより、茅根君は髪、そのままなのね……。昨日呼び出されてたから、直してこいって怒られたのかと思った」
「ああ、怒られたよ、倉田先生に」
音琴は目を見開いてネココの方を向いた。
「教員の言う事は聞かない癖に、登校時間はこんなに早いなんて……。真面目なのか不真面目なのか分からないね」
「俺は真面目だと思われたくなくて、この髪型にしたんだ。バイトもするつもりだ」
音琴はフフッと笑った。
「なら、登校もギリギリにしないと。みんなにその内バレるよ」
「いや、早めに登校しないと何かあった時大変だろ」
音琴は「あははは」と声を上げて、手を叩きながら笑った。
「根が真面目!」
音琴は目に涙を浮かべながら言った。そんなに可笑しいだろうか。
「仕方ないだろ、そういう性格なんだから」
「真面目なのは茅根君の良い所なんだから、真っ直ぐに生きればいいのに」
音琴は真っ直ぐネココの瞳を見て言った。
「そうは言ってもな、イジりにくいオーラ出るとつらいんだぞ」
ネココは、サイドテールをねじねじと弄りながら言った。
「いや、ごめん。言いにくいんだけど……、今も十分イジりにくいと思う」
音琴は再び手を叩いて笑った。
「うーん、ダメかなあ」
「でも、今更髪色戻すのはダサいよ?」
「それは分かって――」
ガラガラッ。教室のドアが開いた。瞬時に二人は素知らぬふりをした。入ってきた女子のクラスメートに対して、音琴が「お、おはよう」と言うので、続いてネココも「おはよう!」と言った。すると「おはようございます」と敬語で返された。もう挨拶するのは止めよう。出入口と席が近いため、挨拶しないのが不自然だと思ったネココは、読書を始めた。本に夢中で気付かなかったと思わせる作戦だ。
二〇一八年 四月四日 八時二十九分
読書作戦が功を奏し、誰とも挨拶せずに済んだ、ネココがそう思って本を片付けた時だった。
「おはよーネココ」
猫塚は、息を切らしながらドタドタと教室に入ってきた。
「おはよう。ってバカ。お前な、あと一分でショートホームルーム開始だぞ?」
「ん? だから今ここにいるんだけど?」
「そうじゃなくて、もっと余裕を――」
ガラガラッという音を立てて、涼川が教室に入ってきた。猫塚はそれを見て「いっけね」と言いながら、すぐさま自分の席に跳んで行った。だから言ったんだ、まったく。
その様子を見送ったネココが涼川の方を見遣ると、涼川もネココを見ていて、落胆の表情を浮かべていた。昨日あれだけ髪を戻せと言ったのに、という思いだろう。そして涼川は諦めたような顔をして教壇に上がり、ショートホームルームを始めた。今日は始業式が終わったら、ホームルームと部活動紹介をやるとの事だ。
ショートホームルームが終わると、始業式のために体育館に移動した。昨日は椅子が敷き詰められていた体育館だったが、それらは全て取り払われていた。重労働だろうに、有難い事だと思った。
涼川の指示の下、皆が体育館の床に直に座ると「冷たっ」という声があちこちで上がった。
出席番号順で一列に座ったため、目の前が音琴だ。ネココは音琴に話しかけた。
「音琴さん、寒くないか?」
「話しかけないで。友達だと思われる」
音琴は、振り返ることもせず、小声で言った。
「何で友達だと思われたくないんだ?」
「そ、そんなの決まってるでじゃん。その頭だよ」。
音琴は、「はあっ」と溜息混じりに言った。
ネココは音琴の発言が気になり、始業式に集中できなかった。
二〇一八年 四月四日 十時四十七分
始業式が終わり、ネココたちは教室に戻ってきた。涼川は、生徒達が着席するのを教壇の上で待ち、言った。
「では、今からホームルームを始めます。先ずはみんなで自己紹介をしましょう。最初に私がお手本を見せます。」
眼鏡を掛け直したり服をパタパタと叩いたりして身なりを整えた。
「改めましてこんにちは。皆さんの担任の涼川花織里と言います。趣味……、兼習慣ですが、珈琲を豆で買って、挽いて朝に淹れるのが好きです。気分によって苦みが強かったり、フルーティだったりとか使い分けています。一年間よろしくお願いします」
生徒たちから拍手が上がる。ネココもパチパチと手を叩いた。涼川も、それに合わせて自分で自分に拍手した。趣味から人柄の分かる良い挨拶だと思うが、自画自賛する程ではないだろう。
「誰か、我こそは! という方はいますか?」
「はい!」
ネココはすぐさま手を挙げた。肩から真っ直ぐ、天井に向けてピシッと。
「えーと……」
涼川は苦虫を嚙み潰した様な表情になった。
「じ、じゃあ茅根君から名前の順で」
涼川が言うと教室内がざわついた。「あいつ実は真面目なのか?」とか、「見た目に反して、可愛いかも」とか、ネココの事で話題が持ち切りだ。
「静かに! じゃあ茅根君、どうぞ」
「はい!」
ネココは返事と共にピシッと立って自己紹介を始めた。
「こんにちは! 小野西中から来ました、茅根恋心です。よろしくお願いします。」
ここで、ネココは深くピシッと礼をした。クラスメートたちはネココの髪型がどうなっているか、頭頂部からよく見えただろう。
「中学では剣道部に入っていました。高校では、新しい事を始めようと思っています。趣味は読書で、好きなものは中島敦です。改めて、よろしくお願いします。」
パチパチパチパチ、と教室中に拍手が響き渡る。その中に一つ、溜息が聞えた。前の席の音琴からだ。ネココが席に着くなり、音琴は振り返って文句を言った。次の生徒の自己紹介も無視して。
「ねえ、あなたのせいで私がトリになっちゃったじゃん。」
出席番号順で自己紹介をすると、二番のネココから始まったら、一番の音琴が最後となるのは必定だ。
「しかも真面目で何の面白みもない挨拶のために一番を取るなんて」
音琴は不貞腐れた顔をして、そっぽを向いた。そっぽを向きたいのはこっちの方だ。真面目なのは認めるが、面白みが無いというのは心外だ。
「ならあんたが一番に自己紹介をすればよかったじゃないか」
ネココは頬を膨らませて言った。
「厭に決まってるじゃん」
音琴は顔を背けたまま言った。
「みんなそうなんだよ。だから俺が名乗りを上げたんだ。寧ろ有難く思ってほしいな」
「そこ! 皆の自己紹介を静かに聞いてください……ね?」
涼川が二人を注意した。ネココの風貌に怯んだのだろう、勢いは尻すぼみだったが。
「申し訳ありません! アオイさんが話しかけてきたので――」
「ちょっと!」
音琴は眉間に皺を寄せた。
「まあ、仲良くなるのは良い事だけど、今は……ね?」
涼川は猛獣と触れ合う様にデリケートに言った。
「はい!」
「はーい」
ネココのきちっとした返事に対し、音琴のそれは気怠そうだった。
その後は、ネココは一人ひとりの挨拶に耳を傾けた。趣味趣向を覚えて話のタネにするのだ。音琴は机に突っ伏して興味なさげにしている。一番前の席でよくもまあそんなことができるものだ。
そうこうしている内に猫塚の番になった。何を話すのだろう。
「初めまして! 猫塚はるといいます! 小野西中出身です! 得意なことは家事です! 家に来てくれたら美味しい手料理振舞います! よろしくお願いします!」
パチパチとクラス中から拍手が送られた。
最後に両手を振りながら軽くぺこっとお辞儀をした。駄目だな。あざとすぎる。きっと男子にはウケて女子の中では孤立するに違いない。そうなったら仕方ない。味方になってやろう。
「はいじゃあ、最後は、蒼井さん」
涼川が音琴の挨拶を促した。
「こんにちは。蒼井音琴といいます。小説、漫画、アニメが好きです。最近のマイブームは『BANANA FISH』で、推しはショーターです。あ、ショーターは主人公のアッシュの相棒的なポジションなんですけど、この絡みが最高なんです。そんな感じです。よろしくお願いします」
音琴は捲し立てる様に言った。なんだよ、オタクかよ。嫌いなんだよ。キモチワルイ。早口でペチャクチャ喋って。しかも推しなんていう一キャラクターを中心に見ることしかできないのか。更に絡みって。きっと腐女子に違いない。男同士の絡みを見て妄想するとか気持ち悪い事この上ない。きっと読んでいる小説もライトノベルとかBL小説とかだろう。読書する姿に感心して損した。
「私はあなたのつまらない挨拶に拍手したのに、あなたは私の素晴らしい挨拶に拍手は無いのね」
席に座りながら音琴が言った。そういえば忘れていた。
「あんな気持ち悪い挨拶に送る拍手なんて無い」
こんな言葉が出たのは、謝りたくなかったからだ。いちいち癇に障る事を言う音琴は本来その度に謝罪すべきだ。にも拘らずその気配すら見せない。ならばネココだって態々謝る必要は無いだろう。
「あっそ」
音琴は、たった三音の短い言葉で会話を切った。
その時、鈴川がパンっと手を叩いた。
「さて! 皆さんの挨拶も終わったところで、クラス役員を決めたいと思います。じゃあ先ずは、学級委員長を決めましょう。そして、ここからはその人に進行してもらいましょう。では我こそは、という方はいますか?」
涼川は手を上げながら言った、挙手を促す様に。そんな事しなくても挙手するのに。
ネココは手を挙げた。冷たい視線を感じたのも束の間、「おおっ」という声が上がった。「首席が学級委員長なら心配ないや」とか、「流石首席」だとか声が聞こえる。ネココが手を挙げたまま振り返ると、薫子が手を挙げていた。新入生代表挨拶をしたから、インパクトが強い。これはこのままじゃ勝てないな。もう一人手を挙げている生徒――確か小副だったか――には勝てると思うが……。
「三人ですか! 皆さん積極的でいいですね。じゃあみんなで手を挙げて、一番多かった人が学級委員長、二番目が副委員長ということで。三番目の人は……、ごめんなさい。じゃあ、一分間あげるから、よーく考えて。よーい、スタート」
涼川はパンっと手で音を鳴らした。
え、アピールタイムとか無いのか。第一印象と挨拶だけで決めるという事じゃないか。第一印象が良くないのは、ネココは自分でもよく分かっていた。まあ、それでも、数人は挙げてくれるだろう。自己紹介の一番槍を務めたし、そこでピシッとした姿を見せられたし。
「はいじゃあ、出席番号順に行きますね。茅根君がいいと思う人は手を挙げてください」
一人だった。ネココを含めて。何がいけなかったんだ。読書ばかりしていたのがいけなかったのか。もっとみんなと話していれば違ったろうか。
「あなたねぇ」
音琴が振り返って話しかけてきた。
「その髪型じゃどう足掻いても学級委員長になんて選ばれないよ」
二〇一九年 十一月二十日 十八時二十四分
「ねえ、さっきから何の話をしてるの?」
猫塚がネココに問い掛ける。
「もしかして、時間稼ぎのつもり? それなら今すぐ飛び降りるよ」
猫塚の瞳は、ナイター用照明を取り込んで鋭く光っている。
「違う違う、音琴との馴れ初めを話すには、これが大事になってくるんだ」
「本当?」
猫塚が訝し気にしているのは、暗がりの中でも分かった。
「本当だ。あいつは気難しいところがあるからな。最初の絡みも重要なんだよ」
猫塚は得心がいった様な表情を浮かべた。
「確かに、沢山話しかけられてるもんね。掴みは成功って感じだ」
猫塚はうんうんと頷いている。
「いや、聞いてたか? 俺の話。大分印象悪かったと思うぞ?」
猫塚は目を見開いて「そうなの!?」と言って続けた。
「だって、アタシのほぼ初絡み、アオイからは声かけてくれなかったよ? きっと印象良くなかったんだよ」
ネココは首を捻った。
「そう……なのか……?」
「うん、そうだよ。何となく今の話の重要性分かってきた。ほら、早く続き話してよ。巻きでね。時間稼ぎだと思ったら飛ぶからね」
猫塚はぐっと眉間に皴を寄せた。
二〇一八年 四月四日 十一時一分
「はい、では、学級委員長が大杉さん、副代表が小副君に決まりましたー。拍手―」
涼川はそう言うと、パチパチパチと拍手をした。クラスの皆がそれにつられて拍手をしたが、ネココはずっと腕組みをしていた。
「じゃあここからの進行は、大杉さんと小副君にお願いしてもいいかな?」
大杉は「はい!」とはっきりと返事をし、小副はぴょこっとお辞儀をした。
ホームルームで決めることのリストを渡された二人は、その紙を見ながら少し話し合った様子だ。その後、小副は黒板にチョークで書き出し始め、薫子は教卓に手をついてクラスを見渡した。
「では今から、委員会を決めていきたいと思います。えー、強制ではありませんが、各委員会二人は必ず必要です。」
薫子が言う後ろで、小副が委員会名を書き連ねていった。
学級委員長が無理でも、委員会には入っておきたい。そう考えたネココの瞳は、お目当ての委員会を映し出した。よし、ここに入るぞ。
「ではこの中から一つ手を挙げてください」
薫子は、背後の黒板に書かれた委員会名たちを、撫でるように指し示しながら言った。
「まず、風紀委員会に入りたい方、手を挙げてください」
一人の手が挙がった。薫子は、座席表とにらめっこして名前を突き止め、小副が黒板に名前を書いた。
まだだ。まだ手を挙げるな。
その後も委員会の選考は続いていった。
「はい、じゃあ次、図書委員会に入りたい方は手を挙げてください」
きた。
「はいっ!」
はっきりとした返事と共に、ネココは手を挙げた。
「お、ちょうど二人ですね」
え、誰だろう。そう思ってネココは教室を見渡した。すると天井に向かって伸びる手は、目の前にあった。
「えー、茅根恋心さんと、蒼井音琴さんですね」
最悪だ。どれくらい最悪かって、買って冷蔵庫に入れておいたあまおうのショートケーキを、姉に無断で食べられていた時ぐらいだ。
音琴はさっとネココの方に振り向いてきた。
「ちょっと真似しないでよ!」
音琴の眉間には皴が寄り、目玉はじっとネココを見ていた。
「そっちこそ真似したんじゃないのか?」
「後ろに目が付いてる訳じゃないんだから無理でしょ。もういい、キャンセルしよ」
音琴は大杉の方に向き直った。
「すみま――」
「はいじゃあ、図書委員会は決まりですね、拍手―」
教室中に拍手がこだました。今更キャンセルなど誰が言えようか。音琴も同じ考えの様で、がっくりと項垂れているのが後ろからでも分かった。
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