チャプター6 Sewing

十四


  二〇一八年 十一月二十日 十七時三十分


「蒼井音琴!」

 音琴がプラネタリウムドームの扉を開けると、中にいた猫塚が濁流のような勢いで怒鳴った。

「ど、どうしたの?」

 音琴には、猫塚に怒られる覚えは無かった。

「蒼井……、あんた、今日の放課後アタシの元彼と仲良く歩いてたよね。腕なんて組んじゃってさ。前話したよね、まだ好きだって。なのに裏切ったの?」

 猫塚は物凄い形相をしている。まるで怒った闘牛の様だ。

「猫塚さん落ち着いて」

「これが落ち着いていられるか! 蒼井ね、アタシはアイツに初めてをあげたんだよ。将来、結婚したいと思ってた! いや、今でも思ってる!」

 猫塚は、唾が音琴に掛かる程の勢いで捲し立てた。

「うん、それは前に聞いたよ」

 猫塚はぎゅっと眉間に皺を寄せた。

「じゃあ何で蒼井はこんな真似したの? 尚更信じられない。アタシ、大好きなんだよ。気怠そうな声色とか、ちょっと強面だけど笑顔が可愛いところとか、さり気なく車道側を歩いてくれるところとか、さり気なく荷物を持ってくれるところとか! とにかく言い出したらキリがないくらい好きなんだよ! なのに蒼井はそれを踏みにじって……!」

「そうなんだね、大好きなんだね。でも私、本当に心当たりがない。見間違いか何かじゃない?」

「いーや、そんな事ない! アタシ、写真撮ったんだから!」

 そういって猫塚は、スマートフォンの画面を差し出してきた。そこに映ったのは、音琴と、それから音琴の兄、亜蓮だった。

「え、これ、お兄ちゃんだけど……。まさか、猫塚さんの元彼ってお兄ちゃんだったの……!?」

 音琴は、鳩が豆鉄砲を食った様になった。

「え、そうなの!? 名前、桜庭亜蓮?」

 猫塚も目を丸くした。

「そうだよ、桜庭亜蓮」

 どうやら、猫塚は亜蓮と付き合っていた様だ。

「えー、だって苗字違うじゃん。あ、そっか。親が離婚してるんだっけか」

 猫塚の目は普段の様子に戻った。腑に落ちたようだ。しかし、音琴は腑に落ちないことがあった。

「そう、だから苗字が違うの。にしても、どこで知り合ったの?」

 音琴は頭の上にはてなマークを浮かべた。

「あーそれはね、アタシが『SAKURA GARDEN』に通ってるの。亜蓮のお客さん。なーんだ、ゴメンねアタシの早とちりで」

「ううん、大丈夫。それにしても凄い偶然! そこからどう恋愛に発達したの?」

「アタシからアプローチしたの」

「すごーい。え、でも待てよ……。私とお兄ちゃんが五歳差だから……。え、猫塚さん五歳差ってこと? え、お兄ちゃん犯罪じゃん」

「大丈夫、アタシが被害届出さなければセーフだよ」

 兄の性事情をこういう形で聞くことになるなんて、何だか恥ずかしい。でも待てよ?

「もう二人は別れてるんだよね? じゃあ被害届出したい放題じゃん。え? 出さないよね?」

 兄が犯罪者となるなんて嫌だ。

「出さないよー。まだ好きだもん」

「じゃあ好きじゃなくなったら?」

「出さないよ。セックスしたときの、亜蓮になら身を委ねてもいいっていうアタシの気持ちを否定する事になるから」

「そんな事もどうでもいいってなったら? お金がどうしても必要で――」

「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。余程亜蓮が好きなんだね」

 特別好きという訳じゃない。でも、高校生にもなって兄妹で買い物というのは珍しい気がする。これは好きという事なんだろうか。

「うん、好きなんだと思う」

「だよね。じゃなかったら、そんなに亜蓮のこと守ろうとしないもん。あーあ、音琴ちゃんみたいな妹が私にもいたらなー。なってよ、妹」

 頬をぷくーっと膨らませて猫塚が言った。

「無理でしょ、物理的に」

「そんなことないよ。アタシが亜蓮と結婚したら、音琴ちゃんは義妹になるじゃん」

「それは私にキューピッドになってくれってこと? まあ、いいかも。猫塚さんの義妹になるのも」

 音琴は自然と笑顔になった。

「え、本当に!?」

 猫塚は途端に嬉しそうな顔をする。さながら、ご主人様が帰ってきた犬の様だ。

「ただなー見返りが無いというのはなー」

 音琴は、チラッチラッと猫塚に目線を遣った。

「え、アタシの義妹になれる以上に、何か求めるものなんてあるの?」

 音琴は目を見張った。そして、無言の抵抗をした。

「じゃあ、復縁できたら何でも一つ言う事聞くよ。これでいい?」

「うーん……、まあいっかそれで。それとなー、お義姉さんと呼ぶのは嫌だなー」

「それは別にはるでいいよ。アタシ達は親友なんだから、『猫塚さん』は無しね。ほら、はるって呼んでみ?」

「は、はるちゃん」

 猫塚は、席から半立ちになってぎゅうっと抱きしめてきた。

「ありがと。ずっとそう呼んで欲しかったんだ。呼び捨ての方がもっといいけど」

「んー、いつかね」

 猫塚はハグをやめて、音琴の両腕をつかんだ。

「でさー、これからはあんたのこと、苗字でアオイって呼ぶわ」

「別にいいけど、それじゃ私が結婚した時に支障出ない?」

「そん時はそん時。さっき苗字で呼んでみたら、意外としっくりきたんだ。音琴ってネココと発音が被ってて紛らわしかったんだよね」

 猫塚は席に座り、右手人差し指で右頬を掻きながら言った。

「じ、じゃあアオイ」

 少し緊張した面持ちで猫塚が言った。

「何?」

「いや、何でもない。呼んでみただけ。よし、今日から君はアオイだ!」

「いや、元々アオイなんだけど」

「確かにそうだ!」

 猫塚は思いきり笑った。タガが外れた様に。

「君たち」

 プラネタリウムドームの入口から声が聞えた。スタッフのお爺さんだ。

「大騒ぎしているなら出て行ってもらうよ。もう少しで上映だから静かにね」

「すみません! 以後気を付けます」

 猫塚がハッキリと言った。こういう時、音琴は黙ってしまうから猫塚がいると心強い。まあ、猫塚がいなかったら騒いで注意されることもないけれど。

 二人は、、プラネタリウムショーを口一つ開かずに観た。


  二〇一八年 十一月二十日 十八時四十八分


 二人は近くの公園に来て、一つだけあるベンチに、隣り合わせで座った。

「いやー、やっぱりプラネタリウムはいいね。今日のプログラム面白かった」

 猫塚が言った。暗くても、目をキラキラ輝かせているのが分かった。

「ね、はやぶさが帰ってきたところ感動的だよね」

 音琴は欠伸をしながら言った。このプログラムも何度も見たことがある。

「燃え尽きちゃうのも諸行無常って感じでいいよね。趣がある」

「え、そこは悲しむところじゃない?」

「音……じゃないアオイったら分かってないなあ」

「プラネタリウム歴は私の方が長いんだけど?」

「アオイって映画とか観ないでしょ。今日のはどちらかと言えば映画に近いもん」

「観るもん」

 音琴は、頬を膨らまして視線を左上に向けた。

「月に何本?」

「え、月にというか半年に一、二本くらいだけど」

「アタシは月に二本くらい観るよ。パンフも買うし! じゃあアタシの感想の方が真だね」

「うー……」

「ところでさ、アオイは亜蓮とよく出掛けるの?」

 猫塚は身を乗り出して訊いてきた。

「うーん、よくって程でもないけど……二、三ヶ月に一回くらいかな。今日って火曜日でしょ? そういう『SAKURA GARDEN』の定休日に出掛けるの」

「そうなんだ。確かに、アタシも亜蓮と付き合ってた時、火曜日にお出掛けってことが多かったんだけど、偶に用事があるって言ってたんだよね。それはアオイと出掛けてたからなのかな。何してるの? いつも」

「出掛ける前に、まずお父さん家に行くの。あ、お兄ちゃんはお父さんと一緒に住んでるから」

 猫塚がニコッとした。

「知ってるよ。泊まったことあるもん」

「え、まさかお父さん家で、その、ヤったの?」

 音琴は赤面しながら言った。

「うん、まあね」

「複雑だ……」

「何で?」

 猫塚は恥ずかしむ様子もなく訊いてくる。

「お父さん家って、元々お母さん含めて四人で暮らしてたんだけど、その時私、お兄ちゃんと同じ部屋に住んでたんだよね。だからその部屋で行為がされたと思うと……それに今もお兄ちゃんの部屋に上がるし……」

 猫塚は俯いた。

「それはごめんなさい。確かに、アタシの部屋でパパがヤってたらと思うと鳥肌が立つや」

「それは違くない?」

 音琴は吹き出してしまった。

「そうかな?」

 真剣な顔でこちらを見ているのが面白くて、また笑ってしまった。

「そうだよー。で、何の話だっけ」

「亜蓮と出掛ける前はお父さん家に行くって話でしょ?」

「あーそうそう。そうだった。それでね、お兄ちゃんの部屋で化粧とかとかヘアメイクとかしてもらうの」

 音琴は顔をポンポンと叩いたり、髪を束ねるジェスチャーをしながら言った。

「そんな部屋でヤっててごめん……」

「もういいって」

 いちいちバツが悪そうな顔をするのが面白くて、つい笑ってしまう。今度から、何かある度この話をしてやろう。

「でも待って。アタシ、そんなことされた覚えが無いよ! いいなー、羨ましい」

 猫塚は「ズルいー」と口を噤む。

「猫……はるちゃんは亜蓮が何かしなくても可愛いからだよ。」

「そうかな?」

 猫塚は満更でもない様子だ。

「そうだよー。お兄ちゃんたら酷いんだよ。『普段のお前に横を歩いて欲しくない』なんて言うんだよ」

「あー、分かる気がする。何か、『ザ・オタク』って感じだもんね、アオイは」

「発音的には『ジ・オタク』じゃないかな」

「んー、発音は今関係なくない? とにかくアオイはオタクなの」

 猫塚は明け透けに言い過ぎる気がする。音琴以外が聞いたら怒っているだろう。ただ、音琴にとってはそれが心地良いと感じた。

「あれ? お兄ちゃんの部屋でヤったのは誰だっけ?」

「だからごめんってば」

 案の定、猫塚は真剣な顔で言うので笑ってしまう。

「アオイのイジワル」

「はるちゃんは自分が意地悪言ってることに気付いた方が良いよ」

「え、どの辺が!?」

 声が裏返る程の勢いで猫塚が言った。

「『ザ・オタク』って言われて喜ぶ人はいないよ」

「え、だって事実だもん」

「世の中には言わない方が良い事もあるんだよ。それが処世術っていうもんだと思うけど」

 何でクラスの隅っこにいる様な奴が処世術なんて語ってるんだろう。

「そうなの? でも怒られた事無いし大丈夫でしょ。」

 これが可愛いくてオシャレな奴の特権か。

「もっと相手の気持ちを汲まないと」

「そんなもんかなー」

「そうだよー。で、閑話休題。二時間くらいお兄ちゃんに手入れされて、ようやくお出掛けするの」

「二時間も!? え、それでどうなるか見てみたい」

 猫塚は期待に胸を膨らませた様な表情で言った。

「これ、前にセルフィ―撮ったやつなんだけど」

 そう言って音琴は、猫塚にスマートフォンの画面を見せた。

「え、別人じゃん! 亜蓮凄っ!」

 音琴を動物に例えると、普段がハダカデバネズミ、亜蓮の手に掛かった後がゴールデンハムスターだ。

「あれ? でも今日はいつも通りだよね? なんで?」

 猫塚は首を傾げた。

「今日は時間が無かったから。その……はるちゃんとプラネタリウムを見たくて……」

 音琴は下を向いて、ボソボソとした声で言った。

「嬉しい! 約束してた訳でもないのに! 何で来るって分かったの?」

「最近、殆ど毎日来てるの……」

 音琴は、顔が耳まで赤くなっているのが分かる。

「嬉しい! でも、LINEしてくれたらいつでも来たのに」

「いや、それは恥ずかしいし……。LINEも使い慣れてないし……」

 音琴は再び、ボソボソとした声になった。

「LINEするのが恥ずかしいなんて変なの。で、続きは?」

「え、続き? えーと、どこに出掛けるかでいいんだっけ?」

「うん」

「えーと、そうだな……。今日はお洋服を買いに連れて行ってもらった。私は服なんて何でもいいんだけど」

「もしかして、買ってもらったの?」

「うん、まあね。今持ってるよ、見る?」

 そう言って音琴は、紙袋から服を取り出した。

「わー、フレアスカートだ! 可愛い! いいなー、アタシが服買ってもらった事なんて、片手で数える程しかないよ。よっぽど仲良いんだね。」

「そう……なのかな?」

 小学生の時は一年だけ同じ学校に在籍したけれど、中高は五歳差があるため被らず、回りの人に兄の存在が認知されなかった。だから、第三者視点での評価はほぼ初めてだ。

「そうだよー。他には? どこ行くの?」

「そうだなー、映画観たり、カラオケ行ったり、ご飯食べたりかな?」

「もしかして、全部奢り?」

「まさか。割り勘ではないけど、私も出すよ」

 猫塚はにやりと笑った。

「いえーい、アタシは奢りー」

 猫塚は、語尾に音符が付いたような口調で言った。なんだかムカつく。

「あっそ。私だって奢ってもらったことあるもん。このスカートだってそうだし。ていうか元カノが何言ってるんだか」

 音琴はぷいっとそっぽを向いて言った。

「いいんですー、アタシと亜蓮は復縁するから。ていうか、さっき復縁に協力してくれるって言ったよね?」

「はいはい、言いました。でもお兄ちゃん、頑固だからなあ、一度自ら振った相手と、もう一度付き合うのに抵抗ありそうなんだよなあ」

 猫塚は音琴の右腕を、右手人差し指でぎゅうっと押した。

「それを何とかするのがアオイの仕事じゃないの?」

「私は二人を引き合わせるくらいしかできないよ。お兄ちゃんの心の扉こじ開けるのははるちゃんの仕事だよ。」

「クッサい事言うなー。じゃあ具体的にどう引き合わせてくれるの?」

「んー」

 音琴は右手人差し指を顎に当てて逡巡した。

「例えば、私がお兄ちゃんとのお出掛けの約束をして、はるちゃんが代わりに行くとか」

「えー、それ怒られない?」

「それくらいしか思い付かないんだもん。後はもう、『SAKURA GARDEN』に直接行くとかだね」

 音琴はムッとした表情になった。

「えー、元カノが店に詰め寄ってきたら嫌じゃないかな?」

「いや、逆に喜ぶんじゃないかな。後はさ、買ってもらった服とか褒められた服着ていけば完璧だよ」

「じゃあ今度、借りパクしてるワイシャツ着ていこうかな」

「うん、いいと思う!」

 二人は顔を見合わせて笑った。

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