四
十一月十五日 十八時五十一分
音琴は、猫塚と話す場所を近くの公園にした。みらい科学館の閉館時刻が十九時なためだ。まったく、いくら子供向けの施設とはいえ十九時は早すぎるだろう。最終のプラネタリウムが十八時だから、平日はちょっと用事があるだけで見られなくなる。特別感は感じるが、それはもっと別の方向で演出してほしい。
公園はブランコと滑り台、ベンチだけがある小さなものだ。外灯はあるが薄暗い。音琴は立ったまま、ベンチに猫塚を座らせて話を始めた。
「お別れって何があったの?」
「それがね――」
十一月十五日 十九時四十八分
「そっか、別れはつらいよね」
音琴はそう言ったが、正直ピンときていなかった。生まれてこの方、別れを経験したことがなかったからだ。
「わー、ヤバい。もうこんな時間」
猫塚は腕時計を見て言った。二十時近くで驚くのか、意外だ。キラキラしている猫塚のことだ。平気で零時過ぎに帰ってそうなイメージだった。
「何か別の用事があるの?」
音琴は尋ねた。いつもだったら尋ねていないだろう。コミュニケーション能力が無いし、猫塚は少し怖いし。だが気になった。
「んー、特に予定はないかな」
予定もないのに時間を気にしたのか。何故だろう。実は家が厳しいとか。
「門限とかあるの?」
「門限は無いけど、うち父子家庭だから」
父子家庭だと早く帰らないといけないのだろうか。もしかして、家事を全て猫塚がしているのか。
「お母さんはどうしたの」
しまった。ついうっかり訊いてしまった。色々な事情があるだろうに、そこへ踏み込んでしまった。怒らないで。
「ママはね私が小学一年生のときに死んだの。」
「え」
「後から聞いた話だけど、癌だったんだって。そういえば、頻繁に通院したり、入退院を繰り返したりしてたっけな。けど、私まだ小さかったから、死ぬ病気と想像できなかったんだ。教えてくれていれば、もっと家事を手伝ったり、甘えたりしていたのにな。きっと私のことを気遣ってのことだろうけどね。それにしても、小学校の職員室で急に死を知らされたのはショックが大きかったな」
猫塚は、表情を一つも変えずにすらすらと言った。怒ってはいないようだ。
「ごめんなさい。言いにくいこと訊いた」
怒ってはいないようだが、謝るに越したことはないだろう。音琴にとっては、父のことを訊かれるのは気分を害する。
「え、そんなことない。そりゃあつらい時もあるよ。私独りなら適当でもいいけど、パパがいるから洗濯とか料理とかしないといけないし、それでみんなと遊べないし部活にも入れないし」
母のことを言わないのは、もう克服したということだろうか。小学一年生の時に亡くしたということは十年近くにもなる。年月が忘れさせてくれたのだろうか。
「つらい時もあるんだ。私、キラキラしてる猫塚さんがちょっと疎ましく思ってたんだ。きっと放課後はカラオケとか行ってワイワイ大勢で遊んだり、土日はスイーツバイキングとか行ったりしてるんだろうなって。私の貧相な頭ではこれくらいしか思い付かないんだけど。じゃなくて、何か軽い人って思ってたの謝らないと。ごめんなさい」
あー。言わなくてもいい事を言ってしまった。こんなだからクラスで浮くんだよ。
「えー、休日は割と遊べてるよ。作り置きして、パパにはそれを食べてもらってる。まあ、食材とか生活用品とか買いに行くしかないから土日のどっちかは比較的遊べないけど」
それでも。
「それでもつらいでしょ。寂しいんでしょ。なれるか分からないけど、私がお別れした人の代わりになるから」
何を言っているんだ。音琴ごときが埋められる穴じゃない。それにそもそもクラスで浮いている音琴とつるんだら、猫塚の立場も危うくなるのではないだろうか。
「ありがとー。じゃあセックスだ」
セックスってあのセックスだよね。女の子同士でなんてそんな。そんなつもりで言ったんじゃないんだけどな。
「顔固まってるよ。冗談に決まってるじゃん」
今、そういう経験ない人なんだ、って嘲笑われた気がした。もしかして、嘲るために言ったんじゃないだろうか。
「冗談に聞こえないから怖い」
音琴の顔は固まったままだった。
「大丈夫、大丈夫。襲ったりしないって」
その言葉は無邪気な笑みを孕んでいた。陽の人のノリは怖い。
「ねえ、聴いてるの? 冗談だって。本気にしちゃった?」
薄明かりの中でも、馬鹿にされているのが分かる。こういう軽口に慣れてそうだもんな、陽キャって。話を聴いてあげていたのに酷い仕打ちだ。
「分かってるって。私が襲っても文句は無いって話だよね」
これは猫塚を出し抜いた。
「そゆことそゆこと。今襲ってきてもいいんだぞー」
そう言うと猫塚は、立ち上がって音琴の方を向き、両の手を広げた。全然出し抜けていなかった。猫塚が一枚上手だ。これ以上は返しが思い付かない。そうだ。
猫塚は瞬間、地面にへたり込んだ。
やり過ぎた。音琴は、猫塚目掛けてボディストレートを放ったのだ。友達のいない音琴は、力加減というものを知らない。
「やるね、音琴ちゃん…。ナイスパンチ」
そう言うと右手の親指を立て、俯せに倒れこんだ。
「あーあ、制服汚れちゃうよ」
音琴は自分がやり過ぎたことに気付いていない。猫塚の両脇に手を入れ、強引に上体を持ち上げた。そして、土の付いているところを払った。猫塚の姿勢は、立ち膝でお腹を抱え込むようになっている。
「うぅ。音琴ちゃん、ちょっと強引すぎ。お腹、入ってるから」
猫塚は唸りながら言った。音琴は構わず、再び音琴の脇に手を入れ、上体を持ち上げベンチに座らせた。そしてスカートに付いた土をぱたぱたと落とした
「猫塚さん、自分でもちゃんと土落としてよ」
音琴は呆れた調子で言った。土塗れの制服で帰ったら、母に何を言われるか分からない。あ。猫塚の母はいないんだった。いや、それなら尚のこと土を落とさせるべきだ。
「落とすよ」
猫塚は座ったまま、両の手で制服の上から下までぱたぱたと叩いた。
「ていうか、猫塚さんなんて余所余所しい呼び方やめてよ」
薄明かりの中、土の付いた個所を確認しながら言った。
「そんなこと言われても私、他人を下の名前で呼んだことないし。そういうノリ、ちょっと苦手なんだよね」
はっとした。ちょっと言い方がキツかっただろうか。猫塚を傷付けたのではないだろうか。いつもそうだ。他人を傷付けることばかり言ってしまう。さっきもお母さんについて詮索したばかりだ。考えすぎなのかもしれないけれど、他人からの評価が気になって仕方ない。
「下の名前で呼ぶの苦手な人とかいるの? 変なの。」
変なのって何。こちらが気遣っているのにその返しはないだろう。
「でもまあ、強要はしないであげる。私は音琴ちゃん、て呼ぶからいつでもはるって呼んでいいよ」
こういうすぐ下の名前で呼ぶノリが苦手なのに。いや、十一月にもなって“すぐ”は変か。自分の人見知りを棚に上げてみっともない。でも、苦手なものは苦手なのだ。
「多分、私が下の名前で呼ぶことはないけど、それでもいいならいいよ」
猫塚は口を一文字に結んで不服そうな顔をしている。
「ところで猫塚さん、時間はいいの」
「はっ!もう八時過ぎてるじゃん、パパ帰ってきてたらどうしよ」
猫塚は再び腕時計を確認した。その表情には焦りが見える。
「お父さん、怖い人なの?」
「怖くないと思うけど、何で」
怒られる様なら、音琴にも責任がある。一緒に謝りに行かなければならない。
「怒られないか心配になって」
「そういう事ね。なら大丈夫。一人じゃ何もできないってだけだから。きっと今頃ご飯食べられずに晩酌だけしてると思うよ」
猫塚はスラっと言ってのける。しかし、それってまずいんじゃないだろうか。
「なら、余計に早く帰らなきゃ」
「そうだねー、ご飯作ってあげるとしますか。うちこの辺だから、ここでバイバイでいいかな?」
「うん、私自転車だし。それでいいよ」
「そうなんだ、じゃあまた明日ね」
晩秋の夜風が、二人の間を吹き抜けていった。
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