6.この日

長い夢を見ていた。フェネとの思い出の夢だ。

頭がぼんやりしている。今は何時だ。スマホの明かりが目に染みた。慌てて画面の明るさを下げる。只今午前9時16分。今日は…そうだ、今日は久しぶりに休みの日。だからゆっくりしたくてこんな時間まで寝てたのだ。それならもう少し惰眠をむさぼるとしよう。そう思って目を閉じた時、お腹が飢えたライオンみたいな声を出した。

睡眠欲は満たされたはずだ、食事をしよう。お腹のライオンもそれに賛成している。僕はその定義が『一日のうちで最初に食べる食事』ならば朝ごはんと呼べる食事を作るべく、起き上がった。

「おはよー」

リビングに入ると深くて甘いあの声がして僕は驚いた。

「おはよう。何だか顔見るの久々だね」

フェネは今日も大きな瞳をその顔の真中に湛えている。

「そうだっけ?…いや、そうかも。」

ここ一ヶ月ほど、僕は大学が忙しくて家にいる時間があまり無かった。彼女は彼女で相変わらず不定期に家を空けるので、暫くお互いの生活の息吹を間近に感じているのに入れ違いになっていた。正直なところ僕はその間、太陽が一段階明るさを下げたかのように感じていたが、彼女は特に気にして無さそうだった。いやまぁ、フェネが元気なら別に何も問題無いのだが。

「今からご飯作るけど食べる?」

と言いながら答えの分かってた僕は二人分の卵を取り出した。

「食べるー」

僕は久しぶりにフライパンに卵を割る。恥ずかしながら、僕の辞書の『健康バランス』の文字は『フェネ』と連動しているのだと気付かされる。


「「いただきます。」」

目玉焼き、ソーセージ、ポテトサラダ、オニオンリングとヨーグルトの簡単な食事だが、二人で手を合わせるとより美味しく感じる。目玉焼きに箸を伸ばす。てらてらした桃色の黄身。ふわふわの白身。我ながらなかなか上手く出来たのではないだろうか。…それはそうと、さっきから視線を感じる。見ると、フェネが僕のことを見ていた。

「気になるの?それ。」

何の事か分からなかった。フェネが指さしたあたりを見ると、僕の左手が前髪を弄っていた。無意識だった。

最近髪を切りに行けないほど忙しく、随分伸びていたのだ。目に掛かるのが邪魔で手で払っているうちに、弄る癖がついてしまっていた。

「あぁごめん。ちょっと伸びちゃって…邪魔くさいんだよね、これ。まぁそのうち切りに行こうかな。」

朝食を再開しようとすると、思わぬ返答が帰ってきた。

「じゃあさ、私が切ってみていい?」

目玉焼きの白身が気管に飛び込んでいった。激しく咳き込みながら答える。

「…、いや、『切ってみていい?』って言われても…」

「大丈夫、私そうゆう勉強してるから。」

正直もの凄く不安だった。明日から坊主かもしれない。しかし結局、僕はOKしてしまったのだ。


もしこの時断っていたら、結果は違ったのか。否、が遅くなるだけだっただろう。いずれ同じ結末に辿り着いていたはずだと思う。


髪の毛の塊がひらひらと新聞紙の上に落ちる。さっきまで僕に生えてた毛だ。案外僕はリラックスできていた。確かにフェネは『そうゆう勉強』をしていたようだった。てきぱきと髪型を整えて行く手つきには安心感があった。


暫くはハサミの音だけが響いていた。

「ねぇ。何か大切な事を忘れることってない?」

フェネが唐突に話しかけてくる。彼女はいま僕の後ろでハサミを握っているので表情は分からない。

「まぁ…無いことは無いけど。いきなりどうした?」

「いや別に。たださ、人ってここまで記憶に鍵を掛けれるんだなって。」

何を言っているのだろう。

「忘れようとしすぎて、自分が何で苦しんでるのかすら分からなくなって。」

何を言っているのか分からない。

「私が来てからはあまりその事を考えずに済んだみたいだけど…」

分からない、やめてくれ。

「もう、大丈夫だから。」

フェネが耳元で囁いた。僕は虎に睨まれたかのように全身が硬直して動けなくなってしまった。僕は獲物、狩られる側なのだと理解する。

次の瞬間、視界の端で銀色の物体が光り、部屋の壁に真赤な一本線が現れた。首に今まで感じたことの無い激痛が走る。手で触ってみると、赤い液体が付いた。

「っ…!」

叫ぼうとしたが声が出ない。息が吸えない。喉が引き千切られるかのようだった。あまりの痛みに目の前に黒い斑点が踊る。

「喋らない方がいいよ。気管に穴空いてるから。」

フェネ、なぜ…?立ち上がろうとして足がもつれ、床に倒れた。フェネが見下ろしている。そこにはいつもの宇宙を閉じ込めたような瞳は無かった。地獄の底のような紅い深淵が、そのかおに宿っていた。

「全く、大変だったよ。君全然スキが無いんだもん。でも私に依存してくれたお陰で、ぜーんぶ視れたよ。」

その声には苦さも甘さも無い。ただ闇夜のトンネルを通り抜ける風のように空っぽで、ぞっとするほど冷たかった。

「ひゅー、ひゅー」

息を吸えば吸うほど、首元から空気が漏れる。

フェネ、なぜ…?どろどろした真っ暗な絶望が、僕はもう助からない事を知らせていた。

フェネがゆっくり、口を開く。次にその口から発せられる言葉を聞いたら、もう僕は戻れなくなるだろう。なのに僕の耳は残酷にも彼女の声を拾い、鼓膜を震わせる。

「君さ、人、殺してるよね?」

その音には逆らえない響きがあった。

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