5.思い出:水族館
『岩にしみ入る蝉の声』とはよく言ったものである。しかし、現代のコンクリートジャングルに於いてはしみ入り過ぎだ。岩どころかアスファルトやビルの壁面に蝉の声がしみにしみ入り、溢れた分は反響として吐き出されそれがまた反響するという熱中地獄のハウリング現象が起こる。その結果、鼓膜を破壊せんばかりの轟音が街中で濁流のように渦巻くのだ。そしてそこに都会特有の車や人の排気ガスの土っぽい暑い臭いが混じり、街の中心部はサウナと化す。体外と体内の温度の間に差がないので、自分の身体がどこまで広がっているのか分からなくなってしまう。そんな中にずっと居れば当然正気を保てない。意識がゆらゆら飛んでって、夏の熱波の中に溶けてしまう。電子レンジで調理されるチルド食品はこんな気分だったのか。僕はなんてえげつない事を何の迷いもなくしてきたのだろう。
そんなわけで、僕らは完全ににバテた。フェネは朝早くと夜遅くしか活動しなくなり、昼間は家で寝るという生活だ。かく言う僕も、あまりの暑さに喉が閉じ、まともに食事を摂らなくなった。今朝もアイスとヨーグルトしか食べていない。
このままじゃ駄目だ。このままだと夏に惨敗し、その後の生活リズムに深刻な爪痕を遺す羽目になる。暑さから逃れる事は僕らの夏の最重要課題だった。事態を重く見た僕たちは、『水族館作戦』を実行することにした。当作戦では水族館に行き涼を満喫することで夏の猛攻から身を守り戦況を一変させ、形勢逆転を狙う。涼しい室内、優雅に泳ぐ魚たち、揺れる
最も近い水族館は隣市にあるので、僕らは電車に乗った。シューと音を立てて扉が閉まる。少しの間の後、後ろに引っ張られるような感覚と共に力強く電車が進み始めた。
「水族館なんていつぶりだろ。もう随分長い事行ったこと無かった。」
飛んでいく景色を眺めながらフェネが言う。
「そうなんだ。じゃあ今日は特別楽しみだ、…ね…」
思わず語尾が尻すぼみになる。フェネがどこか遠い目をしていたからだ。どこか彼方に懐かしさを見出そうとする顔。故郷から遥か遠くにきてしまった者の顔。フェネのそんな表情を見たことがなかった。思えば、僕は彼女の事を何も知らない。
フェネはどこから来て、何をしてきたのだろう。普段は押し隠してきた疑問が頭に浮かぶ。
「ねぇ、前に水族館に行った時はどんなだったの?」
フェネはちょっと驚くような顔をしたが、直ぐに
「うーん、前行った時の事はほとんど忘れちゃった。私がこうなる前の事だから。…でも、楽しかったんだろうね。」
始めてフェネから過去の話を聞けた気がした。『こうなる前』というのは、彼女の目が一つになる前という意味だろうか。
「こうなる前って?」
「私がこの
要するに私はカミサマが振ったサイコロの7の目なんだよ。…それはそうと、今日行くとこはどんなとこなの。すごく大きいとこなんでしょ?」
僕は彼女が話を終わらせたがっているのに気付いた。
「そうだよ、ウミガメを一番推している水族館なんだけど、他のも楽しめると思う。」
それからは僕らはほぼ無言で、たまに景色のことやお昼ごはんをどこで食べるか等を話した。それでも頭はフェネの言葉の意味を考えていた。
電車に揺られること40分、ようやく僕らは駅のホームに降り立った。ここでもご多分に漏れず蝉は鼓膜破壊マシンだが、息を吸うと潮の香りがした。それだけでも幾分か暑さが和らいで感じる。駅の壁面の巨大なイルカやウミガメのポスターが僕らの目的地への方向と距離を示していた。
僕はフェネの手を取って、歩きだした。
水族館は思っていたより空いていた。薄暗い館内の足元を青い照明が照らしている。床には波紋を模した模様が描かれていた。何を見るとも決めてなかった僕らはぶらぶら館内を歩いた。
フェネは自由気ままに、何度も僕の手を引っ張った。僕はされるがまま、彼女に付いて行った。
青い空間の中、フェネは一輪の花のように咲いている。大きな瞳の中に反射して、フェネの目の中を魚が泳いでいるようにも見える。大水槽を渦巻くイワシの群れを背景に立つフェネは、カメラを持ってこなかった事が激しく悔やまれる程に絵になっていた。深海魚の紹介パネルを照らすスポットライトに照らされ、まつ毛が輝く姿。くるくると水流に任せて舞うように泳ぐクラゲを目で追う姿。サンゴの陰に隠れている熱帯魚を一目見ようと探す姿。そのどれもが僕の目に焼き付く。フェネはこんなに美しかっただろうか。確かに出ったときからその顔、特に眼には吸い込まれるような思いがしたが、今は彼女の一挙手一投足に胸が高鳴る。彼女の何かが変わったのか?しかしそんな様子は無い。それなら、僕が?僕は何も変わってないはずだ。確かに最近フェネのことを生活に欠かせない程大切に思うようになったが…そう、最近フェネを大切に、失いたく無いと思うようになった。今まで持ったことの無い欲望だ。僕はずっと彼女と一緒にいたい。
そうか。僕はこの感情を表す言葉をずっと前から知っている。知っていたが、それだけだった。でも今は違う。なぜなら僕が今まさにその言葉の中にいるからだ。顔が熱くなるのが分かった。思わず立ち止まってしまった僕に、フェネが
「どうしたの?」
と尋ねる。やっとの思いで、
「何でもない。」
と口から絞り出した。
チュロスはお昼ご飯になるだろうか。わざわざ一食も食べるほどお腹が減ってなかった僕達にとってこの問の答えは『イェス』だ。屋台で買ったチュロスをサクサク食べた。チュロスはいい。なぜならこれを食べられる場所は遊園地、動物園、水族館。要は楽しい場所しか無いのだ。
「始めて食べた。」
シナモン味を食べながらフェネが言う。
「うまいでしょ?冬に食べたらもっと美味しいんだけどね。」
チョコ味を頬張りながら答える。
やはりチュロスは常に素晴らしい思い出と共にあるものなのだ。間違いない。フェネの笑顔を見て、どうやら僕はまた一つ宇宙の心理を見つけてしまったようだな、と思う。
さあ、午後はどこを回ろうか。目玉のウミガメもまだ見れてない。館内マップを広げた僕は、魚を見る事などとうに諦めているにも関わらず、心臓が高鳴るのを感じた。
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