3.思い出:映画館

朝起きるとフェネが居なかった。こんなことは時々ある。ある時ふらっと外に出ていき、その間は地球上から消えてしまったみたいにラインも電話も出てくれないし、掛けてこない。帰ってくるまでの時間もまちまちで、三日経っても帰ってこなかったり、数時間後に腹を空かして突然帰ってきたり。

彼女と死ぬまで暮らす約束をしている訳ではないし、むしろどちらかというと彼女が勝手に僕の家に住み着いているのだから、僕はフェネがいなくても探さない。それでもフェネは最後にはいつも僕の家に帰ってくるのだ。


だから僕はこの日もその類だろうと思い大して心配もせず、講義も無かったので怠惰な一日を満喫しようとした。ところが、今まで一度も無かったことが起きた。

家出中にフェネの方からラインを送ってきたのだ。その内容はいつものフェネからは想像できないぐらいやたらとかしこまっていて、そして簡潔だった。

【今トワイライトシネマ栄仁えいじんにいます。8:30に来れますか。観たい映画があります。】

こんなことは初めてだった。今の時刻は7時50分。僕は慌てて支度を始めた。


外に出ると息が白く渦巻いて上っていった。思わずコートのポケットに両手を突っ込む。赤と緑に彩られたショウウィンドウを眺めて、まだフェネと会ってから二ヶ月しか経ってない事実に驚いた。


僕が映画館に着いたとき、もう入場が始まっていた。フェネはポップコーンをかじりながら待っていた。

「急いで、もう始まっちゃう」

僕らは半ば飛び込むように座席にいた。入場が遅かったからか、何度も謝って足を退かしてもらわなければならなかった。なのに僕は今から見るの映画のタイトルさえ知らない。

オレンジの高級感のある照明が消え、劇場内が暗くなる。ざわめきが止み、深海のような静けさが訪れる。少しの間。

空気を切り裂くようなオーケストラの大音響が響き、映画会社のロゴが映し出される。

映画が始まる前のこの瞬間が何より好きだ。今から始まる100分間は、自分自身という殻から抜け出して違う場所、違う時代、或いは違う世界での人生を過ごす。その直前に訪れるこの時間に僕は、感情を高ぶらせ、まだ見ない世界を思い浮かべる。100分後自分はどんな人間になっているのだろう。この静かで、しかし強く速い心臓の鼓動を映画館以外の場所で再現する方法を僕は知らない。


映画が上映されている間、スクリーンは僕の全神経を吸い込んでしまった。だから、隣にフェネが居ることすらも半ば忘れていた。一度だけスクリーンから目を離し、フェネの方を見た。彼女も僕と同じだった。零れそうな瞳の中に、スクリーンの映像が反射してきらきらと輝いている。元々大きな目が更に広がり、瞬きすら惜しむかのようにその視線をただ一心に映像の中に溺れさせていた。

彼女も僕と同じだ。僕は今、フェネと同じ100分間の人生に酔っている。その言葉の響きは何だかとても美しく、官能的ですらあった。


映画が終わっても、僕の高揚感は冷めなかった。足元の歩道が脈打っている気がする。靴がマシュマロでできているみたいだ。人々のざわめきはさざ波のように聞こえた。

映画の内容はタイムパラドックスを扱った、とても複雑で難解なものだった。一度観ただけでは完全に全貌を把握できそうにない。もう一度見たい。そしてまた理解できず、正しい答えが監督と原作者の頭の中にしか存在しないのだろうと思い知らされたい。


フェネと考察を語り合うのは第二の至福だった。近くのドーナツ屋に入って、延々と説得力のある説から突飛な説まで、あらゆる考察を考えてはぶつけ合い、その破片から新たな説を再構築してはぶつけ合った。まるでレゴブロックで雪合戦しているみたいだ。時には反論し、時には肯定する。時間を忘れて、誰かとこんなに密に議論をしたのはいつぶりだろうか。言葉ではなく、心で響き合う対話だ。やがて、相手の本質の深い所が見えてくる。心臓の琴線をかき分けかき分け手を伸ばした先に、やっと触れることのできる底には不定形な堆積物が渦巻いているのだ。そしてそれに触れるには、やはり自分自身も心の底までを相手に委ねなければならない。それはまるで少年に戻ったような懐かしい感覚で、気がつけば僕もフェネも笑顔だった。


頭をフル回転させ続けれなくり、議論の内容が映画からポップコーンの塩バター派キャラメル派論争に移った頃、僕らはドーナツ屋を出た。ドーナツ屋の店員はほっとしたようだった。

それにしてもポップコーンはキャラメルに限る。塩バターなんて脂っこすぎるし映画と合わないじゃないか…

でも、今度映画館に行ったら、塩バターも食べてみても悪くないかもしれない。

フェネと並んで、タイルの歩道を歩く。彼女は僕より歩幅が小さいから、いつもよりゆっくりだ。ほぼ無意識にポケットに手を突っ込もうとすると、フェネが袖を引っ張った。僕は手を差し出す。フェネの手は僕のより一回り小さく、滑らかだ。僕らは掌の温かさを分け合いながら、赤と緑に変貌しつつある街をぶらぶらと歩いていった。

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