1.あの日

時計の秒針がやけに煩く響く。もう10月だというのに、布団には僕の影がくっきり残っている。肌は粟立ち、パジャマは僕に貼り付く深夜2時。何で目が覚めたんだろう…

そうだ、何か嫌な夢を見たのだ。でもどんな夢だったか…どんな?

胃が震え、酸っぱいモノが食道を上昇する。押し込めようとしたが、よく振った炭酸飲料のようにどうしようもなかった。咄嗟に枕元に準備してあったバケツを手に取る。

なけなしの夕飯が、胃液と共にその中にぶちまけられた。

酸っぱい臭いが鼻に絡みつき、思わず顔を逸らした。喉が焼けているかのようだ。僕は夢の内容を思い出すことを諦めた。ふらつく頭を押さえて立ち上がり、月面を歩くみたいな足取りで台所に向かった。


グラスを洗って、シンクの横に伏せて置いた。汗も震えも幾分か収まり、足取りも地球のそれだった。

時計の針は2時18分を指していた。布団の方を見る。枕元には、吐瀉物が入ったバケツ。明日も講義があるのは分かっていたが、寝直す気にはなれなかった。何かを探すかのように視線を迷わせたが、何もあるはずがない。一つ息を吐いた僕は家の鍵片手に、パジャマのまま玄関の方へ向かった。


河のせせらぎと、虫の声が聴こえる。名もなき草が、足元でさくさくと音を立てた。風が肌に心地いい。遠くにはビルの窓灯と紅い航空灯が光り、少し離れたところから三日月がそれを見ていた。

当ても無く街の中を歩き回って辿り着いたそこは、心を落ち着けるには余りにも最適過ぎた。

広い河川敷には野球場やゲートボール場が整備され、それらがゆったりと曲線を描く遊歩道によって繋がっている。昼間はきっと老若男女が各々憩いの時を過ごすのだろうが、2時37分現在歩いているのは僕一人で他の人影はあるはずもなかった。風が吹く以外は耳が痛くなるような静寂の海原で、いつまでもぷかぷか浮いていたいと思えるほどに、ここは居心地が良かった。


ギギギ…と鉄橋が唸った。鉄橋の下は先程の光景とは打って変わって、ダンボールやら放棄自転車やらが散乱していた。橋脚には恐らくラッカースプレーで書かれたであろう巨大なグラフィティが自身の存在を叫ばんばかりに主張していた。

ふと前を見た。自分でもなぜそうしたのか一瞬分からなかったが、足音が聴こえたからだと気付いた。

前方から誰か歩いてくる。こんな時間に珍しいと思った。きっと向こうから来る誰かもそう思っているのだろう。鉄橋の隙間から差し込む月明かりが、その姿を照らした。

背は僕より頭一つ程小さい。ぶかぶかの黒いパーカーを着ているので、顔はよく分からない。ジーンズとサンダルのようなものを履いているがやはり暗くてよく分からなかった。お互いに距離が近づいていく。誰にも会いたくなく、挨拶すら億劫だった僕はポケットに手を突っ込み、俯いて通り過ぎようとした。見れば、前方の人影も同じ様な格好で歩いてくる。好都合だと思った。

鉄橋の下、2つのリズムが響く。響き合って、近づきあって、2つの音がやがて重なる、その時が来る。

ちゃりん。

その音はおかしなぐらいに間が抜けていて、異質だった。僕は思わず振り返る。気づかず去っていく背中。その1メートルほど手前、銀色に輝く何かが落ちていた。

拾ってみるとそれはどこの国の物かも分からない、というよりそもそも通貨ではなさそうなコインだった。天秤と、その裏には迷路みたいな複雑な模様が走っていた。彼が落とした物であろうことは明白だった。

僕は初めは静かな気分をぶち壊してくれたお礼に、何も言わずにそのまま行ってしまおうと思った。しかし、直感とも言えない妙な感覚がそれを邪魔した。僕は人と話すような気分じゃなかった。しかし結局、僕は自分でも不審に思いながら、口を開いていた。

「あの、これ落としましたよ。」

大きな声を出したつもりではなかったが、周りが静かなうえ鉄橋に反響し、想像以上に大きな声に聞こえた。

彼が振り向く。こちらを見上げる。

次の瞬間、僕の全身が1つの心臓になったみたいに脈打った。その一瞬が無限の質量を持っているような気がした。

なぜそうなったかといえば1つは彼がではなく、女性だったからだ。しかしそれよりも、彼女のかおに対する驚きのほうが何倍も大きなものだった。

彼女の顔には目が1つしか無かった。いや、1つ在ったと言った方が正しいかも知れない。

それはただ彼女の片目が眼帯に覆われているとか、そんなことじゃない。

彼女の目には片目だとかそんな概念は存在しなかった。彼女の目は1つで全てであり、それ以上でもそれ以下でもなかった。彼女のかおはそれが完全で完成された状態であり、それが産まれたままの顔だった。

彼女の顔には目が一つ在った。鼻とおでこの真中に、溢れんばかりの大きな目玉が。

しかし僕はそれに驚いたのではなかった。僕はそのかおを恐れも嫌悪もしなかった。ただ、「そういうものなのだ。」という、腑に落ちる様な感覚でそれを見ていた自分自身に驚いたのだ。

その瞳が湛えているのは光であると同時に闇だった。そのかおに宿っているもの、それは。








『宇宙』

だった。









小さい頃、図鑑か何かで宇宙遊泳の写真を見たことがある。


指先がびりびりするような、圧倒的でそして濃厚な静寂。

周りには誰もいない。何もない。僕だけだ。

聞こえるのは自分自身の呼吸音と、無線のたてるノイズだけ。

無重力に身を任せ、ゆっくりと回転する。目の前には僕が目にしたことがある中で一番濃い暗闇が、大きな口を開いて僕を丸呑みにしようとしている。

僕は恐れを感じた。しかもそれは最も根源的で原理的なものだった。そこに余計な感情はなく、ただ人間が古代から暗闇に対して抱いているそれのように澄んでいて、不思議と不快には思わなかった。むしろ安心するような、懐かしい感じがした。太古の人間は理外のモノに出会ったとき、ただ祈ったという。僕はその頃から人間は何も変わってはいないのだということを思い知らされた。

僕は個人としてのヒトではなく、種としての人類を感じた。そしてなぜ今まで宇宙そらを見上げたときこれに気付かなかったのか不思議に思った。

それにここは闇に支配されているというのに、何よりも美しく、眩しい。でも感嘆の声を上げたりはしなかった。できなかったという方が正しいかもしれない。

ここに於いて言葉というのは意味を成さない。ある人は、「言葉は人類史上最大の発明だ」と言ったが、宇宙においては言葉は雑音でしかない。この空間、時間を言葉にすることは出来ないし、しようとすることすら愚かで傲慢だ。

それより、僕はただ今この瞬間に陶酔し、この空間が僕にもたらす最上級の喜びを享受し続けていたかった。




「ありがと。」

そう言って彼女は僕の手から不思議な模様のコインを受け取った。飴玉みたいな声だったのに、コーヒーみたいな深みがあった。

彼女が去る。行ってしまう。心臓がどこにあるか正確に感じれるほどに強く鼓動している。

駄目だ。何が駄目だ。分からないが何かが駄目だ。このままじゃ駄目だ。口を開け、息を送れ、声を出せ。

「あのっ」

変に上ずった声が出た。彼女が振り向く。息を吸って、今度は変な声にならないように、まるで針に糸を通すみたいに慎重に、丁寧に声帯に息を通そうとする。

「一緒に、歩きませんか。」

多分今世紀史上最悪のナンパだろう。漢字を当てるなら難破だろう。成功確率は何ぱーもないだろうと思う。

それでも、彼女は微笑んだ。

全身から骨がなくなってしまったかのようだった。

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