プライドの代償

「アリシア、一番大事な物は、財産と誇りですよ。殿方なんて生き物は、いつもあっちにフラフラこっちにフラフラしているんですからね。それでも、余裕を持つのが正妻の誇りですよ。」


 能面のような顔で、亡き母は幼いアリシアによく言った。


「はい、お母様。」


 窓を見つめる母の視線の先には、妾が産んだ生まれたばかりの異母弟を嬉しそうに抱き上げている父と、その傍らに寄り添う母ではない女性。遠目から見ると、幸せそうな家族。しかし、母を慕うアリシアにとっては、その風景はいつもどこか汚ならしく見えた。父の妾は、商家出身の分厚い唇をした肉感的な美女である。神経質で名門貴族の令嬢である母とは対照的だった。だが、アリシアの目からは、いつも毅然とした態度の母の方がよほど美しく見えた。


“お母様のように、男に振り回されない女になるわ。”


幼いアリシアは、そう固く決意したのだ。


 一方で、アリシアは父の事も嫌いではなかった。父は、娘のアリシアを猫可愛がりしていたからである。だが、アリシアが聡明で運動神経に優れている事が顕著になってくると、軍人の父は時たま淋しそうな表情で言った。


「アリシアが男であればなあ。我が家は栄えただろうに。」


 そう言われる度、アリシアの小さな胸は、ズキンと傷んだ。父に悪気がないのは分かっていても、ありのままの女の子のアリシアではダメだと否定されているようで、ひどく苦しい。そんな時、アリシアは異母弟を疎ましく感じる。窓際に立ちすくんでいた母の気持ちが少し分かったような気がした。


 そんな複雑な想いを抱えた幼少期のアリシアを助けてくれたのが、親戚の家からやって来たアルフレッドだった。


「お父様ったら、モリブが私より優れているのは、男であること位だってまた言ったの。褒めてるつもりなのかもしれないけれど、全然嬉しくなかったわ。」


「モリブがアリシアより優れている所なんて、何もないよ。アリシアはすごく頭が良いし、優しいし、僕よりもモリブよりも足が速いし、可愛くて良い匂いがするんだもん。」


「可愛いって言葉、レディに対して失礼よ。何だか、見下された気分だわ。」


 父と弟のモリブの愚痴を言う不機嫌なアリシアは、おっとりしたアルフレッドによく八つ当たりをした。アルフレッドが慰めてくれているのは分かっていたが、彼が男であるというだけで、父や弟のように女である自分を心のどこかで見下しているように感じたのだ。それは本当は、アリシア自身が父に訴えたかった気持ちなのかもしれない。アルフレッドからすれば、長崎の仇を江戸で討たれる位、理不尽な行為に違いなかった。


「うーん…そういう意味じゃないんだ、ごめん。ちがうんだ、僕、アリシアがすごく美しいって言いたかった!父上が昔描いた、隣国の女王様みたいに!」


 アリシアの怒りに困惑しつつ、足をブラブラさせながら、どこか恥ずかしそうにモジモジとアルフレッドは言う。


「ふぅん。」


そんなアルフレッドを一瞥して、視線を目の前の小川にやると、なぜかさっきよりも水面が輝いているように見える。父の心ない一言も、もう気にならなかった。


「あのね、僕、アリシアはおじ様みたいに立派な将軍になれると思うよ!おじ様の期待に応えたいなら、女将軍になれば良いよ!きっと、いっぱい褒めてくれるんじゃないかな!」


アリシアのご機嫌がまだ麗しくないと勘違いしているアルフレッドは、必死に顔を覗き込んで言う。そういえば、彼は昔から、ポーカーフェイスのアリシアの感情を読み取るのが下手くそだった。そんな時、懸命になるアルフレッドに意地悪を言うのが、アリシアのお気に入りだ。


「馬鹿ね、女が将軍になれる訳ないじゃない。生意気だと思われるわ。」


「なんで?なれるよ!」


「なれないわ。男たちが立つ瀬がないじゃない。」


「僕は男だけど、僕より頭が良いアリシアが作った作戦なら、安心して命を預けられるし、アリシアが将軍になったら、自慢に思う!隣国の女王様だって、知略に富んだ人で、女将軍ってよく呼ばれていたんだよ。アリシアならきっと、なりたいと思えば、そうなれるよ!」


一生懸命首を伸ばして、アリシアの顔を覗き込むアルフレッドは、少し間抜けに見えた。くるくるとカールしたブロンドの巻き毛が、目に入りそうになっているのにも構わず、アルフレッドはもうとっくのとうに機嫌が直っているアリシアを元気付けようと、いつだって精一杯考えていた。それが二人の当たり前の形で、アリシアは、ずっとそれが続くと信じていたのだ。


「アリシア。大好きだよ。」


 アルフレッドの態度は、いつも一貫していた。ニコニコしながら、恥ずかしそうにそう囁くアルフレッドを、アリシアは時に気分によっては邪険にしたし、八つ当たりをすることも多々あった。アリシアにとっては、幼い頃からの直球の彼の愛情表現が、もはや当然のものだったのだ。


「私たちは、兄妹のようなものなのよ。私には、親が決めた許嫁がいるし、貴方のお家はお父上が亡くなられてからスッテンテンじゃない。お金がない絵描きとなんて、結婚出来ないわ。私は、お母様のように財産と誇りを大事にして生きるの。悪いけど、そういうことで、貴方の気持ちには応えられないわ。」


初めてアルフレッドから愛の告白を受けた時、アリシアはそう冷たく高飛車に言った。


「…そうか、結局お金なのか。分かったよ、アリシア。気持ちを聞いてくれただけでも嬉しいよ、ありがとう。」


アルフレッドは、淋しそうに笑って言った。その瞬間、アリシアの胸に激しい痛みが走る。しかし、誇り高い彼女は、それを見てみぬ振りをした。


(私が間違っている訳がないわ。お母様の言う通り、お金がなければ生きていけないもの。絵描きになるかもしれないような人の妻にはなれない。)


「貴方は、普通の絵描きじゃなかったのに…なぜ私はそれを信じてあげられなかったのかしら。」


 深い物思いに耽っていたアリシアは、視線をあげて目の前の油絵の女性と目を合わせる。

アルフレッドが戦死してから、沢山の油絵が見つかった。その多くが、鮮やかな茶髪の巻き毛をした、深緑の瞳の女性を描いた作品だ。まさに、アリシア自身と生き写しの姿を見れば、誰をモデルにしたかは歴然である。

その女性を見ると、アリシアの心には、叫びだしたい程の激しい後悔と、この絵に描かれている女性のようにいつまでも彼の愛に浸っていたいというような、狂おしい愛情が蘇った。

(私が、彼の才能を潰してしまった。)


油絵の女性の姿を、指でなぞりながら、アリシアはいつもそう思う。なぜなら、彼女がただ単にその時の価値観で何気なく放った一言によって、アルフレッドの生き方が大きく変わったからだ。


 アルフレッドは、絵を描くことが好きだった。隣国の王族に召し抱えられる絵描きの家系に生まれた影響もあるのだろう。その年齢の子供には描けないような繊細な作りの絵を描いては、周りの大人を驚かせた。アリシア自身も、彼が描いたどこか優しく、儚い印象の絵画をいたく気に入っていた。


「アリシア、見て見て!おじ様の馬を描いてみたんだ。ぼく、父上みたいな絵描きになれるかな!」


 そんな風に無邪気に笑っていたアルフレッドは、初めてアリシアにフラれてから、少なくとも彼女の前で絵を描くことをしなくなった。彼は、芸術学校ではなく、士官学校に入り、軍人を目指すようになる。


「アルフレッドは父似の芸術家肌で、軟弱な奴かと思っていたら、なかなかどうして、軍人の才能があるようだな!アリシアの許嫁よりもよほど馬の扱いが上手いぞ。これは将来が楽しみだ。」


 アリシアの父は、軍人としてのアルフレッドをそんな風に評価し始める。アリシアは、アルフレッドが周りから評価されることが嬉しい一方で、複雑な心境だった。


(私の知らないアルフレッドになってほしくない。)


(父のように荒々しい男らしい軍人じゃなくて、昔の繊細で優しくて絵描きになろうとしているアルフレッドが好きなのに。どうして、自分以外の物になろうとするんだろう。)


 その時のアリシアには、彼がなぜ、今までの生き方とは真逆の生き方を志すようになったのか、皆目見当がつかなかった。まさか、自分の些細な一言が、彼の人生観を変えようとは思いもしなかったのだ。また、彼女にとって計算外だったのは、アルフレッドの生き方が変わったことで、彼が周りから注目されるようになったことである。 


「アルフレッドって、許嫁はいるの?」


幼なじみのマリアに興味津々でそう聞かれた時、アリシアは面食らった。


「いるわけないでしょう?王族召し抱えの絵描き貴族と言っても、お父上が亡くなられてからはそんな裕福じゃないもの。最も、アルフレッドが望むなら、私のお父様が縁談を見つけるつもりではいるらしいけど。」


「あら!そうなの?じゃあ、貴方のお父様に、私が立候補するって伝えておいてよ。私、アルフレッドの事が好きなの。彼、素敵じゃない?いつも優しくて穏やかで、顔立ちも可愛らしくて。一緒に馬で遠乗りしたら、きっと楽しいと思うの。」


マリアがうっとりとした表情でそうつぶやいた時、アリシアは、今までの人生で感じた事のないような陰湿な黒い感情が、自分の中でとぐろを巻いたような気がした。


「あら、マリア。貴方のお家は、我が家と同じくらい由緒正しい家柄じゃない。あんなボンヤリした貧しい唐変木を婿に、なんてもらえないでしょう?」


気付けば、むきになり、マリアに噛みつくようにそう言い返す自分がいる事に、アリシアは混乱を覚える。

(何で私はこんなにむきになっているのだろう。マリアとアルフレッドが結婚すれば、アルフレッドは豊かになれるし、幼なじみのマリアと結婚したなら、私だってアルフレッドと、たまには会えるかもしれないのに。)


「アリシアは、一緒にいすぎて彼の価値に気付いてないのよ。私は、自分と同じような家柄の金持ち貴族とは結婚したくないわ。みんな偉そうに家柄だけを鼻にかけて、体裁ばかりで浮気性の男ばかりよ?私は、自分の親にも伝えているの。私が見定めた男と結婚するからってね。だって、裕福だから、結婚相手を好きに選べるのよ??我が家は溢れる位富があるのだから、どんな男を婿にもらったって、食いっぱぐれる事はないわ。私はね、アルフレッドと結婚したら、軍人は辞めさせて、好きなだけ絵を描かせてあげて、彼のお家を復興させるの。彼の夢が、私の夢にもなるのよ?それって、すごーく、す・て・き。」


アリシアの勢いに負けず劣らず、恋するマリアはきっぱりと自身の結婚観について熱く語った。それが終わると、また初めのようにため息をつきながら、遠くで馬の世話をするアルフレッドを、頬を赤く染めつつ見つめている。


(私だって…私だって、アルフレッドの良さは分かってるわ。でも…アルフレッドとの結婚は、お母様の言い付けと違う。私たちには家を守る責任があるのよ。マリアみたいな自由な考え方は、どうかしてるわ。)


 その時のアリシアは、自分の中でそう言い訳を繰り返す事しか出来なかった。臆病な彼女には、今までの価値観から飛び出す勇気が持てなかったのだ。一方で、マリアの天真爛漫な考え方が妬ましく、羨ましくて仕方がなかった。だから彼女は、“マリアがアルフレッドを好いている事”を誰にも言えなかった。もしそれを伝えたならば、アルフレッドがトントン拍子で、マリアの物になってしまう気もしたからだ。彼女は、その想像をする時、胸を引き裂かれるような感覚を覚える。それは、初めての“嫉妬”であり、“恋心”だった。しかし、彼女は、それに気付かないふりをする。プライドの高い彼女には、彼女の今までの価値観の理想男性像から、遠くかけ離れたアルフレッドを愛している事実が、認められなかったのだ。


(でももし彼が、マリアと結婚していたなら、死ぬことはなかった。)


 回想から帰ってきたアリシアは、幼いアリシアとマリアがお茶会をしている絵を見つめながら思う。お茶会をする二人に、駆け寄ってこようとする少年は、アルフレッドだろう。この絵のように、アルフレッドとマリアが婚姻したならば、今もアルフレッドは生きていて、大人になってもこんな関係でいれたのかもしれない。だがもしそうなっていたら、確実に素直に喜べない自分がいる事に、今のアリシアは気付いていた。


(誰かの物になる位なら、私だけを想ったまま、死んで欲しい。)


そんな自分の浅ましい女心が、アルフレッドを死に追いやったのではないか。アリシアはそう感じる度、息をするのすら苦しかった。


 アルフレッドが死んで数年経った頃、アリシアは、彼の夢の残骸である絵が、誰からも評価されずに自分の家の納屋でただ朽ちていく事が、自分の事のように悔しく、哀しかった。アリシアの家の者として戦死した事で、彼女の家をお取り潰しから守ってくれたアルフレッドへの、せめてもの償いのような気持ちもあったのかもしれない。


 アリシアは、アルフレッドの絵の中で、一番お気に入りの絵を、隣国の王家が開催した芸術品評会に、アルフレッドの名前でこっそり出展する。それは、アリシアが女将軍の姿で果敢に軍勢に立ち向かい、勝利している姿を描いた作品だった。女将軍の横には、いつものように、微笑みながら佇むアルフレッドの姿もあった。まだ何の価値観に縛られていない二人の、本当に叶えたい夢そのものが凝縮されたこの絵ならば、正しい評価をしてくれる人の目に留まるはず。藁をもすがる思いで、アリシアは絵を送った。


 すると、数日して驚くべき事が起こった。芸術品評会を主催した隣国の女王直々から、手紙が届いたのだ。その女王は、奇しくも、幼き日のアルフレッドがアリシアに、こんな女将軍になればいいと語った、その人本人であった。手紙には、絵の濃淡の素晴らしさだけでなく、女王本人が必要と感じる、これからの女性像の変革を描いた作品であるというお褒めのお言葉が綴られ、アルフレッドを隣国の女王お抱えの芸術家として召し抱えたいという招聘状も入っていた。


 程なくして、アルフレッドがもうすでに戦死した事を伝えると、女王からは酷く落胆した返事が届いた。曰く、元々女王は、彼の父をとても評価しており、息子が成人した暁には、彼の才能にふさわしい地位と、給与を与える手筈を整えていたこと。アルフレッドの家系は、隣国では代々王家に仕えるにふさわしい才を持った絵描きが多く、直系の子孫であるアルフレッドが若くして亡くなったことは、国にとって大きな損失であること。女王からは、再三アルフレッドを預かっていた、育ての親であるアリシアの父に、アルフレッドを芸術家として迎える招聘状を送っていたが、戦火が大きくなっていく情勢もあってか、返事がなしのつぶてであったことが誠に残念である、とのことだった。


 その返事を読んだ時、アリシアはアルフレッドの才能が本物であったことの誇らしさを感じた。それと同時に、その才能を自分が、若しくは父が潰したかもしれないという罪の意識が、重く心にのしかかる。


 父がなぜ女王に返事を送らなかったかは、容易に想像出来る。アリシアの父は、根っからの軍人であったし、芸術家は軟弱な仕事だと軽蔑していた。アルフレッドが軍人を志した時に狂喜乱舞したのは、そのせいだろう。何より、晩年の父は、暗愚で出世の見込めない息子と、有能だが女性である娘が軍人になれない事に落胆し、かつ、娘の許嫁が戦死した事にも落ち込んでいた。父にとって、アルフレッドは息子のような物であったし、軍人として見込んだからには、芸術家になどさせたくなかったに違いない。


(何より、お父様は…女性でありながら一流の軍人である隣国の女王があまりお好きではなかった。そういう所は、お父様も典型的な男性だったんだわ。)


アリシアには、そんな父の感情が手に取るように分かった。


 更に、アリシアの罪悪感を煽り立てるような事件が起こる。


「アリシア!何で、アルフレッドが戦死した事を教えてくれなかったの!?」


 アルフレッドの作品が、品評会で話題になった事を聞き付けたのだろう。目を真っ赤にはらしたマリアが、数ヶ月後にアリシアの元を訪ねて来たのだ。


「ごめんなさい…私も戦火を逃れて隣国に亡命してから、心の整理がつかなくて…。」


「私、毎月アルフレッドにお手紙を送っていたのに、返事が来なくなってすごーく、心配してたのよ!品評会で聞いて驚いたわ…。だって、私、彼が戦争から帰ってきたら、自分の気持ちを伝えてプロポーズしようと思っていたの!もう、私が養ってあげるから、戦わなくて良いって!そしたら、安心して描けるでしょう?こんな事になるなんて…本当に残念だわ…。」


ポケットから出したハンカチで思いっきり鼻を噛みながら、矢継ぎ早にそう語るマリアを見たアリシアはどこか、安心したような、勝ち誇ったような感情が自分の中にあることに気づいた。


(これで、アルフレッドがマリアの物になることはない。)


そうつい考えてしまう醜い自分に、後ろめたさを感じる。そんなアリシアの気持ちを知ってか知らずか、マリアはさっきまで泣いていた涙をすっと引っ込めると、せかせかした様子でこんな事を告げた。


「それでね、私、どうしてもアルフレッドの事を忘れられなかったから、アルフレッドの遠縁の男子を当たってみたの。そしたら、ギルバートっていう人がね、アルフレッドに容姿が似てるのよ!アルフレッドの方がハンサムだし、優しいんだけど、ギルバートも穏やかでおっとりしてて、とても素敵なの。聞いてみたら、あの女王様が、アルフレッドを亡くしたことにお心を痛めてらして、アルフレッドの代わりの芸術家を、遠縁から探してらっしゃるんですって。ギルバートは、アルフレッド程絵描きの才能はないんだけど、品評会で入選したのよ!だからね、私、ギルバートと結婚することにしたの!アルフレッドの夢を、代わりにギルバートと叶えてあげるの!素敵でしょう??」


「ええ、まあ…それは、素敵なんじゃない?」


「結婚式には、ぜひアリシアにも来て欲しいわ!」


 言いたい事だけ伝えると、風のように去っていくマリアを見送りながら、アリシアは、そんな彼女が少し羨ましくもあった。なぜなら、もうアリシアには、自由に生きる希望も、選択肢もなかったからだ。


 アリシアは、アルフレッドが戦死する少し前に、叔母のすすめた隣国の商人と婚姻する。亡き母に生き写しの叔母が太鼓判を押すような、裕福な“だけ”の男だった。しかし、戦火でお取り潰しを免れた貴族の家柄であっても、弟が家を継ぐであろう実家にはいれなかったし、どこか適当に金のある所に嫁に行ければ良い、貴族の娘の結婚などそんなものだと、アリシアは自分に言い聞かせた。


「アリシア、大事なのは、財産と誇りですからね。商人の所へ嫁に行くとしても、誇りは忘れてはいけませんよ。」


叔母の厳めしいお小言に頷きながら、納得したつもりだった。


(そうよ、お金が無ければ、生きていけないわ。貧乏なんて、まっぴらよ。)


 自分の価値観が、間違っているはずがない。そう言い聞かせて望んだ結婚は、幸せから遠くかけ離れていた。夫は、金持ちではあったが、品性の欠片もない男だ。軍人の父よりもプライドが高くて抜け目がなく、大変な女好きである。もちろん、この計算高い男といれば、物理的に餓えることはないだろう。だが、この男といればいるほど、自分の精神的な何かが枯渇していく事実を、アリシアは否定出来なかった。夫は、アリシアの貴族としての家柄に目をつけ、アリシアは、夫の財産が目的で結婚した。利害は一致しているはずなのに、アリシアの心は、徐々に蝕まれていく。


 最初に違和感を覚えたのは、初夜のベッドだった。


「さすが、お貴族様のご息女だ。真っ白で、触ると雪みたいに溶けそうだな。」


夫は、そんな風に新妻の体を褒めた。だが、その言葉は不快感以外の何物でもなく、アリシアは心から穢らわしさを感じた。また、びっくりする程、傲慢で独り善がりな夫との夜の性活は、彼女にとって精神的にも、肉体的にも、苦痛でしかなかった。


 夫に抱かれる度に、アリシアは頭の中で、アルフレッドとの一夜を思い出した。そうしなければ、耐えられなかったからだ。アルフレッドの優しい繊細な指が、自分の体をなぞり、ふと目が合った瞬間にはにかむ仕草が、たまらなくいとおしく感じたあの夜。その情景を思い起こせば、彼女の体と心は不思議と潤った。最も、夫は自分の実力だとすっかり勘違いしていたようだが。 


 初めて我が子を出産した時も、アリシアは、自分の中に得体の知れない感情が湧き出ている事実に当惑した。普通に考えて時系列的にあり得ないのにも関わらず、彼女はなぜか産まれてくる我が子が、“アルフレッドにそっくりのブロンドの巻き毛をした青い瞳”をしているかもしれない、とついつい妄想してしまっていたのだ。勿論、その期待はことごとく裏切られる事になる。産まれた男の子は、金髪碧眼で端正な顔立ちには程遠く、夫にそっくりの、若干スラブ系の血が入ったような黒髪で、少々ドテカボチャのような容姿をしていた。


 そんな現実に直面した時、アリシアは初めて狼狽えた。彼女は、彼女が信じてきた価値観が、いつか幸せに繋がるはずだと思い込んでいた。ところが、その価値観が生み出す物は、幸せとは真逆の現実を作り出していく。その時、彼女は初めて気付いた。


(お母様も、自分自身で言い聞かせていただけで、お金が全ての価値観では幸せになり得ないと分かっていたのかもしれない。でも、それを認めるのが、怖かったのだわ。だって、それを認めてしまったら、プライドが崩れ落ちてしまうもの。)


 母の、あの日の能面のような表情と、父と母のよそよそしさ、会話のなさは、今のアリシアの日常に通じるものだった。


「アリシア、今日は、大事な商談があるから帰れない。」


今朝も、夫はそう言った。


「ええ、分かりました。」


目線も動かさず、居間に飾ったアルフレッドの絵を見つめながら、アリシアは答える。夫の口調と、ウキウキした後ろ姿を見れば、また違う女を囲っていることは明白だった。


(でも、男の人なんて、そんな生き物。)


心の中でそう呟きながら、絵を見つめる。


(ぼくは、違うよ。出会った日から君だけを愛してる。)


 絵の中のアルフレッドの真っ直ぐな瞳は、そんな風に囁いて、アリシアの中の今にも壊れそうな誇りを優しく包み込んだ。正直な所、アリシアは、夫には関心がなかったし、彼が浮気をしようがどうでも良かった。ただ、不貞をされているという事実が、彼女のプライドを傷付けていたのである。そして、この経験をすることで、彼女は、亡き母のあの後ろ姿の真意を汲むことが出来たのだ。


 更に、アリシアの価値観が彼女の望む幸せではなかった、と拍車をかけて認めざるを得なくなった現実が、数年後におし寄せる事となる。


「久しぶりね、アリシア!お元気??」


 ギルバートと婚姻したマリアが、子供たちを連れていきなり現れたのだ。ギルバートを初めて見た時、アリシアは心の底から驚いた。その姿は、アルフレッドの兄と言っても過言ではない程、彼によく似ていたのだ。勿論、アリシアから見れば、アルフレッドの方が美しく、端正で可愛らしい容姿に思えるが、それでもギルバートは、思い出の彼によく似ていた。ギルバートの子供たちも、ブロンドの巻き毛をした金髪と碧眼を持ち、美しい容姿をしている。何より、ギルバートはとても妻のマリアを大切にしていて、人前で接吻をする事すら憚らない程だった。そんな二人の幸せいっぱいな様子を見ると、アリシアが心の中で見てみぬふりをしていた古傷が、パックリと血を流しながら裂けた。 


(アルフレッドなら…目の前のギルバートがマリアを想うよりも、もっと、私を大切にしてくれた…。)


そんな心の叫びが、アリシアの中で反響する。ご多分にもれなく、そんなアリシアの心中を知る由もないマリアは、幸せを撒き散らしつつ、得意げに語った。


「あれから数年は、この人の芸術家としての芽が出なくて、私が養っていたの。でもそのおかげで、私女伊達らに貿易商に手を出してね、それが結構上手くいったのよ!そしたら、この間の品評会で、この人の絵を女王様がいたく気に入られてね!そうそう、私が女貿易商を営んでいる仕事風景なのだけれど!それで、ずっと空席だったアルフレッドの家系の後釜に、ようやくこの人が収まったの。女王様は、アルフレッドのあの絵程の迫力はないけれど、ギルバートを埋もらせておくには惜しい芸術家って言って下さったのよ。貴方もアルフレッドを大切に思っていたから…アルフレッドの遠縁のこの人が、夢を叶えたのを喜んでくれると思って…。」


 そんな悪気ないいけしゃあしゃあとした友人の言葉を聞きながら、アリシアは再び、激しい悔恨の念に襲われた。


(…女王様は、品評会から数年経っても、アルフレッドの為に空席を残す程、彼の絵を愛して下さった…。もし、最後にアルフレッドが出陣する前に交わした会話の時に、私が少しの勇気を出せたなら…!愛しているから戦わないで欲しい、私も貴方の実家についていくから、芸術家になる夢を諦めないで欲しい、私が支えるって言えたなら…目の前の幸せな光景は、間違いなく私の物だった…。)


 亡き父は、結局の所、妾腹の暗愚な弟よりも、正室腹の聡明なアリシアを溺愛していた。アリシアが嫁に行く場合は、財産の3分の2はアリシアの物であるし、アリシアが婿を取る場合は、我が家の財産は全てアリシアの物であり、モリブは親戚の分家を継ぐこと、と遺言書には書かれていた。アルフレッドを避けたまま、彼から目をそらすようにして適当に婚姻したアリシアは、もし戦争からアルフレッドが帰ってきたら、実家で合わせる顔がなかった。だから、逃げるように嫁に行ったのだ。その結果が、今の救いようのない現実を作り出していた。


 そして、アリシアは、はたと気が付いた。晩年、父は、まるで今までの行いを恥じるように、娘の顔色を伺うようになった。それは、亡き正妻を大事にしなかった後悔もあったのかもしれない。思えば、ワンマンだった父が、アリシアの許嫁が死んでから何年経っても、新たな許嫁を立てようとすらしないのは、極めて不自然であった。そういえば、父に何の気なしにこんな事を言われた事がある。


「アリシア、アルフレッドをどう思う?」


葉巻を燻らせながら、父は尋ねた。


「どう、とは?どういう意味ですの?大切な存在ではありますわ、家族のような。」


自身の彼への想いすら認めたくなかったアリシアは、異性親である父にはより一層、絶対に自分の想いを悟られたくなかった。だから、すげなく、ポーカーフェイスでいつものように答える。父は、愛娘の顔をじっと見つめながら、ゆっくりと語った。


「私にとっても、あいつは家族だ。私は絵画など男らしくない軟弱な趣味だと考えていたが、最近考えが変わったよ。


 あいつと一緒にこの間出陣したんだが、足を殺られて心を病んだ兵が出た。普通なら、置き去りにするしかない。だがね、アルフレッドは違うんだ。あいつは、その兵の妻の特徴を聞き出して、そっくりな絵を描いた。するとな、その兵が絵を見た瞬間に、ポロポロと涙を流して、必死に歩き出すんだ。到底もう二度と歩けないように見えたのに、結局生まれ故郷の妻の元へ、無事に帰ってしまった。おかげで、あいつの絵の評判は、軍の中でうなぎ登りさ。金を取れば、稼げるだろうに、アルフレッドは人が良いから、いつだってニコニコ無料で描いてしまう。あいつには、やりくり上手な妻が必要だと、私は思うよ。」


「ええ、あんなぼんやりした人の奥さんになる人は、相当頭が切れないと大変でしょうね。」


そう返しながら、アリシアは、お人好しのアルフレッドが、故郷を懐かしむ兵たちに絵をせがまれる光景を思い浮かべて、クスクス笑った。そんなアリシアの姿をじっと見た父は、その時、ゆっくり微笑みながら言ったのだ。


「私は、アリシアにも、アルフレッドにも、幸せに生きて欲しいよ。私の遺してやれる財産は、その為にあるのだから。」


アリシアは軍人の父にしては、気弱な事を言うと、当時そんな風に思った。しかし、時が経った今、よくよく思い返せば、父がアリシアに多めに財産を遺したのは、娘がアルフレッドと結ばれる事を見越していたようにも思える。実子ではないアルフレッドには、父は財を遺してやる事が出来なかった。考えてみると、不自然な台詞だ。


(私は、すでにあの時、もう自由だった。)


アリシアの心に、その真実の刃が深く刺さる。


(母は亡くなり、父も、私の幸せを心から望んでいた。私を縛っていたのは、他人ではなく、私自身の恐怖とプライドだった。私は、幸せに恐怖した。幸せをブロックしたのは…他でもない私自身だった…。)


 アリシアの目頭から、抑えようのない涙が吹き零れる。ギルバートの成功をそこまで喜んでくれて嬉しい、とすっかり勘違いしたマリア達家族が引き上げた後も、アリシアの嗚咽は止まらなかった。泣き続けるアリシアは、何度も、絵の中のアルフレッドを見つめた。自分の中の幸せの価値観が、結局、誠に自分の価値観であったのか。彼女には、もう自信がなかった。

 立ちすくむ彼女の後ろで、扉が開く。振り返ると、夫がいた。酒が入り、よその女のコロンの匂いを撒き散らせる夫は、アリシアが泣いているのにも気付かず、アリシアの視線の先の絵をしげしげと見て、笑ってこう言った。


「なんだ、またこんな絵を見てたのか。そういえば、今夜の酒場で聞いたんだが、お前の死んじまった幼なじみの絵描きは、うちの国の女王様にいたく気に入られてたらしいな。今だと、この絵も王族や貴族に売れば、数億もくだらないと聞いた。俺たちの今後の為にも、この絵を王室に売りに出してみないか?いくらで売れるかワクワクするじゃないか。」


そう言って、夫は脂ぎった顔を絵に近付ける。その表情は、まるっきり絵ではなく、“金”しか見ていなかった。夫の手が、絵に触れるか触れないかの寸でのところで、アリシアは、いつの間にか、思いっきり夫の顔をひっぱたいていた。


「そんな汚い手で触らないで!!」


パシンと乾いた音がする。夫は、面食らった顔で、パチパチと瞬きをした後、茹で上がったタコのように顔を赤くして、捨て台詞を吐いた。


「お前だって、金目的で俺と結婚したんだろ!?だったら、気持ちよくこんな絵も金にしろよ!!俺が他に女作ってるのが気に入らないからって、嫌味ったらしい女だな!好きに裕福な生活をさせてやっているんだから、それ位大目に見ろ!これだから、貴族の女は疲れるんだ!!」


 怒った夫は、ノシノシと足音荒く立ち去っていく。そんな夫の後ろ姿に視線もやらず、アリシアは、崩れ落ちるように座り込んだ。


(私に必要だったのは、自分と、アルフレッドを信じる勇気だった…。)


ぼんやりと、そんな事を思う。


(自分を、変える勇気だった…。自分の本当の幸せに、気づく判断力だった…。)


へなへなと力が抜ける足を庇いながら、考えてももう仕方ない事を考える自分が、ひどく憐れに感じた。


(会いたい…また、会いたい…。貴方に今度会ったら、その時は、私が貴方の夢を支えられる位に、強くなる。そして、私自身の夢は、貴方と共にいる事なのだから。絶対に、今度は諦めない…。)


 そう心の中で泣き叫びながら、アリシアはギュッと、アルフレッドの絵を抱き締める。本当は、彼が生きている間、自分から彼を抱き締めたいという衝動に何度も駆られた。どうしても出来なかったのは、自分のプライドを守りたかったからだろうか…?意固地になっていた自分がいる事を、最早彼女は否定出来なかった。アルフレッドは、アリシアが何度彼を拒絶しても、泣きそうな、困ったような表情を浮かべながら、いつも後を追ってきてくれた。彼は、常に、物理的にも彼女を優しく抱き締めたし、言葉でも暖かく彼女を抱き締めた。それが分かっていたから、アリシアは、彼を突き放していたのだ。アルフレッドの優しさにすっかり甘えていた事に気付いたのは、皮肉にも、彼が亡くなり何年も経った今この瞬間だった。


 絵画の硬い冷たい感触は、アリシアに、彼のいない現実を身に染みて知らしめた。それでも、もう、絶対に離さないというように、アリシアはアルフレッドの絵を固く固く抱き締める。腕の中から、絵の中のアルフレッドを見つめると、アリシアが流した涙の粒が、ちょうどアルフレッドの目の下にこぼれていた。まるで、絵の中のアルフレッドが、泣いているように見える。ぼんやりと、食い入るようにその光景を見つめるアリシアの耳に、懐かしい声が響き渡った。


(また、会おうね。今度はもう同じ失敗を繰り返さないで。一緒に生きる勇気を持って、結ばれようよ。それを、忘れないで。ぼくは例え君が忘れても、きっと思い出すからね。君をいつでも愛しているし、信じているから。)


ふらふらと、声が聞こえた方に歩き出すと、窓が目に入る。窓の向こうには、雪がしんしんと降っていた。初めてアルフレッドと過ごした、仮面舞踏会のあの夜のように。








 











 

 











 






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