#019 死相
手に持っているナイフは、輝きが失われていてとてもよく切れそうには見えない、急に拵えたもののようだった。その物から、殺意は感じても意思は感じられない。そのような気がした。その者からはただならぬ死の空気が漂っているような気がした。それは、自分はもうどうなってもいい、死んでもいい、という自暴自棄の感情だ。
「累維!」
真っ先に彼の身の危険を察知し、彼を引き止めようとするが、それは阻止される。累維は、それ以上、自分たちのことに介入して欲しくないのだ、とでもいうように片手をあげて俺の行く手を阻んだ。
「犯人は、現場に帰ってくるとよく聞いたものだけれど、その典型に相見えるなんて面白いね。そうは思わないかい?」
累維は、そう言うと足袋のままで土間へと足を踏み出し、ナイフを持つ男の腕を取って引っ張った。力も、魂も抜け落ちたような男は、無抵抗のままで累維の方へと倒れ込んでしまった。
「おっと……。どうしたんだい」
累維もまた、無抵抗のままで後ろへと座り込んでしまう。男は、三栗屋の肩を強く掴みながら、歯を食いしばっていた。
「殺すなら、殺してみるといいよ。君は、そのためにここへ来たのだろう?」
「水野を……殺す……つもり……なんか……」
全く成立しない会話がそこには存在していて、余所者が介入する隙なんて全くなかった。
自分が取るべき行動を、しなければならないという使命感のまま、男を話そうと手を伸ばしたが、それもまた累維に制止される。
「手出しは無用だよ、詩季」
「だが、それではお前の身が!」
「僕は、死なないよ。少なくとも君の前ではね」
累維は、毅然としてそう言った。
ゆっくりとこちらへ向けられた視線は、不思議なことに逸らすこともできない。
彼は、まるで俺の全てを、俺の隠したい過去を全て見透かしているようだった。どうにも息が苦しくなっていき、思わず首を押さえてしまう。呼吸を、したくてならない。壁から滑り落ちるように、俺はその場へ座りこんだ。
「水野は……幸せ……じゃ……お前の……せい……」
男は、絶え間なく顔に汗を浮かべて、まとまりのない言葉をぶつぶつと一人で喋っている。累維は、そんな男を宥めるように髪を撫でて、微笑んでいた。
「そうだね、僕のせいだね、そうだね」
「俺は……水野が……あまりに……かわいそう……で……」
「君の言い分は、大いに理解できるよ」
「助けて……あげよう……と……」
「僕は、彼女も、君も幸せにできなかったんだね、すまないね」
男の焦点の定まらない目と、時折あげるうめき声、指先が痙攣したように震え続けているその姿とは対照的に、至って冷静かつあくまでも同情という形で彼に寄り添い続ける累維の姿に、俺までもが圧倒されてしまっていた。触れているフローリングのせいか、はたまた血が通わなくなっていたせいか、指先の感覚がなくなっていくような気がしていた。
「そうだよ、だから、君は、僕のせいにすればいいのだよ」
すると、急に男の目が一杯に広げられ、血走る眼で累維を見る。
「お前の……! せいだ……!」
途端、豹変したように大声で男は怒鳴り、ナイフを累維へ向けた。
自分は、動かなければならないのに! 動いてくれない体がなんと恨めしいことか。全身の震えが治らず、息ができているのか、そもそも正常な思考ができているのかということすら、俺にはわからなかった。自分は、何のために此処にいるんだ?
累維は、それでも動揺することなく静かにその男のナイフを持つ手をとった。
「だから、僕は、君に時間をあげたんじゃあないか」
すると、累維は男から包丁を取り上げて、すぐさま男を押し返し、立ち上がってナイフを男に向けた。
「時間切れだよ、君は。僕の情が続くうちに僕を刺すべきだったのにねえ」
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