#020 幸運
累維は、そうしてナイフを強く握り、高くあげる。
男は、目を見開き、瞬きもできないままでそのナイフの先端を見つめ続ける。そうして、必死の思いで後ろへと下がっていき、その場から逃げようとドアノブを触る。その手は震えていて、定まらず、おそらくは押すことも引くこともわからくなっているのだということがわかった。
「る、い……累維!」
やっとのことで出した声は枯れていてとても聞けたものではない。しかし、それでも俺は声を出さずにはいられなかった。
累維は、口角を思い切りあげたかと思えば、ナイフから手を話す。
重力に従うがままに自由落下していき、硬いフローリングに辿り着き、カタン、という音を立てた。
「君が凛音をどう思おうと、凛音が君をどう思っていようと僕の知ったことではない。反対に君に僕らの関係をどうこう言われる筋合いもなかったよ」
さながら審判者のように冷然とそう言い放った累維は、いまだにドアに縋る男の元へと向かい、そして静かに彼の背に触れる。
「君は、もう幸福にはなれない。罪人として生きていくほかないのだよ」
「ひぃっ……」
「水野凛音の命は、もう消えたのだから」
累維は、彼の耳元で、まるで息を吹きかけるようにささやく。お前の人生もここで終わったのだとでもいうように、彼の命の灯火を消してしまうように。優しくも残酷に、告げたのである。
すると、彼はそのまま床へとへたり込み、こちらの方を見ることもなく、その背を丸めながら咽び泣いた。わずかに通り過ぎる秋風が、彼の涙の落ちる音をかき消してしまって、わずかにしゃくりあげる声が聞こえるのみである。
憑き物がおちたように全身の筋肉が緩んで、空気を吸ってみた。澄んだ空気が肺を満たし、だんだんと視界が広くなっていくのがわかる。
「調子はどうだい」
「最悪の気分だ」
「それは、よかった!」
そう言われながら差し出された細くてか弱い手を取ると、彼は両手でよいしょ、と言いながら引っ張り上げてくれた。累維は、そして多少の嘲笑をする。
「君は、運の力と図体だけ大きくなるばかりで、こころは弱いねえ」
全くもってその通りだ。
彼と出会ってからというもの、俺は彼に翻弄されてばかりで自分の意思さえ持たない根無草のままいいようにされているだけであった。いくらこの身があっても、本当に動くべき場面で動けず、彼に言われたからという理由だけで職務を放棄し、傍観してしまったことには猛省している。
「情けない姿を見せた。すまない」
「いいや、かまわないよ。それもきっと、君だけのせいではないのだろうから」
累維は、俺を見上げながらすっと目を細める。
「なんだ……?」
そして、急に彼は俺の首元へと手をかけてきた。力はさほど感じないのにもかかわらず、異常なまでの威圧感だった。また、この感覚だ。呼吸しているのにできていないような、奇妙な感覚。
空気が喉を通ってくれない。顔の感覚は消えていくのに、目の熱ばかりを感じてしまう。
「君の、不安ごとがあるたびに首を触る癖、直したほうがいい。それでは君のこころの弱さが丸見えだからね」
何も言い返すこともできないまま、俺は唾を飲み込み、正常な呼吸を取り戻そうとするほか、何をすることもできなかった。俺のすべてを言わずもがなわかっている累維は、的確に人の急所を指していく。この世のどんな凶器よりも恐ろしい凶器だとさえ、思てしまうほどだ。
累維は、そのまま手を下ろして俺の懐に入っていたスマートフォンを取り出してしまう。
「ほうら、早く連絡をしいよ」
「あ、ああ。そう、だな……」
促されるがままに、俺はスマートフォンを受け取って捜査本部へと連絡をした。
その間の累維は、全くもって変化を見せず、じっとその場で連絡が終わるのを待ち続けていた。
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