#015 口無

 アパートの大家から事前に借りていた二〇二号室の鍵を使い、部屋に入る。

 中はすでに鑑識に一通り調べられ、現状復帰された綺麗な部屋が広がっていた。わずかに感じる死の空気もいずれは澄み切って綺麗になってしまうことだろう。血の飛沫一粒たりとも残っていない。

「もう、彼女の痕跡なんて一つたりとも残っていない。なんとも寂しい部屋だねえ」

「それは、そうだろう。大家だって、事故物件となってしまったことは不本意なことのはずだ。一刻も早く元に戻したい気持ちは理解できる」

 三栗屋は、フローリングの床に、白い足袋を擦らせて、カーテンすらかかっていないベランダの方へと向かう。そうして慣れた手つきで戸を開けた。一瞬にして、風が送り込まれ、玄関の方へと流れていくのを感じる。

 水野凛音は、この場所でおそらく悲鳴の一つもあげることなく殺されてしまったのだ。悪辣な誰かの手によって、ステラとして本来傷つけられる必要のない傷さえつけられて殺されたのだ。死の間際で彼女は何を考えていたのだろう。

 死人に口無し。

 俺たちには、憶測で彼女の感情を語るほか、何もできないのがどうしても辛いことだ。俺にとっては、死体を見ることより、その死体が何も訴えられなくなったという事実がたまらなく辛い。同時にそうなってしまう人を一人でも減らしたいというちっぽけな正義感ばかりが仕事を続ける動機になっているのも、自分の無力さを感じてなんとも頭痛がする。

「心地の良い秋風だねえ。ずっとこの季節が続いてほしいと願うばかりだ」

「少なくとも日本では叶わないだろうな」

「四季ある国だからねえ。それも趣というものだろうけれど、寒さは体に響く」

「それなら南国にでも行くんだな」

「それはそれで暑くて倒れてしまうよ」

 カラカラと笑いながら、累維は振り返り、静かに数歩進み、おもむろにしゃがんだかと思うと静かに人差し指で床をなぞった。

「つい最近のことであるのに、なんにもないとはるか昔のことのように思てしまうね」

「そういうものだろうな。ずっと覚えていたいと思うことはすぐに昔のことになって忘れてしまいそうになる」

 逆に忘れてしまいたいことは、ずっと頭に残り続けてしまうのに。

「辛そうだねえ。仕事柄、こういうのは慣れているんじゃないのかい」

「いや、別のことを考えていただけだ。気にしないでくれ」

「へえ……」

 累維は、興味なさそうな声を発して、ゆっくりと膝を抑えながら立ち上がる。そして、少し上目使いになりながら俺の方を真正面から見続けていた。

「なんだよ」

「聞きたいことがあるならば、今のうちに聞いておいたほうがいいと思うんだよ。どうするんだい」

「正直にいうと、聞きたいことがありすぎてどこから聞けばいいのかわからないんだ」

 よっぽど俺の反応が気に入らなかったのか、累維は眉をひそめて、苦笑してみせた。しかし、ながら、すぐに無の表情へと戻り、呟く。

「君が、考えていることはよくわかるよ。きっと君は、柿原詩季として聞きたいことと、刑事として聞きたいことが混ざりに混ざってわからなくなっているんだろう」

「そう、なのかもしれないな」

「それなら、仕方がないねえ……。一つずつ、僕から話してみようか」

 そういうと累維は、右手で着物の上前うわまえを軽く持ち、左手で太もも部分を押さえながら屈む。そして、上前の裾を膝の下へと流れるように入れて膝をつき、静かに腰を下ろした。そしてゆっくりとこちらの方を見上げてくる。

「お座りよ、詩季。そうして立っているのも、辛くなってしまうよ」

 今は、ただ、腹の底の見えない彼が恐ろしくて仕方がない。それにこれまで感じてきた慣れのある恐ろしさとはまた別のもののようだ。彼の深淵を覗くことへの抵抗感が溢れてくる。

 一歩、俺は身を引き、一メートルほど彼との間に感覚を持って床へと座り込む。

「仕事をしているときのような感覚だよ。観客は……君一人だがねえ」

 累維はそうしてふっと笑うと、静かに口を開き始めていった。

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