掴めぬ金魚に少年は浮かばれない

村上 耽美

掴めぬ金魚に少年は浮かばれない


「ねえ聞いた?金魚の病気が人間にも発症するようになったって」


 その噂は一ヶ月前から流れ始め、三組の教室から廊下を渡り、他のクラスにも広まり始めた。


「あれだろ?三組の永本が休んでいるのもそれになっただからじゃないかって」


 永本がここ二週間ほど学校を休んでいるというのは周りからの話で聞いていた。永本は環境・美化委員で、成績も学年トップクラス、さらに金魚の世話を任されていて——彼女は金魚のことで特に有名だった。それなりのライトアップを施せば限りなく芸術的なアクアリウムになるような規模の水槽の中で、金魚が射し込む太陽光を反射させながら優雅に泳いでいる。そしてこの水槽の管理を一任されているのが永本ということで、学年や学校だけでなく地域でもそれなりに有名な人だ。そんな優等生が二週間も学校に来ないとなればそれなりに話題になるし、永本が休んでいる間にその水槽の金魚達が「転覆病」という病にかかり大量に死んでしまったらしい。さらにその頃にまた別の噂で「金魚の病気の症状が人間にも現れ始めた」と少し話題になっている。こういうことが重なって、てんでおかしな話になっているのだろう。

 偶然にも俺は彼女と幼馴染で(仲がとてもいいとかそういうこともないが)、家もそこまで離れていないし、親同士も不仲ではなかったはずだ。少し顔を出すくらいなら許してもらえるんじゃないか。とりあえずいつも一緒に帰っている友達に連絡を入れて、今日の放課後は一人で帰ることにした。



 彼女の家に着き、インターホンを鳴らすとゆっくり玄関が開いて永本のお母さんが出てきた。かなり憔悴しているのか顔色は青白く、ふくよかでハリのあった頬も痩けてしまっている。思わず「大丈夫ですか」とお母さんの方を心配してしまうほどだった。

「あら、リュウくんじゃない。会いにきてくれたの?嬉しいんだけど、なんて言えばいいのかしら……」

渋い顔をしながらもとりあえず上がって、と言われリビングに通された。流れでそのまま俺はソファに座り、お母さんは斜め前の椅子に腰を下ろし、ひとつ息を吐いてからゆっくりと話し始めた。

「あのね、信じてもらえないことかもしれないんだけど、普通は金魚がなる病気が、なぜか人間にもかかるっていうのがあるじゃない、それにかかっちゃったの……。それで……」

ここまで話したあと、お母さんは手で顔をおさえて泣き出してしまった。まさかと思って

「なんていう病気ですか」


「転覆病っていうの」


信じがたかった。あの噂を信じるしかないのか。

「部屋に入ってもいいですか」

細かく頷くお母さんの背中を2、3回さすり、二階にある永本の部屋に向かった。


 それはあまりに異様な光景だった。ベッドのパイプに結ばれた紐の先に人間がいて、それがマットレスから十何cmか浮いている。俺の予想を遥かに上回っていた。

「リュウくん?」

ドアを開けて座った途端に向こうから声をかけてくる。

「なんでわかったんだよ」

「こういうときに来てくれそうなの、リュウくんしかいないから」

んなわけねえだろ、と強がったが言葉に安堵と恐怖が混じる。

「ここ二週間くらい休んでるのはこういうことです、ほんと困っちゃうね」

「噂でなんとなくそうなのかなとは思ったけど、こうなっているとは誰も思ってないだろうな」

「え、もう学校行けないじゃんそんな変な噂流されてるんじゃ」

俺はまだ自分の目の前に起きている現実を飲み込めないでいる。永本が困っているのは本当だと思うが、笑った声からして全く不安だとかそういったものが伝わってこない。どう接するか、どういった言葉を投げかけてやるのが正解なのかがわからない。しばらく無言が続いたあと、永本からこう切り出した。

「私、外に出たいな」

転覆病にかかってから外に一切出ていないのだろう。それが無理だとわかっているのはきっと本人であるし、それ故にいい返しが見つからない。絞り出した返答は、

「俺は構わないけど」

だった。これは本心ではない。なんてことを言ってしまったんだと少し後悔して いると、いきなり彼女が嬉しそうにある提案をする。

「ほんと?じゃあ夜までここにいてよ、お母さんが気づかない間にこっそり外に連れ出して、おんぶしてそのまま身体同士を紐で結んでさ、いいと思わない?」

突飛すぎる発言に反射で「思わねえよ」と言ってしまったが、永本はぐいぐいと意見を押し付けてくる。そして丸め込まれてこの案を呑み込まざるを得なくなってしまった。


「おんぶなんてもう何年もしてもらってないや」

 少しの意地の悪さを含んだ顔を向ける永本を直視できない。外に連れ出したら色々なリスクが伴うし、それらは僕が負うにはかなり大きく重たいものだったからだ。そんな俺の気も知らずに永本はどんどん話しかけてくる。

「ちょっと前のことなんだけどさ、リュウくんって夏休みお祭り行った?」

「いや、行ってないけど」

永本の顔は「ですよね」とでも言いたそうな表情をしていた。

「じゃあこれってリュウくんからしたら遅めの夏祭りみたいじゃん、金魚持って夜道歩くんだよ?」

「あーあー随分大きな金魚ですね、重い重い」

「浮いてるから軽いよ?」

「そのまま空にリリースしてやってもいいぞ」

「ひっどー」


 かなり長い間雑談をしていた。結局夜の零時を過ぎても結局彼女のお母さんは部屋にこもって出てこなかった。寝込んでいるのだろう。それにもかかわらず永本は「もう行こうよ」「早くしてよ」と何度も急かしてくる。娘のそんな言葉、お母さんが聞いたら悲しむだろうなと呆れてしまった。

永本の身体に繋がっている紐を慎重にこちら側にたぐり寄せる。結びつけるための紐を永本の背中に回して俺の腹で結ぶ。きつく締めると後ろから色々苦情を言われるから、少しだけ余裕を持たせて結んだ。そのまま階段を降り、音を立てないように玄関の扉を開け、俺らは外の世界に足をだした。



「いやーやっぱ気持ちいいね外は」

 背中から喜んでいる声がする。すっかり夏も過ぎ去って、秋も越して冬に近づいていた。夜の冷たく乾いた風が身体を掠める。澄んだ空気のおかげで星がよく見える。

「ここってこんな夜静かだっけ」

「いや、今日は特に静かだね」

人がいない街をゆっくりと歩く。俺は歩きながら頭の中で二人での思い出を反芻していた。はっきりとは思い出せないことも多かったが、あのときは楽しかっただとか、何で喧嘩をしたかはわからないが心無い言葉で泣かせてしまっただとか、あるいは当時言葉にできなくて後悔したことだとか、そんな昔の淡い記憶の泡で頭がいっぱいに満たされる。過去に耽っていた。それを穿つように永本が、

「えいっ」

といきなり手を伸ばし、スマホを俺の顔の前に向けてシャッターを切った。

「ツーショ撮っちゃったー、いいねいいね間抜けな顔」

俺は脱力してはぁ、と大きなため息をついた。ため息は少し白くなってゆっくりと空に飛んでいく。永本は写りを確認してから、そっちのスマホに写真送っておいて、とスマホを押しつけてくる。それを渋々受け取り、自分のトークに送信し、そのまま制服のポケットにしまった。


「なんで夏祭り行かなかったの?」

 いつまでその話を続けるんだと思ったが、それを主張する元気も残っていなかった。

「興味無い。どうせ行っても屋台で買って食べるくらいしか楽しいことないだろ」

「彼女作って花火見ながらイチャイチャすればいいじゃん」

「それも興味無いんだよ」

しつこく言われ続けて流石に少し腹が立ったがそれすらも楽しめる余裕があり、少し意地悪してやろうと、背負っている手を一瞬だけ離す。

「馬鹿!」

「あんま調子乗るとこうするからな」

学校ではどちらかというと静かな永本だが、こういった会話で楽しめるのは幼馴染の特権だと思っている。と言うより永本はもともとこういう性格なのだが、なぜか高校では真面目キャラで通しているらしい。中学からこの学校に進学したのが俺と永本しかいないから、一種のキャラ変と思っていたからあまり気にしていなかった。

「ちょっと座っていい?休憩」

返事を待たずに神社の近くのベンチの縁に座った。二人で話せるなら場所も言い訳の中身もなんでもよかった。

「なんでさ、キャラ変したわけ?前みたいに普通にしてりゃいいじゃん」

「いや、それが聞いてよ、最初の定期考査で一位取ったらみんなからそういう人なんだって思われてさあ」

「あー、それはしんどいわ」

「でしょ?さらに金魚の水槽を任されちゃったこともあって余計に気が抜けなくてさ」

永本はその後も、素の自分が出せなくなったことについて話してくれた。素で友達に接したら意外だと言われ落ち込んだことや、母親も高校に入ってからの成績を見てからなんとなく変わってしまって、家でも気を張ってないといけない気がしたとか、それなりにストレスが溜まる生活が続いていたらしい。一通り話が落ちついたところで、永本は真剣な声でこう切り出した。

「転覆病の原因って何か知ってる?」

首を横に振ると、だよねえとけらけら笑う。

「なんなら金魚の病気の勉強して世話係のポジション奪ってやるよ」

「ん?手伝ってくれるってことですか、はいはいありがとー」

俺より一枚上手なのも昔から変わらない。いつもあしらわれていたのを思い出した。


 スマホを見るともう深夜三時になるところだった。さすがに帰らないと近所の人とすれ違ったりと、何かしらリスクがあると思った俺は「そろそろ帰ろうぜ」と腰を上げた。その瞬間、ブチッという不吉な音と感覚が背中に伝わる。俺と永本を繋いでいた紐がベンチの縁で切れてしまったようだ。気づいてすぐ後ろを向いたが永本がいない。そして上から声がする。

「リュウくん、リュウくん」

永本は身体を翻しながらも俺に向かって必死に手を伸ばしていた。すぐに手を伸ばし返して触れた彼女の指先にすがって手のひらを閉じたが、掴めそうだった指先はすっと抜け、そのまま身体ごと真夜中の空にどんどん吸い込まれる。それをただぽかんと口を開けて、傍観しているだけの自分の顔がなぜかはっきり見えた。彼女の涙が自分の頬に幾つも落ちる。


 気づくと俺は自分の部屋のベッドにいた。どうやって帰ってきたかも思い出せない。思い出せたのは、三人称視点で見えた自分の間抜けな顔と頬に落ちてきた涙の感覚だった。時計は朝の四時五五分を指している。ああ夢か、と安堵したが枕元には確かに彼女のスマホが置いてあった。虚しいというのはこういうものなのだろうか。

 彼女のスマホの電源をつける。永本の誕生日を打ち込むとすぐにメモアプリが開き、「・久しぶりに外に出られた!ありがとうってリュウくんに伝える!」「・金魚の世話はリュウくんに任せた!」と書いてあった。本当に金魚の世話係のポジションを譲らせるつもりだったのも驚きだが、メモを書き残すということは何か意味があるのだろうか。帰った後に伝えることをメモに残しておいただけだろうか。少し考えたが分からず、そのまま再びメモに意識を向けると、不自然な改行がいくつもされていることに気づいた。下までスクロールすると、

「夏祭り誘ってくれたっていいじゃんか!誘う勇気なかった私も悪いけどさぁ」

と綴られていた。ああ、同じ気持ちだったんだな。途端に複雑な感情が涙と一緒に溢れだす。俺だってそうだった、俺も一緒に行きたかったけど————。

彼女のスマホを少し雑に置いて、死ぬように布団に飛び込んだ。布団が涙で湿っていく。このまま布団が涙をどんどん吸って海になって、そこに深く深く沈んで、息ができなくなって死んでしまってもいい。そんな苦しい明け方だった。 



 永本は便宜上、引越しによる転校ということになったらしい。皆最初こそ驚きを隠せなかったものの、しばらくしたらいつも通りの日常に戻った。永本とつるんでいたメンバーは彼女なしでも盛り上がっていて、他の生徒もそれを気に留めることもなかった。金魚の病気の噂も風化していったが、代わりに当事者の俺は停学処分の代わりにこのことを一切口止めされている。

「面倒臭えなぁ」

思わず口に出た言葉を友達に聞かれ、

「まあまあ頼むよ、水槽の金魚がお前を待ってるぞ」

と教室の外に押し出される。何も知らないくせに、と言ってやろうかと思ったが堪えて水槽室に向かった。

 水槽室に入ると担任からお疲れ様、と声をかけられ軽い会釈をしてすぐに作業に移った。

「まさかあの時にお前がが金魚の世話係を、さらにまさか自分から担うなんてな、職員室はお前の話で持ちきりだったぞ」

「そうなんですね、ありがとうございます」

「それにしても転覆病っていうのは厄介なもんだね」

「体内のバランスが崩れるとなったりするんです」

「でもお前のお陰でなんとか水槽の活気も戻ったから、感謝しかないよ」

担任はあれから一年経った今でも毎回この話をしてくる。辟易させるうえに最後はいつも

「結局永本はどこに消えてしまったんだろうな」

とぼやきながら水槽室を出て行く。空に浮かんでいった永本の表情と涙の雨がフラッシュバックし、当時の俺から強制的に反芻しろと言われている気がしてしまう。まあこれはよくあることで、こういうときはふたりで撮った写真を眺めて、忘れないように敢えて自分の心に傷をつける。写真の中で間抜けな顔をした俺と、その隣で永本がかわいらしく赤い頬で笑う。金魚達の鱗に太陽の光が反射したのだろう、水槽が赤色にきらめいた。

 



 彼女は彼が見てきた中で一番美しい金魚だった。


 カラッと晴れた夏の日、水色のプラスチックの桶にいれられた金魚達。そう、あの金魚掬いである。その桶の端に固まっている金魚達から少し離れている、一番赤い金魚。捕まえようとしても捕まえられなさそうなあの金魚のことだ。彼はきっと夏祭りから帰る道でも、帰った後に食べる夕飯のときも、布団に潜ったあともあの金魚のことが頭から離れないうえに、日常生活のふとした瞬間にあの日の衝撃は思い起こされる。彼女は永遠に彼の中の一番美しい金魚であって、彼はいつまで経っても彼女を捕まえられない少年、夏祭りの金魚掬いで彼女を追い続けている少年なのだろう。

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