第6話『次の瞬間を運んでくるのは、この瞬間の不幸である』
叔祖母は富裕層だ。
もちろん私が叔祖母の具体的な資産など知るはずもないから、言葉の定義通りではないかもしれない。
私が知っているのは、祖母が叔祖母を「彼女は働かなくたって、配当で億が入るのよ」と言っていた事、海外在住の彼女が日本に来るたびに、何かしら洒落た品をお土産にくれる事位だ。
こんな人たちがごろごろいる環境で生きてきたのであまり気にしていなかったが、よく考えれば叔祖母は超富裕層なのかも知れない。
何のタイミングだったか、私が何歳の時だったかはすっかり忘れてしまったけれど、上記の祖母の言葉を、母に漏らした事がある。
本当に何の悪気もなかった。
「友達の友達がアイドルなんだって」と言うような気軽さだった。
しかし、母は発狂したかのように
「私だってそうなりたかったああああ」
と絶叫しつつ、赤ん坊のように泣き喚いて家出した。
はっきり言って、私はドン引きした。
母が異形の者に思えてならなかった、とか書かず、あえてこの表現を選ぶ。
しかし、労働と厳しい現実について知ってしまった現在の私は、家出をした母の未熟さよりも「ドン引き」した己の未熟さの方に目がいくのだ。
――勿論、子供の前で発狂して家出するのが、良い訳ないけれど。
母にだって考慮すべき事情はあるのだ。
地元の名士の娘として蝶よ花よと育てられたのに、結婚したら義実家の事業が失敗したせいで、金銭的に苦労を負う羽目となった。(それでも、実家のバックアップがあったし、時々祖母は母にお小遣いを渡していたというのだから、私とは随分背景が違うなぁと思うけれど)
精神的に追い詰められ、今思えばそこで精神病の土台を作ってしまったようだ。
人の心が判らず、家庭を顧みない夫との不仲や生まれて初めて経験する経済面の苦労、育てにくい発達障害の娘など、決して順風満帆とは言えない子育て期が終わり、思春期を迎えた娘はいじめにあって不登校になる。
「不登校を抱えた母親は、お金を稼ぐと良い。何が起きても役に立つ」と言われた母は、伯父の経営する会社で働く事になった。
かつては、藤籠の中に赤子である私を入れておけば、誰かしらが面倒を見てくれたという大きな家で育った母が、ワーキングマザーとして生活するだけでも、ストレスだったのだろう。
母にしてみれば、叔祖母は「もしかしたらこうなれたかも知れない、もう一人の自分」に見えたのかもしれない。
当時、発狂する母に対して「叔祖母さんとは家庭事情が全然違うのだから、自分と比べたってしかたがないのに」と、冷静に思えた私であったが、いざ、自分が年を重ねてみると当時の母の気持ちがよくわかるようになった。
無論、資産家の叔祖母さんがうらやましいという意味ではない。
「なりたかった」けれど「なれなかった」自分の像をはっきりと自覚してしまうと、人の心は大きく軋むのではないだろうか。
「もしかしたらそうだったかもしれない未来」について、想いを馳せるのは残酷だ。
障害のない子供を育てる自分。
出世できなかったとしても、大企業で勤め続ける自分。
お嬢様として地元で暮らし続ける自分。
病気にならなかった母と、支えあう未来。
まるでマッチ売りの少女がマッチの炎を見つめ続けるかの如く、ありもしない妄想が脳裏を駆け抜けてゆく。
けれども、寒空の下でマッチ売りの少女が死んでいったように、霞を食べては生きてゆけないように。私たちは目の前の現実を生きてゆかなければならない。
アラン曰く、「次の瞬間を運んでくるのは、この瞬間の不幸である」
小説の続きを執筆しようとして、息子と共に眠ってしまった。自分時間を満喫できず不満に思いながら寝ぼけ眼をこすり、夫の部屋へ行く。すでに起きて仕事をしていた夫は、胡乱な目をして私を迎え入れてくれた。そして、ぼそりと言う。
「歯に出来物ができた。調べてみたら、膿か、癌らしい」
もしも夫が癌だったなら――私は、「日常を送ることの尊さ」を失念していた己を痛感した。
人は、配られたカードでしか勝負できない。それならば、己が手札を強化したいと思っていた。――その、手札すらすべて失う可能性を失念して。
「次の瞬間を運んでくるのは、この瞬間の不幸である」
専念すべきは、充実させるべきは、不幸を避けるべきは、「今、この瞬間」なのだろう。
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