第8話 プレッシャー

———ザッ トプン…ザ…ザ…ッ トプン


二人の他に人のいない砂浜は、よせて返す波の音が一定のようで時々少し大きくなる不思議なリズムで聴こえる時間が続いた。時折、空の高いところで鳥の声が長くのびるのも聴こえた。


トンビの声、ひさびさに聴いた気がする。」

ぼーっと空を眺めていた由夏が言った。

「グラウンドの上もよく飛んでるけどな。」

「そうなんだ。気づかなかった。」

「…藤澤って」

「なに?“藤澤ってなんも知らねー”みたいな?」

嫌味を言われる前に言ってやろう、と由夏が言った。

「いや、そうじゃなくて、藤澤って本当に前しか見えてないんだな、って。」

口にした瞬間、圭吾はうっかりクサい言葉を言ってしまった、というような気まずそうな複雑な表情をした。

しかし由夏にはその言葉の意味はまったく伝わっていないようで、小首をかしげていたがあまり気にもしていないようだった。


「さっき、久しぶりに…走ってて楽しいって思った。」

小さく吐き出すように由夏が言った。

「部活でもなんでもないから?」

「もちろんそれもあるとは思うんだけど、さっきは、なんていうか…ゴールがわからなくて楽しかったの。」

「ゴール?」

「いつもは100m先にゴールラインがあって、後輩がオレンジのフラッグを持って立ってるのが私のゴール。」

由夏が続ける。

「実はね…最近、走り始めるとゴールが見えなくなるんだ。」

「見えない?」

「うん。もちろん目はひらいてるよ。下を向いたりしてるわけでもないんだけど…顧問の先生が“パンッ”て手を叩いて、一歩踏み出すと同時にオレンジ色のフラッグも後輩も、何もかも視界から消えるの。砂埃が砂嵐みたいに見えて、全部霞んでいくの。」

思い出して息苦しくなる。

「脚もすごく重く感じる。」

圭吾は黙って聞いている。

「理由は自分でもわかってるんだ。本当のゴールが100m先の線なんかじゃなくて、夏の大会だし受験なんだ、って考えちゃってゴールが遠くて大きくてプレッシャーに負けてるんだって。」

由夏の声がすこしかすれた。

「だからさっきは行き先がわからなくて、受験とも関係なくて、ただただ走ってるって感じで楽しかった。本当に久しぶりに。」


「ああ、だからあの日急に気づいたのか。」

由夏が話終わるまで黙っていた圭吾が納得するように言った。

「あの日急に…?」

由夏は怪訝そうな顔をした。


「だから、藤澤はいろいろ勘違いしてるってこと。」

圭吾の言っている意味がさっぱりわからない。

「藤澤さ、俺があの日初めて通ったと思ってるだろ?」

「え?違うの?」

圭吾は“やっぱり”という半ば呆れたような表情かおをした。

「前しか見てなかったもんな。」

「え、またそれ…どういう意味…?」


由夏の戸惑った顔に呆れたり面白がったりという反応をすると、圭吾は一呼吸おいて話し始めた。

「俺、あれよりずっと前から毎日あの時間にグラウンドの横をとおってたんだけど。」

「え、うそ…」

他の生徒ならともかく、こんなに目立つ金髪の生徒か通ったら気づかない筈がない。

「通ってたっていうか…毎日立ち止まって見学させてもらってた。」

「えぇ?!それは絶対ない…!また揶揄からかってる…よね?」

絶対に嘘だと思いつつも、由夏の胸が騒ついた。

呆れた表情だが、真剣な目をして無言のまま由夏を見る圭吾の様子で、それが嘘ではないんだと察した。

「え…いつ…いつから?」

「一年の夏休み。」


(2年近くも前…?

本当だったとして、なんで?なんで立ち止まって見てたの?

なんで気づかなかったの?)


由夏が混乱しているのを圭吾は察した。

「パニクってる?」

少し笑ったように言った。

由夏はうまく言葉にできず、うんうんと頷いた。その様子を見た圭吾はプッと小さく吹き出した。

「藤澤もパニクるんだな。すっげークールなのかと思ってたけど、今日でだいぶ印象変わった。」

それは自分だって同じだ、と由夏は眉を寄せながら圭吾を見た。


圭吾は上体を起こすと、どこから話したものかと少しの間逡巡するように空を仰ぎ見てから話し始めた。

「俺って勉強できるじゃん?」

「………」

「………」

あまりに唐突な発言に、由夏はぽかんと頭の上に「?」が浮かんだ顔をした。それを見た圭吾も“当たり前だよな”と思って何故だかつられて呆然としてしまった。

「じ、自慢?」

「いや、まあ今のは俺がわるいんだけど、自慢とかじゃなくて…」

しまったという表情をして、片手で軽く髪を掻きむしるようか仕草をした。

「うーん…自慢ぽいけど、事実だよね。高橋は勉強できる、成績良い。」

圭吾が自慢をしているわけではなく、話したい続きがあるのだろうと察した由夏が会話の続きを促すように言った。


「俺にもあるんだ、プレッシャーってやつが。」

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