第21話

 もはやすっかり聞きなれた声に振り向くと、いつも腰につけていた用途不明の狐の面を今日に限って店主は頭につけている。きちんとつけているのではなく、表情が伺えるようななめにつけている。そして、首元には深い青と水色のチェックの布を巻いている。

瀬音せのん。ハンカチを店に置いていっただろう。これがないと、大変なことになる。僕が巻いてやるから、こちらに来い」

 となんだか大げさだが、要領を得ない話をする。店主はチノパンのポケットから取り出すと、白地に紫のブロックチェックの大判ハンカチを三角形に折り、折り目のほうをくるくると少し巻き、三角を正面にして結んでやる。

「少年。今、何時だ」

 嫌な予感がする。実は、日増しに懐中時計が古びていくような妙な違和感を覚えていたのだ。ズボンのポケットの中、懐中時計の感触がおかしい。ゆっくりと確かめるように、鎖ごと取り出す。鎖が振り子を描くとき、風子かこがおくれて現れる。風子と目が合う。僕は、泣かずにはいられない。ずっと目をそらしてはいたが、もう解っている。この僕の手の中、懐中時計は今この瞬間にも壊れている。どんどん取り返しのつかないところへ行ってしまう。そして、どこかへ行ってしまうのは時計ではなく…。

「パパ、泣かないで」

 下を向き、涙を拭うが、涙が止まらない。

「瀬音は、瀬音は一体…」

「瀬音はあくまでその懐中時計のおまけでしかない。言い換えると、少年が払った五千円を対価に瀬音は懐中時計を媒介にして、自分が生まれる前のお前たち両親に逢いにきた。瀬音は間違いなく和泉精也いずみせいや谷村風子たにむらかこの実の娘だよ」

 あるひとつの仮説を希望に僕は顔を上げる。

「お金、払ったら、瀬音はまだこっちにいられるのですか」

「それはできない。瀬音は徳が高いから、神様にお金を払ってそれでようやくここまで来られたのだ。お前がいくら大金を積もうと、何も変わらない。変えられない」

 店主はいつか見せた妻のためを想っている苦悩した顔を見せる。ずっと黙り込んでいた風子がようやく声を出す。

「瀬音ちゃんは、どうして、私たちに逢いにきたの? 普通に暮らしていたらそんな必要ない、よね?」

 風子と僕は瀬音に目をやる。瀬音の大好きは紫の服が徐々に血の紅で染まる。

「瀬音、事故で死んじゃったの。ごめんなさい」

 瀬音は泣いていいのか、笑っていいのか、わからなくて首を傾げる。

「何で、瀬音が謝る? 僕だって、風子だって立派な医者になるんだろ? それなのに、それなのに…」

 瀬音は壊れたように、パパと繰り返す。

「やめてよ! 精也くんがそんなこと言ったら、瀬音ちゃんがどんなに傷つくかわからないの?」

 風子は僕の病気を治したいと言った。僕の病気は内科系だから、つまり、瀬音を殺したのは僕。

「何で、どうして、僕は瀬音を救えない…?」

 僕は怒りを第三者である店主にぶつける。

「これは少年の技術がどうこうの問題ではない。全ての人間は生を受けた瞬間から死に向かっている。人が死ぬ運命は変えられない。個人に与えられた寿命もまたそうだ。ただし、瀬音を救えない自分を救う方法ならあるぞ。子供を作らなければいい。子供を産まなければいい。これから先、少年が瀬音に出逢うことはなくなるがな」

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