第2話

 大学病院の前の大通りは人が多く、訳もなく腹が立つ。ひとりになりたい。知らず知らずのうちに、僕は薄暗い小道に入っていく。さびれた公園があったので、そこで胃の内容物を戻す。口をゆすぎ、深呼吸。脈拍が徐々に正常になっていくのがわかる。

「でも、時計は戻らない」

 時計を贈ってくれた彼女の名を呼び、ごめんなさいと謝る。謝ってみても、何も変わらない。僕が悪かったと認めて詫びたら、時計が直るかもしれないと思ったのだ。頬を伝う涙を拭い、僕は公園を後にする。

 あてもなく、舗装されていない小道を歩く。高い木々に囲まれているので、夏なのに涼しい。この道からは見えないが、小川でも流れているのか、水の音がする。うるさいセミの鳴き声もなく、ここだけ時が止まっているのかもしれないと思った。途中、並木が突然途切れ、一軒の建物が現れる。暖かな日差しが長い年月を経たであろう木の壁を照らす。何となく、顔をあげると、「幸福屋」と看板がある。

 とにかく、ここは店らしい。開け放された格子のガラス戸の前には、店の表の両端に木の机が並び、白い布がかけられ様々な品物が並ぶ。両手をあげている招き猫、日の光を閉じ込めたようなビー球、手編みのレース、貧相な造花、おそろしくしなやかで弾力を持っていそうなたわし、血のようなものが染み付いている包帯、南部鉄器、まるでおばけみたいな生八つ橋のぬいぐるみ、……。

「一体、何の店だ。本当に客を幸福にする気があるのか」

 甚だ疑問ではあるが、ひとまず議論は先送りにしよう。もう一方の机で、心惹かれるものをみつけたのだ。果たしてその品物とは、銀色の懐中時計であった。鈍く光るふたを開けると、しっかりと秒針が動いている。これなら、ちゃんと脈も測れる。希望どおり、医学部に進めた後も使うことができる。今時分から心配しすぎだろうか。じゃらじゃらと鎖を揺らしながら、買おうかどうか逡巡する。これだけいいものだから、相当値段が張るに違いない。一人暮らしの高校生には、高すぎるだろう。と、とても懐中時計には似つかわしくない紙のこすれる音がする。確かに懐中時計とてのひらの間に紙のようなものの感触がする。裏返すとそこには黄色いふせんに、黒いペンで「おまけ、つきます。」の文字がある。

「おまけがつくならいいか」

 第二の僕のお守りもとい神あるいは宗教の偶像にするのに、こんなにふさわしいものは他にはないとも思えてくる。いや、彼女にナースウォッチをもらってからというもの、僕はひたすらに依存することを覚えてしまい、その対象がないことに耐えられないことが実感的としてよくわかっているからだ。とにかく、はやく次の時計が欲しい。今の僕にとって必要なものは、良質な参考書や問題集、バランスのいい食事、そして、時計なのだ。どれも限られた生活費の中から捻出せねばならぬのだから、安いにこしたことはないが、それでもいいものなら、出せるギリギリまでお金を払ってでも欲しいというのが道理だ。

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