オウノウ

@8163

第1話

 甥っ子が甲子園に出ていると言っていたので、休憩室のテレビを点けた。

 画面が映る前に「キーン」と、金属音がして、出た画面には後ろ向きのレフトが背番号の7を見せてスタンドを見上げていた。ホームランだ。

 大歓声の中、ダイヤモンドを回っているのはカヲルの甥っ子に違いない。よほど嬉しいのか、全力疾走に近い速さで三塁ベースを踏み、あっという間にホームインしてしまって、大歓声も耳に入って無いのじゃないかと思った。

 もう少しゆっくり走って、同じ画面を観ているに違いないカヲルに感慨を味わわせてやれよ。と、要らぬ心配をしたが、そんな配慮は必要なかった。夜に会った時までカヲルの興奮は続いていたらしく、体が火照ったように熱く、声も上ずっていた。

 「甲子園でホームランを打てる奴が何人いる?」と、興奮はしているが、その難しさを解っていない風なので、言い含めるように、逆に質問するように説明すると、知恵を巡らせ、手順の複雑さに満足したのか、カヲルは漸く落ち着いた。甥っ子は姉の子供らしいが、母子家庭なので、ホームランは勲章になるだろう。ボヤキのノムさんこと、捕手監督、野村克也の言に、"私が有名になることで母親の生きた意味があった"との発言を観たが、それは姉のみならず、カヲルにも波及する事では無いだろうか。生きる意味なんて自分では決められないのかも知れない。

 カヲルが個人情報を隠さなくなった。バツイチで離婚経験があるらしい。そんなマイナスな情報を相手に与えるのは、嫌われないとの確証があるからなのだろうか。それとも、慣れてきて相手への遠慮が無くなったせいなのか、そう言えば、背中に爪を立てたりとか、わざとらしい振る舞いは無くなり、突っ慳貪なことば使いも無くなった。あの、コンビニの店員の出すような「いらっしゃいませ」の、半音高い声もなくなり、落ち着いたアルトの声での会話になった。

 女性も年齢が増したり出世して偉くなったりすると音程が低くなるらしい。それに加え、馴れ親しんで特別感が無くなればゆっくり喋るようになり、声も低くなるのではないのだろうか。それが嬉しいのか嬉しくないのか、ことセックスに関しては低い声の方が体に共鳴するのか、肌を通して伝わるようで、好もしい。抱き合ったまま会話すると、体の振動が密着した胸に響き、楽器のようにメロディーを奏でてる気分になる。発声で、多分、空洞である肺が鳴るのだと思う。どうなんだろう、小柄なカヲルの肺活量は、男の半分くらいだろうか、深呼吸をして、思い切り息を吸い込んでも、その動作の割には量が少なく、小動物のため息のようで愛しい。今はただカヲルに夢中で、アバタもエクボの状態なのかも知れないが、こんな高揚感の中で女を抱くのは初めてで、腕を腰に廻し抱きしめ、髪の毛に顔を埋め、心行くまで匂いを吸い込んだ。

 嗅覚は本能に近い所に作用する。匂いを嗅ぐ事によって突然、昔の事を思い出したり、蘇った記憶に囚われ郷愁に浸ったり、卑近な例なら、旨そうな匂いに腹の虫が鳴ったりする。鼻の穴が胃や腸に繋がっているのなら、同じく、髪の匂いが生殖器に繋がっていても不思議じゃない。それとも、それは個人的な条件反射で、各々に違うのだろうか。そうなら、それはそれで、髪の匂いで興奮するのは後天的に獲得した唯一無二の技術になるのだが、古今東西の本を紐解くまでもなく、そんな、匂いに関する記述は枚挙に暇がない。人類何万年だろうか、性行為はし尽くされて飽きられ疎まれても良いだろうに、そんな事にはなっていない。有史以前に香水などはなく、花を髪に差したりして香りを移したりしたのかも知れないが、髪の匂いは催淫材としての役目を果していたに違いない。ただ、記憶はされるだろうが記述はずっと後だ。平安期の長い黒髪、江戸の花魁の、あのゴテゴテとした鼈甲の簪の夥しい数。

 ところが、その反動か、ショートヘアーに扇情されたことがある。しかも、現実ではない、小説の中での事だ。まだ小学生だったのでヘミングウェーなど早いのだが、高校生の姉が読んでいて放ったらかしにされていたのを、どんな物なのかと盗み読みをして、その記述に出合った。

 物語はスペインなのだが、フランコとの内戦に義勇兵として参加した主人公の知り合ったのが金髪の髪の短い女。かつて懲罰のために坊主頭にされた、所謂、ナチに協力して国民の反感を買い、見せしめに坊主にされた女の一人だ。いま考えるとナチに協力していたのだからフランコ側の筈なのに、パルチザンではおかしいが、そこは良く覚えていない。とにかく、主人公は見張りに出た丘ノ上みたいな所で、女の短い髪の毛を撫でるのだ。まるで犬っころを撫でているみたいだったが、その指の間に柔らかな女の髪の毛が引っ掛かり滑り、毛足の長いジュータンの手触りのような描写に興奮した。どこが、どのように、どうして性的興奮に繋がっていたのか解らないが、確かに掌に柔らかな髪の毛が感じられ、女は頭髪を撫でられて微笑んだ。ヘミングウェーは坊主頭を撫でて過去の過ちを赦したのかも知れないが、そこで興奮する少年が現れるなんて想定してはいまい。実際にまだ陰毛も生えていない性器が勃起し、精子を放出できない、射精を完遂する事のない、未成熟な欲望が意識下に渦巻いたまま、懊悩するしかなかった。射精できたのなら、そこで終わる筈が、終わらないから懊悩するしかない。そう、それから一年くらいして、確かな記憶ではないが、夢精をしたように思う。

 妙な事を思い出したものだ。それが、謂わば髪フェチの原点なのだろうか。ただ、ヘアースタイルや髪の毛の長い短いに興味はない。匂いなんだ。それはもう女の匂いと言っても良いのだが、体臭とか化粧の匂いではない。いや、やはり体臭の類いなのだろうが、それでも違うと言いたい。髪の匂いには郷愁のような懐かしさと大脳皮質ではなく悩の最深部、海馬に繋がるような、本能の衝動に作用する力があると思う。

 だがもうカヲルとは別れなければならない。飽きたのだ。簡潔に言えばそうなるのは、やむを得ない。第三者の目から見れば男の身勝手、よくある女たらしの浮気者。だが嫌なんだ。馴れてくると我が儘が、女の、と言うより育ちの価値観、例えば歯磨き粉を一杯出すとか湿った煎餅は嫌だとか、そんなどうでも良い事で意固地になり、軽蔑的な態度を見せ、その低俗な態度も含めて、それを認めろとの要求だ。惚れた女の美しさ優しさ思いやり、全てが嘘だと告白し、その現実を受け入れろと言わんばかりの態度。

 多分、夢が崩れるのが嫌なんだろう。男の都合の良い、観念的な女性へのイメージ。惚れた女は母親と同じく無償の愛を注いでくれると、どんなに背信しようと愛は崩れず、最終的には赦され愛は続くと、そんな希望を確信していて揺るぎない信念、と言うより自惚れだろう。それを否定される。女が全面降伏したのだと思っていたのに、ジワジワと失地は回復され、気付けば此方が崖っぷち。何処にも逃げ場は見つからない。もう海に飛び込むしかない。幸い泳ぎは得意だ。無事、逃げ切れるだろうが、将来、後悔するのは見えている。こんなに好きになった女は居ない。その女と別れる。泣いて馬謖を切るのだ。女を思い出し、悔やんで惜しんで、ふとした拍子に、その笑顔や怒った顔を思い浮かべて失った物の価値が代替の効かぬ物だと再認識されるのを知るだろうが、解っていて別れるのだ。もう、これ以上の愛も恋もない。直ぐに普通に結婚して子供も作って生活して行くのかも知れないが、忘れたフリをして生きて行くのだ。これはこれで逃げ道のない真実さ。

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