水槽

千羽稲穂

水槽の中は心地いい

 使い古された文句と同じように、使い古されたデートスポットである水族館に訪れた。私がこの水族館に訪れたのは人生のうちで五回ほどある。一面のガラス張りになった自動ドアは、畳十畳ほど並べたくらいあり、慣れた風体でくぐりぬける。コロナになってからコロナの温度計が設置され、身体を検知器に通さなければならなくなった。加えて消毒をお願いします、と係員に案内される。視界には受付、そこへ至るまでの誘導テープが敷かれていた。赤いテープは既に水族館の中で揺蕩うかのようにきられている。私は案内役の指示通り、自身の身体をモニターに収め、体温が正常値だということを示した。若干赤くなっていたが、私の平常時の体温はだいたい高めなので、ひやっとはしない。この体温計で怖いと思ったことなど、誰かあるのだろうか。実際に検知されたお客様の対応をしたことはあるが、私はひやっとよりかは、お客様への申し訳なさが勝っていた。そんなときでも、私は毅然と対応してしまう。「申し訳ございませんが、」とか「おそれいりますが、」とか、社会人特有の枕詞に慣れてしまい、時折普段の日常で出てきてしまっている。私の心は何一つ申し訳なくもないし、おそれていもしないのに。本当に思っている人は、私のように、案内一つで毅然と対応はしないし、心の中で毒づきもしないだろう。そのお客様に対しても、きっと。

 体温計をくぐりぬけると、チケット売り場へのテープの間を歩みだす。既に魚のように水族館を泳いでいるかのようだ。ぐるぐると辿り、人の並びが少ない列に行き着く。窓口は三つ。端から女性、女性、男性。どの人の眉も髪も整えられている。私は右から二つ目の受付に。受付窓口には、大人の料金と子ども料金が書かれていた。そして灰色の網目掛けがされた丸が受付のガラスに取り付けられていた。「大人一名でお願いします」というと、「大人一名ですね。千五百円です」ときりっと溌剌な声がスピーカーから流れた。リップ音も、訛りもない、平熱の声は、耳心地が良かった。「はい、千五百円ちょうどです」と財布から千円と五百円玉を抜き出して渡した。すぐに鞄に財布をしまう。くたくたの財布を見せたくはなかった。

 チケットは、真鯛が描かれたものだった。魚拓のように魚がチケットに押されている。しかも、カラーで。この水族館は魚が描かれたチケットで、毎回もらうたびに違う魚が押されている。鱒(ます)であったり、鱈(たら)であったり。君は何の魚だった?とそうして尋ねるのだ。友達に、何の魚だった?私は、これ、と。チケットを眺めながら、始めに現れる水槽に行き着く。胸あたりまでしかない低い水槽で、岩のようなモニュメントが中に置かれている。端には、ここにいる生き物の説明が表示されている。ここからだんだんと鼻の感覚が研ぎ澄まされていく。魚の匂いだ。生臭くも、生きていて、飛び跳ねている鱗の艶めきだ。ささやかな説明は青い掲示板で白い文字として『オオサンショウウオ』と名付けられていた。にょろんとした大きな平べったいトカゲのような体をしている生き物。斑色のこの生き物は訪れた水族館の名物だった。そして、ふとお土産を考える。最初と前回きたときの記憶がくっつく。大きなオオサンショウウオのぬいぐるみを抱きしめると、よく眠れそうだった。誕生日プレゼントにおひとつどうですか、と抱きしめて彼に示した。もちろん、彼へ、の。すると「良いね」とTwitterでハートにタップする軽めの「良いね」が飛んできた。「でもこのオオサンショウウオ、一万ちょっとするんやって」あ、訛り。受付の女性にはない、私の根底に流れる血がさせる、訛り。

 オオサンショウウオを誕生日プレゼントにするのはちょっと考えた。でも、これが誕生日プレゼントは、ネタ感が強くてやめにしてしまった。私は真面目で無難な財布を選んでしまった。きっと考える時間が楽しかったのだ。彼も彼自身のことを考えてくれる時間が嬉しかったのだ。だから、私は早めに決めるのをやめてオオサンショウウオで一回遠回りをしたのだ。楽しかった、のだろうか。嬉しかった、のだろうか。

 オオサンショウウオは、水槽の端に折り重なっていた。茶色い平べったいものが積み重なり下のオオサンショウウオを圧迫し、しかしゆるゆると、ときどき鼻を水面へと呼吸をしに上る。ぷくぷくと泡が水槽の中を気泡が打ちあがる。何も考えずオオサンショウウオは誰かと一緒になって、目を瞑る。

 近くにオオサンショウウオの実寸サイズぬいぐるみがあった。何回も立っているが、私の背と同等か、それよりも指数本分くらい高い。水槽の中に折り重なっているからわからないが、陸上に打ち上げてみれば体長は百五十センチくらいあるのだそうだ。それがせせこましい水槽の端に仲間と生息している。

「狭くはない? 息苦しくない?」

 問いかけるも、返答などない。

 どうして彼らは端に仲間と積み重なっているのだろうか。

「寂しい?」

 きっと寂しいからだよ、と話したことがあった。魚にも寂しさはある、と聞いたことがある。寂しいと死ぬ魚もいるんだよ。へーそんな魚もいたんや、といろんな話をした。

 次の水槽に移っても、そんな話ばかりを思い出す。真鯛、鱒、といった魚が三種類ほど泳いでいる水槽だ。人間二人分の背丈の水槽の中には、鰻(うなぎ)もいると説明もあり、鰻を探してみる。赤色で等身が丸っこい鯛は見つけやすい。ぽつぽつと濁点がうたれている魚といった色や特徴、そして、人間に姿をアピールする魚は分かりやすい。だが、岩肌に肌をくっつける魚や、暗がりを好む細長い魚は水槽の中では、どこにいるか分からなかった。いた!違う、それは違う魚、なんてことも多々あった。友達と来た時も結局わからなかった。彼氏ときたときもわからなかった。なら、鰻なんていないんじゃないか。

 私は諦めて、次の水槽に移る。とんとん、と歩き出す。だんだん水族館は暗闇に満ちてくる。反して、水槽は鈍く灯を帯びる。柔らかな青色の光が四角形の形をとる。たびたび魚の影がちらつく。過った魚は悠々自適に泳いでいる。

「水槽の中にいる魚は幸せだと思う?」

 マスクの中で、一人呟く。すると、視界に何かが溢れてくる。鈍く霞める痛みが鼻をつきさす。

 水槽の中の魚は私を引き連れてくれる。道順は簡単で、確か元彼ともここを歩いていた気がする。元彼には、誕生日プレゼントにジッポをあげた。彼は喫煙家だったから。遠回りせずに思考は一本化されていたと思う。それでも、彼のことを考えていたから、きっと彼にとって嬉しいことだったはずだ。生ぬるい関係性をすーっと続けていた。漂う煙草の匂いは、もう既に覚えてはいない。煙が霧散して、そうあった事実だけ、記憶の場所だけ、存在している。暗く閉ざされた記憶の黒に、私は歩いている。示された記憶は水槽の魚を眺めるかのよう。フレームの中の魚は、漂っているのだろうか。

 大きな水槽に行き着くと、ゆったりと水槽の中を旋回するエイが最初に目についた。そして、イワシが群れを成して水槽の上部をいったりきたり。団体客の添乗員はおらず、集団で一体となって回っている。いつか霧散するのではないか。不安は現実となりエイが横切り、二分する。二つの集団はバラバラとまた各集団ごとに細切れになる。でもすぐに隣のイワシに気づいて、一匹、二匹と集まり、次第に集団は一個の大きな集団に戻っている。隣同士かちあうのは狭い水槽だから。水槽の近くよると、サメがのっそりと泳いでいた。あとは見知った魚がぽつぽつとワンマンで泳いでいる。イワシとは反対に自身の泳ぎだけ見つめて、ふんわりと中段で泳いでいたり、水底で留まっていたり。土の上で寝ている魚もいる。そんな魚たちを脇目に追い越して、エイが水槽を一周、二周と。エイにも種類はある。アカエイ、トビエイ……尻尾が細長く、水中に一本線が飛び交っている。一匹だけエイの裏側を押し付けているエイがいた。白い顔がはりついている。

「あの三つの顔みたいなのは鼻と口なんだよ」と彼は言った。表面にも二つ突起がでている。あれは、目。エイは鰓(えら)呼吸だから、オオサンショウウオみたいに水面に顔をださなくていいんだ。でも、今の水槽の中でエイは必死に水中に顔をだそうとしている。ぐんぐん上がって尻尾を下に。顔を水槽にくっつけて。

「魚にも心はあると思う?」

 私はいつも疑問ばかり言ってしまう。知ってても知らなくてもいいことを。会話の糸口を探してばかり。

「考えてもみなかった。寂しい感情があるのなら、あるかもしれない」

 感情と心は違うものだから、本当はないのかもしれないけれど。

 後ろに下がって、大きな水槽の区域をとらえる。人の影が水槽の下に行きかう。背後にはベンチがあったので一息ついた。息を吐いて吸って、意図的にすると、音が沸き立つ。水槽の中の音はない。人間の音だけ。とんとん、と。靴を鳴らし、がやがや、と水槽の前で魚を評す。

 ベンチを立つと、水槽の中のサメが大きな水槽から奥へ移るのが見えた。私はサメを追い、次の水槽に。より一層暗がりになる。祠を覗いているような雰囲気で、岩石に囲まれている。ここにはネコザメがいる。オーソドックスなサメで、みなが想像するサメといったら、このネコザメだろう。案外このネコザメはシャイで、こうして祠のように暗がりにいついている。思ったよりも小さい。灰色の肌はすめらかだ。四匹ほどのサメが滞留し、先ほどの大広場のような水辺覗き込んでいた。そして彼らを私は覗き込んでいる。

 サメがいると不安になる。他の魚は食べてしまわないのだろうか。食べてしまわないから、入れているのは重々承知しているが。

 以前、違う水族館へ行った際、水槽の底に魚の死体が落ちていた。大きな水槽では魚たちはその魚には目もくれず回っていた。魚は白っぽく、模型のようで。本当に死体なのかと疑うほど、自然にあった。

 種類は異なるが「死」は、彼らにとって当然の理であり、特に心を揺るがすものではないのかもしれない。水槽に入っているとしても、日常は変わらない。逆に私という人間が勝手に彼らを決めつけて、彼らの日常を「死」というもので区切りをつけている。彼らはそこにいるだけだ。

 押し込めている、人間のエゴ。

「海にいるほうが自然で、息がしやすいと思うんだ」

 どういうことが幸せなのだろうか、と私はいつも彼に問いただす。

 私が好きなことはたった一つで、生きる意味も一つに過ぎない。あとは付属品。そうあるために、私は生きていた。自由だった。何をするにも。一人で生きられたから。

「何も考えずに、漂うだけってのも幸せだよ」と彼は彼らを肯定するし、「田舎のヤンキーが一番幸せだと思うんだ」と考えすぎる自分たちを揶揄する。

「そっかな。そうやなぁ」

 エゴまみれの水槽に手を付けると、ひやっとした。心の情は既に冷めていた。

 私は息をひそめて掠れた声をだしながら、

「海にいる自分たちを思い出してほしい」

 死体を見た元彼は、えぐいえぐいと。でも、私は全くそうとは思わなかった。彼らはそこにあるだけなのだ。水槽の中に閉じ込められているだけで。生態系がこの中で終わっているだけで。彼が普通の人、なのだと少しずつ感じ始めていた、あの時。

 そんなあの時、と今は似ている。掌の温度が下がっていく。唇が冷たく、肌の表面が魚のように生きてはいない。私は水槽の中に、いる。息苦しくもなく、その場を悠々自適に泳ぎ回る。情は滞留を示す。掌が水槽の表面をなぞる。きゅるきゅる、と音が滑る。額をくっつけると、生命の震動が伝わってくると思った。頭が冷静になるだけだった。魚が額の先で何匹もめぐっている。黒い影がするっと。人間が遮っていくみたいに。今はサメの洞窟で潜んでいる。そこへ言えない言葉を隠す。君は私に何も言わない。私は君に何も言わない。たまに、一人だと思う。そして私たちは一人の方が息をしやすいことに気づいている。二人で揺蕩う私たち。でも、これって情なのか、好意なのか、私にはとっくにわからないものになってしまった。私は海に出るべきだと思う。きっとその方が二人にとっていい。君も気遣う人だから、気遣い過ぎてしんどくて破綻してしまう。私は気遣ってほしいから、相手に対して厳しくなってしまう。二人の水槽は息苦しくはないけれど、一人の海の方がきっともっと息がしやすい。

「別れよう」

 その一言が言えなくて、水槽の中に留まってしまう。

 水族館の話をした。ありとあらゆる魚を食べた学芸員がいる水族館の話をきいた。くらげだらけの水族館をきいた。巨大な水槽の前でベンチに座って一日中いた水族館の話も、たくさんの水族館に行ったことをきいた。目の前をさまよう魚は幽霊みたいにふらつく。まだ行きたいところはたくさんあった。

 サメの水槽から力なく起き上がると、アザラシがいる水槽に出る。開けた場所で日差しが降りかかっていた。燦燦と私を傷めつける。カシャッとシャッターを切る音がする。あ、ここでシャッターを切った。太ったアザラシが丸い筒の水槽で立ったまま眠っていて、かわいらしかったから思わずシャッターを切った。今の君のアイコンだ。

 すばやく、次のコーナーに行くとペンギンの人間関係図が壁一面に書かれていた。面白いね、と友達も言っていた、ペンギン関係図。もしかして更新されているかも、と興奮する君。ここに立ってと言ってシャッターを切られた。このペンギンと私の背丈が似ていた。小さい、と言われるよりも、写真を撮られたことが恥ずかしかった。写真が苦手だった。君も私も、たぶん嫌いだった。嫌いと好きとを理解して、それでも一緒にいたいと思っていた。

 いずれ、別れると知りながら、付き合うのはいけないことだと思う。

 足早に歩みを進めてしまう。一気に暗闇の幕が下りる。ふわっふわっと水泡のような白が水槽の中を浮かんでいた。くらげが様々な色を受けて水槽の中をさまよっている。さまざまなくらげが水槽に収められていた。丸窓にも、四角い窓にも。長細く湾曲した水槽があったが、空間を囲むように丸い水槽になっていた。中もくぐれる。頭をかがめて入ってみると、四方八方にくらげが舞っている。くらげの仕事は、この動きを人間に見せることだ。

「くらげも働いているんだね」と私がくらげは偉いね、と宥めると「くらげと人間を一緒にしたらいけないって書いてたから、働いてないよ。生きてるだけだよ」と彼が笑う。何気ない掛け合いすらも愛おしくて、嫌になってしまう。くらげのように、何も考えずに生きていられたら、この先も一生一緒にいられたのかもしれない。つらいことも、何もない。くらげなら。

「俺、くらげの死体を投げて遊んだことがある。コラーゲンみたいなもんで、ゴムみたいにぶよぶよだった」

「くらげって死ぬの?」

「くらげの死体で遊んでるから、死ぬは死ぬよ」

「そのあとはどうなるんやろ」

 くらげの区画にある、くらげの研究所では、くらげのことについて書かれていた。くらげは、触角を残して消える。研究員は消えたくらげを見て寂しくなる、と。私たちはくらげは、死体になった後消えるんだね、と知識を分け合った。もしかしたら、この水槽の中で亡くなったくらげは知らない間に消失するのかもしれない。私の周囲にあるこの水槽の中でも、知らない間に消えていくくらげはいる。

 彼は私が好きだと思う。だけど、好意があるから、だけではやってはいけないことを私も彼も知っている。もうそんな年齢ではない。結婚、を見据えているのなら、私は不適切だ。

 私は一人で生きていける。彼は、たまに私に自分は必要ないんじゃないかと不安になっている。頼って、なんて言っても私には頼りはいらないのだ。私は私でしかないし、彼は彼でしかないから。一人で独立していくしかない。

 くらげだって誰にも寄りかかっていないでしょ。

 人間だって、誰も寄りかかれずに生きていけるんだよ。頼る相手は、都合のいい相手でしかないから、依存相手になってしまう。私はそれにはなれない。私は、彼には似合わない。依存は私にできない、させない。気遣うのと依存とは全く違うものなんだよ。

 ごくり、と飲み込む言葉を嚙み砕き、軟化させて、消化する。砕いた言葉は何を言いたいのか分からなくなっていた。

 くらげの種類は豊富にあった。赤いほろほろの触角をもつくらげ。巨大なくらげ。触角が絡まってちぎれているくらげ。痛覚はないのだろうか。それともしびれているのだろうか。麻痺状態のまま生きている、私は生きていると言えるのだろうか。

「生きている定義って何なんだろうね」

「生命活動が停止すること」

「理屈っぽ。文学の欠片もないね」

「理系なので」

「私は、何も考えていないとき、死んでるって感じる」

「よくわからない」

「文系なんで」

 惰性で付き合っているのは、死んだ時間。くらげはともすると、幽霊であり、生きてはいない。彼は私を「別れよう」を待っているのかもしれない。その状態の彼も死んでいるうちに入るのだろう。

 別れよう、何度か練習した。彼と会うと消えるのは、死んでしまっているからか。

 くらげの水槽から、とんとん、と歩くと、暗がりの幕が上がり、ついにきらびやかなお土産やさんに行き着いてしまう。手前にあるくじびきで、イルカのぬいぐるみをプレゼントされた記憶が掘り起こされる。

 これを見て思い出してね。

 今でもイルカと同居している。別れた後は、全部捨てるものだ。思い起こさなくなってしまう。イルカが消えるとき、おそらく私も彼も生きてはいない。明日、明後日、彼とはどうなっているのだろうか。延命することに意味があるのか、私にはわからなくて。彼を傷つけているのではないか、と勘繰ってしまう。私が優しくあれるということは、彼と別れて傷つけることだ。海の方が水槽よりも息がしやすい二人だから。優しくありたいのに傷つけてしまうのは、彼の優しさに反してしまう。彼の優しさは傷つけないことだから。

 ねぇ、それは優しさじゃないんだよ。語勢を強めて詰めてしまった昨夜を恥じてしまう。私の優しいの定義と彼の定義が全く違う。気遣いの種類が嫌われたくないという定義と一致しているのに。その定義はゆるぎなくて面白いのに、彼を傷つけてしまうから。

 それでも、水槽の中で海を渇望して、今だけは留まりたい。今だけは息苦しくて心地いい水槽の中を享受する。

 お土産やさんは、オオサンショウウオのぬいぐるみがあった。ぎゅっと抱きしめると、柔らかくて思わず買ってしまいそうになった。一番大きいので一万円。そこからワンランク下げると三千円くらいだ。これくらいなら買えるかもしれない。ない希望を考えてしまう、そんな虚しさを抱えている。ふっくらと大きいこの虚しさはオオサンショウウオの形をしている。オオサンショウウオを剥いで、違うお土産を考える。小さなクッキー缶なら一緒に食べられそうだ。レジに持っていくと、「五百五十円です」と軽い言葉が投げられる。若い男性の店員で、忙しそうにレジ作業をしていた。レジを素早く通すところを見ると慌てている。すぐに私は、財布を取り出す。くたびれた財布は、彼からもらったものだった。ふと元彼にあげたジッポがちらつく。彼は私のものを捨ててくれたのだろうか。捨ててほしいな。私があげたジッポを上塗りしてくれるジッポを次の彼女にプレゼントされていたらいいな。もう既に私はどうでもよくなって、そう思う気持ちすらも忘れていたのだから。思い出さなくていい。忘れてほしい。財布から五百五十円ちょうどを出すと、「レジ袋はいりますか」と慌てているのに丁寧に対応してくれた。少々訛りのある声は、とても親しみやすかった。「いいえ、いりません」私の声に訛りはない。血を隠し、声の統制を図っていた。購入したクッキー缶を鞄にしまうと、振り出しにもどった。自動ドアを出る前に彼にLINEで「オオサンショウウオがいたよ」とメッセージを投げた。ぽんっと彼のメッセージがすぐに返ってくる。既読すらつけずに、携帯をポケットに投げ入れた。水族館から出ると赤焼けが私を包み込む。私はすいすいと優雅に血に濡れた水槽を泳ぎだす。

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