3-3-2.大説とその歪曲

📖この節では、次の項目について説明する。

  【たいせつ

   🖈大説としての仏教

   🖈仏教の理念

   🖈修行僧がやっていること

   🖈執着を捨てるという概念の難解さ

   🖈説に対する態度


      †



📕【たいせつ

 〈君主や著名な専門家などがあらわすオピニオン〉〈公説〉の意。


 論述テーゼ規範コード寓話フェイブルなどが主。

 なお[だいせつ]ともわれるが、意味に違いは出ないからどちらでもよろしい。


   📍大説としての仏教


 ここでたいせつの例として、「仏教」というものについて紹介する。

 唐突な引用だと思われるかもしれないが、これは説に対する態度をかえりみる参考になるのでは、と想像したもの。

 すなわち「仏教」を「他者の話」に置き換えたときに、「自身の取っている態度が不当なものではないのか」という検証ができるようにならないか、と考えたものである。


 ともあれしゃが、この仏教をひらいたとされるのだが、しかしその教典スクリプチャーほっきょう』はどうやら、彼の著作ではないらしい。

 よってこれが、たいせつに相当するかどうかはかなり疑わしく、多くの教徒らによって改筆されつづけたものなら小説大集ととらえるのがとうなのではないか、と疑われる。

 そのあたりの事情の概要を、これから説明していく。


   📍仏教の理念


 しゃが説くところの元々の仏教とは、〝宗教〟と聴いたとき一般に想像されるような、超常的な話とはかけ離れるものだ。

 すなわち論理的かつ、かなり人間寄りに「きるくるしみからのがれるすべ」を説いた、むしろ哲学に近いもの。

 理念の柱はごく限られ、それは〝平等〟〝教義固定観念超越存在の否定〟〝自己と社会のみこそ基本〟〝無常我らは人間〟くらいしか無いとされる。

 これらの根幹となっているのが〝しゅうちゃくするな〟という基本理念であり、かの有名な『はんにゃしんぎょう』がそれを克明に語るそうだ。

 その全文が、漢字にして原稿用紙1枚にゆうで収まるのだが、それほど彼の語ったことは少ないという事である。

 でもぶっちゃけ、これだけ有れば『法華経』要rnゲフンゲフン


 ちなみにその『法華経』は、専門家向けの「論述テーゼ編」と、大衆向けの「寓話フェイブル編」に大きく分かれる。

 難解な理念を、どうにかくだこうと試行錯誤した結果、とは思われる。

 しかし、うち後者については熟読したところでよほど頭脳めいせきでないかぎり、前者の説くところには到達しがたい内容に始終するもの。

 のみならず、前者で語られるりん因縁やら功徳殺生などの〝それっぽい講釈〟すらも、基本理念〝執着するな〟には沿わない。

 それらが記述される教典スクリプチャーのことが〝「きょうてん〟と呼ばれるのだが、これもおそらく〝教義の否定〟にただなぞらえるためだけの、ことば遊びにすぎないと思われる。

 だいいち、仏教の主題だと考えられがちな〝ほとけ〟という概念がまずもって、〝超越存在の否定〟に反するのではないか。

 たとえば〝「りきほんがん」とは〈人にできる事などほとんど無いのだからすべてほとけに任せよ〉という教えなのだ〟と説かれるが、これは神信仰論そのものだろう。

 このほとけとはしゃの事だとも説明されるが、しかし〝我らは人間〟と彼は言ったのだ。

 ゆえに、すべて他者による後付けの俗講釈なのだ、とさざるを得ず、その通りのじっせんをしようとすると、余計な回り道をしてしまうことが予想される。


 いや、「せつせつてん(10³⁷²¹⁸³⁸³⁸⁸¹⁹⁷⁷⁶⁴⁴⁴⁴¹³⁰⁶⁵⁹⁷⁶⁸⁷⁸⁴⁹⁶⁴⁸¹²⁸)」だなんて巨大単位とか定義したって、執着捨てる助けににゃあ成らんやろ。

 あんたらみたいのが子供だましなもん盛り込むせいで、だいたいの宗教は〝なんかアヤシイやつ〟って勘違いされるんぞ。

 食い改めよ、ラーメン(


   📍修行僧がやっていること


 つまり「修行僧」とは、〈しゅうちゃくってくるしみからのがれるしゅぎょうをするもの〉なのであり、その手段は個々の流派による。

 一般にていはつを「ぼうあたま」と定めるのは、体毛に執着しないようにするため。

 めいそうをたしなむのは、雑念に惑わされないため。

 『しょうりんじゅつしょうりんけんぽうとは別物)』などのように体術がたしなまれるのは、力で屈服させられる苦しみから逃れるため。

 意欲や性機能の減退を招く、と知られるはずの菜食を「しょうじんりょう」と定めるのは、その退であり、だから肉類のほか、精のつくねぎ類なども禁忌とされる。

 あ、「ベジタリアン」をる人たちはたらふく肉食っtゲフンゲフン


 もちろん凡人からすれば、そんなマネをしようだなんて、到底思ったりできないだろう。

 ゆえに〝あいつらストロングすぎくね?〟的な意味で、お坊さんはけいを集めたものであり、そのせいで権力が生じて妙な事になっていったが、それはまた別の話。

 なんにしても、〝執着しない〟ゆえに「」という理念の宗教は世界的に珍しく、神を設定しないという「たん」、かつ全てを許容する「本物モノホン」とも言えよう。

 ただし、全てが許容されるゆえに自由度があまりに高すぎて、何をどうしたらいいのかわからない、という人が続出することは予想される。

 そういう人たちのために、もしかしたら『法華経』は用意されたのかもしれない。


   📍執着を捨てるという概念の難解さ


 ところで、なかなかユニークないつも聞かれる。

 〝「自身の得た答えを世間に広めるべきか」と22日間閉じこもって考えた挙句、「いやそれはムダだ」と結論して胸の内に収めようとしたところ、周囲の者に食い下がられて「しぶしぶ起こした」のが仏教〟との話だ。

 これはべつに、実際に食い下がったわけではなく、彼の関与しないところで勝手にでっちあげたのかもわからない。

 ともかく、しゃが自分で教典スクリプチャーを執筆しなかったのは、そういう事かと。

 つまり彼的には、〝どうせかいしないからヴァカにこのおしえをくな〟との主張ではないかと(

 その挙句、現状の新興宗教とかが完全に、寓話フェイブル方面へと傾倒してるのを見るとvaゲフンゲフン


 ま、どーせしゃの事だし、〝ほーらムダだったろ〟ってあいつケラケラ笑ってるに違いないんだチクショウ(

 新興宗教とかにもたぶんとんちゃくしてないよね、きっとガチでじんもイラついてないんだろね。

 ぼくらはまーとりあえず、『スジャータ』落とし込んだコーヒーでもすすりながらち着きましょか(


   📍説に対する態度


 さて、以上の説明を聞いて、「仏教というたいせつ」についてどのように感じただろうか。

 以前からのいんしょうと相違ないものだった場合にはもちろん、特にコメントは無い。

 しかしそうでなかったとしたら、「なぜそのように食い違ったか」という点について是非検証をしてみてほしい。

 「決め付け」という理由にはすぐ行き当たる、とは容易に想像されるが、それ以外にも興味深い理由がちらほら見つかることだろう。

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