4-2-2.知能差とコミュニケーション

📖この節では、次の項目について説明する。

  【IQアイキューしょうへき

   🖈解像度差がもたらす障壁

   🖈伝達困難に対する態度

   🖈IQにばらつきを持たせるという生存戦略

  【コミュニケーションのうりょく

   🖈コミュニケーションはじっせんあるのみ

   🖈静的文コミュニケーションにおける不安

  【コミュニケーションしょうがい

   🖈〝コミュ障〟は「コミュニケーションしょうがい」ではない

  【EQイーキュー



      †



📕【IQアイキューしょうへき

 〈IQ差に起因するコミュニケーション上での障害〉の意。


 前節〖4-2-1.知能の正体〗において、IQによって「意の粒度」が変わる、ということを述べた。

 当節はその続きであるので、まずは前節を踏まえられたい。


 ともあれ、この「意の粒度」の差に起因して、両者間では会話が成立しなくなってくるもの。

 この事について説明をしていく。


   📍解像度差がもたらす障壁


 まずもって、ぼくらは基本的に「」。

 だから〈紫一面🟪〉にしか見えない物から、〈赤青メッシュ🟥🟦〉に辿たどりつくのは、非常に困難なわざだという事になる。

 もちろんそのような想像を、どうにか試行するだけは可能かもしれない。

 しかしこの場合、さらに〈赤青紫メッシュ🟥🟦🟪〉である事や、〈単純なパターンではないもの🟪🟥🟦🟪🟪🟥🟦🟪〉である事などが、あるいは見た目のとおりに〈紫一面🟪〉である事までもが想定されるはず。

 つまり高解像度での実態を、低解像度の光景から推測するのは、きわめて困難なのだ。

 苦労して想像をしても、その結果があやふやな判定にしかならないのであれば、そんな事はする気も起きないに違いない。


 一方で、最初から〈赤青メッシュ🟥🟦〉が見えている場合には、それを材料として〝混ぜて見れば〈紫一面🟪〉にも見えるかもしれない〟と、想像することは何とかできるだろう。

 〈紫一面🟪〉から〈赤青メッシュ🟥🟦〉を浮かべるのが困難で、その逆が比較的容易。

 だとすれば、IQ差のある者らが会話を成立させるには、高IQ側の人が「譲歩」「きょう」をするのが、ほぼゆいいつの解法だという事になる。


 とはいえそのきょうとは、自分には明確に感じられている違いを、意識的に握りつぶす事なのだ。

 つまり、〈紫一面🟪〉に見えるときと同様、〈赤青メッシュ🟥🟦〉に見えるものだって基本的には、〈赤青メッシュ🟥🟦〉としか思えないもの。

 だから〝混ぜて見れば〈紫一面🟪〉にも見えるかも〟のような想像をめぐらすのも、単純に疲れる。

 もちろん違いを握りつぶすことで、判断には当たり前にが生じてくるのだから、そうするには不安がきまとうし、抵抗も感じる。

 すると当然、高IQ側の人にも〝譲るなんていやだ〟という感情が発生してくるし、ついでに〝何でこれが〈紫一面🟪〉に見えるんだよ〟という怒りすらもが生じてしまう。


 しかしながら低IQ側の人としても、〈紫一面🟪〉に見えるのはなのだ。

 たとえそれが〝〈赤青メッシュ🟥🟦〉なのだ〟と説明されたとしても、


  • 〝〈赤青メッシュ🟥🟦〉だ〟と説明を受けた画像ⓑ

   🟪🟪🟪🟪

   🟪🟪🟪🟪


  • なんの説明も受けていない画像Ⓒ

   🟪🟪🟪🟪

   🟪🟪🟪🟪


そんな説明は受けようが受けまいが結局、感じ取れるものに変化は無いわけである。


 ではこれらを厳格に区別する、意義を必要性を、感じれるだろうか。

 感じれなかったとして、それはけているからなのか。

 きっと違うだろう、自分の感覚にしたがって、しんにそう判断したはずだ。

 なのにこれをめ立てられてしまっては、〝に言ってるのに、どうしてそんなに怒られなきゃいけないんだ〟と、不当を感じるに決まっている。

 そうやって、両者に悪意などまったく無かったのにもかかわらず、けんに発展してしまうのだ。


 つまり、「IQ」というものが、存在するのである。

 認識とは感覚的なものである以上、色覚のない相手に〈紫🟪〉を伝えることができないのと、同列の話になってくるのだ。


   📍伝達困難に対する態度


 こういった感覚のからくる衝突を回避するには、互いに「けい」を持ち合うしか無い。

 双方あらかじめ、いつでも衝突は起こりうる事をよく認識して、事を荒立てないように配慮しなければいけないわけである。

 これは姿勢の話であるから、IQはもはや関係ない。


 要はIQとは、上下関係や勝ち負けを決定するものではなく、自身の行動指針を決定するためにわきまえるもの、と言える。

 まあ、そういう心構えをしないなら、それは最初から「話をする気など無かった」という事であるから、そういう人は勝手にすればいいだろう(

 ただし、そのせいで相手から絶交をされても、それは勝手をしたほうの責任だとしか言えない。


   📍IQにばらつきを持たせるという生存戦略


 ところで、そんな意見の合わない人と仲良くする必要があるのか、そんなふうにも感じられるかもしれない。

 確かに「高IQの特徴は思考力が高いことだ」とはすでに述べたし、一見そちらが主導に立ったほうが断然いいようにも思える。


 しかし判断材料をより多く得れるぶん、それらをいちいち検証せずにはいれなくなり、それだけ判断速度は当然のように下がるのだ。

 つまり、


  •  低IQとはじんそく性において優れるもの


と言えるのである。

 たとえばIQで圧倒的に劣るはずのこんちゅうに、ぼくらは判断速度では絶対にかなわないだろう。

 そしてその、超低IQなこんちゅうらだってふつうに暮らしているのだから、世の事柄はそう高度に判断しなくとも構わないものが大半、と言えるわけだ。

 高IQの人でもよく勘違いする事なのだが、ゆえに低IQだからといって、必ずしも劣ると判定できるものではないのである。


 たとえば自動車の運転中、予期せぬ飛び出しや暴走車に遭遇したとき、瞬間的にそれを回避することは、より多くの判断をついかさねがちであるほうが苦手なはず。

 もちろんそれは物理事故のみならず、社会問題などの処理でも同様で、熟考をかさねるほど正確性が増す代わりに、対応は遅れてしまう。

 要はそれぞれ異なる分野できる特性があるわけで、それらがみ合ってこそ物事はうまく運ぶのである。

 なのにけんを起こしてしまっては、適切な分担もできなくなるから、関係は良好に保っておいたほうがいい、というわけだ。

 断定する、害悪とは性能うんぬんではなく、けんだ。



      †



📕【コミュニケーションのうりょく

 〈意思つう上で発生しうる障害をうまくなす能力〉の意。


 を避けようとするなら自然、「言いたい事は小出しにして、出したものが相手にちゃんと届いているかを都度うかがう」という事が、会話をしていくうえで重要になってくる。

 これは時と場合、相手の性格やコンディションなどによって、取るべき手段が千差万別してくるため、「こうすればよい」という方法はいっさい定義できない。

 〝大まかにはこれでオッケー〟という手法はよく語られているが、いつ来るとも知れないレアケースでは至極あっさり、それが完全に裏目に出たりもする。

 それを回避するには、相手の様子をよくうかがったうえで、判断をしていくしか無い。


   📍コミュニケーションはじっせんあるのみ


 この能力をばすためには、ただじっせんあるのみだ。


 なお、対面のほうがりや表情など、訴えや観察の手段が多いため、チャットなどの文字通信にくらべて実は、難易度が低い。

 ゆえに会話に不慣れと思う人ほど、むしろオススメである。

 たとえば手振りによって言葉のいんしょうを増したりできるほか、話題に詰まったときなどに決まったモーションを見せることで、言外から困惑などの感情を伝えることも可能だ。

 そのようなくだはやはり、じっせんを繰り返すことによって身につくもの。

 また、相手にも会話の意思があるかぎり、発信に失敗してしまったとしても、意図をもうとしてもらえるはずだ。

 会話に不慣れだったとしても、すこし胸を借りるつもりで接していけばいいだろう。

 そしてんでくれない連中というのは、そもそも話をする気が無い、健全な関係なんか築きようのない連中なのだから、無理にがんる必要も無い(


   📍静的文コミュニケーションにおける不安


 いま書いているこの文章は、ふつうに一方通行であり、かつ「これでもか」というくらい物を事細かに述べてもいる。

 読み手へちゃんと伝わっているか、退屈させてはいないか、読解に苦労させていないか。

 そういった事はいっさい確認できないため、ひたすら不安は尽きない。

 読むのが正直ツライ、という人が少なからず出ることも予想しているし、しかしこれ以上かみくだくのもまた難しいため、それについて申し訳なくも思う。

 しかしそれでも、まずは語ってみなければ、どうにもならないものである。



      †



📕【コミュニケーションしょうがい

 〈訓練をかさねても意思つう能力が向上しないせいちょうしょうがい〉の意。


 先天しっかんや適応しょうがいなどの、本人には努力できない要素に邪魔されて、コミュニケーションが上達できないものをそう呼ぶもの。

 そういったものには当然、医師やカウンセラーなど、専門家による指導が必要になる。

 逆に、不慣れでしゃべれないのは、単に不慣れなだけだ。

 たとえは楽器に不慣れな人が、楽器をうまく操れないのは当然のことで、それを「演奏しょうがい」とは呼ばない。

 つまりじっせんである。


 そして余談、ぼくは歯並びが大変悪く、また大変不器用で、かつ両手の小指にも多少のけいがみられ、楽器を扱うに大きな支障があるため、たぶん「演奏しょうがい」である( 

 ギターとか〝「Fコード」が難関〟とはわれてるけど、1ヶ月みっちりやってっとも基本的な「Cコード」すらまともに鳴らせなかった時点でもうダメじゃろ (

 そしてサックス吹こうとしただけで流血とかもうイヤじゃ(

 。・゚・(ノД`)・゚・。


   📍〝コミュ障〟は「コミュニケーションしょうがい」ではない


 なお、その単なる会話初心者を〝コミュ障〟とすぐ呼ばわる人がいるが、これは不当なレッテルりであるわけだ。

 もしそれが〝会話がうまく行かないのは、この自分をちゃんと接待できない相手のせい〟のように考えての事ならば、〝相手だってまったく同じことを思ってるでしょうよ〟と指摘せざるを得ない。

 このように敬意を失した、他責的な考えかたを是とするその感性にこそ、コミュニケーションしょうがいが疑われるものである。

 会話には互いの敬意が必要なのだ。



      †



📕【EQイーキュー

 〈自身や周囲の人らの感情を適切に察知して適切に処理する能力を測る指標〉の意。

 「|Emotional-intelligence《エモーショナル・インテリジェンス》 Quotientクオシェントじょうどうのうすう」の略。


 ごく近年に提唱されたもので、確かにこのような指標も有ったほうが良いとは思われるが、いかんせんまだ若い概念であり、ゆえに確定していない。

 よってIQテストと比べると、EQテストは評価基準も判定結果も、正確な名称すらもがバラバラ。

 まだ全幅の信頼を置ける状況ではなく、落ちつくにはあと50年ほどは掛かる、とぼくは見込んでいる。


 ただもしかしたら、この指標はいずれ「げいじゅつ的センス」をも測れるようになるのではないか、とも個人的には予想する。

 それはIQテストでは不可能だったことで、だから便利ではあろう反面、すこしこわいことでもあるように思う。


 なんにしても、EQもまたIQと同様、脳を起源とするゆえに、体質の部類のものだろうと想像される。

 よって、これらに基づいて差別をはかることは、身体的特徴による差別とも取れるものだ。

 あまりむやみにそので、人の良し悪しを判断すべきではないだろう。

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