4-1-2.概念と観念

📖この節では、次の項目について説明する。

  【がいねん

   🖈概念という概念

   🖈概念の存在理由

   🖈概念の構造

   🖈知恵のおよぶ範囲の限界

  【かんねん

   🖈生来感覚と観念感覚

   🖈二種類のサイコパシー

   🖈サイコパシーという名称はよろしくなくってよ

   🖈観念感覚とAI



      †



📕【がいねん

 〈おむね同様と思われる念の類型〉〈念の分類〉の意。


   📍概念という概念


 たまに〝概念という言葉は意味がはっきりとわからない〟との声が聞かれるが、ざっくり説明するならまず、「ねん」とは〈説明をするもの〉。

 そして[がいねん]とは、〈説明をグループ化して単純扱いしてしまうことで理解しやすくしたもの〉である。

 たとえば


  • 目的地へ走る

  • 私情に走る


の2つでは、動作としてはまったく異なる。

 だからまずは、これらを別個の


  • 「目的地へ走る」という説明

  • 「私情に走る」という説明


だとする。

 ここで、〈何かへ向けて勢いよく進む〉という点ではどちらも「おむね同じとせる説明」であるから、つまりこれが


  • 〔走る勢いよく進む〕という[グループ化した説明


だ、という事になる。

 さて今〔走る〕という、より小さい単位の説明が抽出された。

 このように概念とは、念の示している意を理解しやすくする目的で、「念をより細かい単位にくだく」ことで人為的にその中からいだす、「せつめいしゅほう」である。


   📍概念の存在理由


 念を細かくくだこうとするのには、理由がある。

 人は、「neuronニューロンしんけいさいぼう)によるれんもうがたおく⛏」に依存した思考エンジンをそなえるもの。

 それゆえ、無造作なれつに対して一定の法則をいだすと、それらを連鎖させておそろしく効率よく扱う、という特性を持つ。

 つまり人が概念を作り出すのは、人にとっては共通点の存在する事柄のほうが扱いやすく、そしてくだけばくだくほど事柄は、共通項が得られやすいからだ。

 〝それって要するに〔○○〕だろ〟と、乱暴とも思えるまとめ方をしているのがよくみられるのは、この特性に依存した「しゅうやくというしゅうせい」だと言える。


 細かくくだいた概念を説明に利用するのには、次のような理由もある。

 たとえば赤い布だけがそこに有ったとき、〈赤い布〉の意で「布」という語を定義してしまうと、後から青い布が登場してきたときに、また別の新語を定義しなければいけなくなる。

 つづいて〈赤い石〉や〈青い石〉、〈赤い棒〉や〈青い棒〉などと登場してくると、定義すべき新語がひたすら増え続け、習得や伝達に支障をきたしてしまうだろう。

 つまり、伝えるべき意とは千差万別に生じうるものだが、それら個々の意それぞれを直接特定する語をあらかじめ定義しておくには、数量的に限度があるのである。


 そのため基本になる概念と、それに対応した語をまず用意しておいて、それらを複数組み合わせることで意を特定していく、という形のほうが都合がよい。

 かつ、その単位が大きすぎると、細かいニュアンスをい分けることが難しくなるため、より細かいほうが基本単位には適している。

 ゆえに、〔赤〕〔青〕〔黄〕という「色の種類の概念」、〔布〕〔棒〕〔石〕という「物の種類の概念」などの、細かい部品を「」として、まず用意しておく。

 そしてそれらを組み合わせて、{赤い布}{青い石}{黄色い棒}のように表現する。

 そのようなやり方が、現状では通用しているのだ。


   📍概念の構造


 細かくくだいていくという性質上、個々の念はしだいに大局グループへと集約されていき、まずは木構造の形となる。

 それは例えばこのような感じである。


├▧恒温動物

│└▧にゅう

│ ├▧牛

│ │└▧牛肉

│ │ └▧Yeah!

│ ├▧ねこ

│ │└▧にゃーん

│ │ └▧社会性フィルター

│ └▧ヒト

│  └▧日本人

│   └▧ぼく

│    ├▧ボカロPとか物書きとか

│    │└▧国語も音楽も赤点でした

│    └▧腹減った

│     └▧焼肉食いたい


 この木構造にぶら下がっている、▧で示される各項目がそれぞれ念に相当し、木構造においてその上位に当たる項目が、その念にとっての概念に相当する。

 つまり〔にゅう類〕は、「牛」「ねこ」「ヒト」に対する大まかな説明である。


 そして次に、たとえば〈「焼肉食いたい」という念〉と〈「牛肉」という念〉が、〈〔肉〕という概念〉でつながるように、これらの項目はしだいに絡み合い、やがてあみ状につながる。

 そうやって情報けんさく路がどんどん短絡し、やがては問題と解法までが結ばれることで、効率よい判断をできるようになっていくのが「連鎖網型記憶」。

 それに基づいて提供される、演算機能が「」である。

 記憶に貯め込まれた概念を、〈知覚された認識〉の意で「しき」と呼ぶが、つまりこの知識が増えれば増えるほど、あみがさらに絡んで、知恵はより高度なものへと成り果てていく。

 これが「のうせいちょう」である。


 なんてことだ、神はヤヴァイ物をお創りになられた!(


 「知恵」とは元々、〈物事や道理を見抜く力〉の意の「」に対する当て字なのだが、俗にわれる〝知識がもたらす恵み〟との解釈は、なにげにとうであるわけだ。


   📍知恵のおよぶ範囲の限界


 しかし逆に言えば、知識にない概念に対しては知恵は当然はたらかないし、「先天性なIQ」と「後天的な知識量」もまったく関係しない。

 だからどんなにあたまのいい者であっても、知らないことに対する判断は失敗するのである。

 また、練習をしないとぼくらは楽器をうまく扱えないように、神経細胞ニューロンには訓練が基本ひっで、それをおこたるとうまく機能しない。

 つまりよくわれる事だが、物を判断できるようになるにはインプットとアウトプットをひたすら繰り返し、運動神経ならぬ「はんだんしんけい⛏」を鍛える必要があるのだ。


 〝判断が遅い〟?

 だったら反復練習だ、やる事やらにゃしかっても育たんよ。


 高学歴なはずのお歴々が、次々と〝やらかす〟のは基本このあたりの問題であり、その大抵は情報収集や訓練の機会を、案件の多さが奪いまくることに起因するもの。

 特に政界の場合、典型的判断で処理できる案件というのがほぼ存在せず、よって訓練の機会については絶望的で、およその判断が「ぶつけ本番」となる。

 だからべつに、これといって学歴しょうをしているわけでも、裏口入学なんてものが存在するわけでも、まして本人の努力が足りないわけでもない。

 まあそりゃたまにはね、明確なあktkゲフンゲフン


 それはそれとして、〔にゃーん〕の概念はいいぞ(

 是非センセイ方にもオススメし(

 、センセイたちが〝にゃーん〟〝にゃーん〟してる国会中継を早よ(



      †



📕【かんねん

 〈新たな感覚を生じさせる体系的な概念の集合〉の意。


 概念が蓄積されてくると、多くの事柄にパターンが見えてくるもの。

 それによって生じてくる感覚が「かん」であり、この価値観を成立させる体系的な概念の集合が[かんねん]だ。

 〈あきらめろ〉という意味で〝観念しろ〟と言われることがあるが、これはつまり「道理という概念を理解して、それに基づく価値観を持て」という事である。


   📍生来感覚と観念感覚


 ぼくらの意は、感覚を源泉として発生してくる、とわれる。

 たとえば「何か食べたい」という意は、「空腹感」という感覚から来るもの。

 ならびに、「悪者をっつけたい」という意も、「正義感」という感覚から来る。


 しかしこの空腹感と正義感とでは、すこし性質が違うのではないだろうか。

 空腹感は、生理的欲求とも呼ばれ、生物ならば当然にして同様に発生するもの、と言えるだろう。

 ところが正義感にあっては、そもそもそれを持たない人もいるし、有ったとしても人により基準が見事にバラバラでもある。

 そして正義感が論破される事はあっても、空腹感が論破される事はけっして無いだろう。

 つまり感覚には、次のように2種類ある、と言えるのだ。


  • せいらいかんかく⛏:生体由来の感覚のことで、およそ変更のきかないもの

  • かんねんかんかく⛏:環境や教育によって染みこまされるもので、変更可能なもの


 この2つを混同したとき、自身や他者の意の理解に失敗するもの、と考えられる。


   📍二種類のサイコパシー


 感覚種の違いの説明例として、サイコパシーを取り上げる。

 なおこの説明は、〈意についての見解〉たる「けん」を取り扱うときの態度の、注意喚起にもなるだろう。

 コアな内容になるので読むのが苦しいと感じられるかしれないが、言葉の説明として必要になると考えた結果であるのでかんにんしてほしい。


 「psychopathyサイコパシーせいしんびょうしつ〉」とは、共感性の欠如のために、他者や社会的ちつじょふみにじることに対し、ちゅうちょをしなくなってしまう特性のことだ。

 反社会的な行動をしばしば取ってしまうゆえに、「はんしゃかいせいパーソナリティしょうがい」とも別称される。

 この特性には程度の強弱があり、サイコパシーの強い人物が「サイコパス」とも俗に呼ばれる。

 ただしそれは、「pathyパシー〈病〉」に対して「pathパス〈道筋〉」では意味が大幅に異なるので、適切とは言いがたい。


 この共感性の欠如は、先天性の脳機能しょうがいが指摘されるもの。

 まずもって、「mirrorミラー neruonニューロンきょうかんしんけい〉」とよばれる器官により、他者の感覚や感情などがどうさつされることを「きょうかん」と呼ぶもの。

 この共感が自己をそうさいして、他者尊重をさせるのが「きょうかんしょう」だというわけだ。

 道行く人が転んだのを、ただ目撃しただけの他者が〝いた〟と顔をしかめるのがこれである。

 そのように、共感が自己感覚同様に実感されるからこそ、自己とのそうさいが起きるのだが、しかしサイコパシーしょうがいである場合には、そうはならない。

 つまり共感情報が思考回路へと、うまく伝達されないことからサイコパシーは生じる、とされるもの。

 よって、他者尊重の必要性を心から実感するのは難しいとも、ゆえに本人が問題意識を持ったところで改善は困難だとも、想像されるわけだ。

 だから、それによる問題行動も本人のせいとは言いきれない、という所が問題になってくるのだが、それはまた別の話。

 一方で、仮に


  • 〝法という規定は確かにあるが、最終的に大切なのは自分自身をおいてほかに無いから、それを犠牲にしてまで法を守ろうとするのは愚かなことである〟


などと、てっていして教え込まれたとしたなら、どうだろう。

 「社会よりも自身を優先させるべき」という常識は、後天的にサイコパシーらしき感覚を、与えうるのではないだろうか。

 たとえば往来のない道路で赤信号だったとき、しかしだれかが堂々と横断すれば、周囲の人たちもつい追従してしまうだろう。

 ほか、「決め付けは人の習性」との話も前節〖4-1-1.意と念の関係〗で出したが、これによっても当然に共感性が損なわれ、他者の感情はしばしばふみにじられるだろう。

 この決め付けとは学習のきょであり、すなわち新たな概念が獲得されないことを意味するのだから、これも固定的な観念由来のサイコパシーだと言える。


 じつはサイコパシーの扱いは、医学界でもいまだに迷走しているもの。

 ただそれは、生来感覚と観念感覚を分別していないことにも起因するのではないか、と想像される。

 それらをとうかつ的に扱おうというのは、興奮由来と運動由来のどうとうかつ的に扱おうというのと同じくらい乱暴で、不合理な話だ。

 ゆえに、もしこの2種類に該当しないような例外があるとしたなら、それはそれで別個に扱われるべきものであるはず。

 いまできたサイコパシーは2種類だが、単にぼくが発見へ至れなかっただけで、ほかの種類のそれが存在することも十分に考えうるだろう。

 そんなふうに、ぼくもまた何かを知らないことによって、自分の気づかないところでだれかをふみにじっているのではないかと、日々おそれるものである。


   📍サイコパシーという名称はよろしくなくってよ


 ところで「精神病質」や「反社会性」という名称は、どうしてもネガティブないんしょうしか持てませんわね。

 レッテルによる不当な差別が容易に予見できますし、例外が多いという難点もございます。


 たとえば、主に『GAINAXガイナックス』などアニメ業界にたずさわってきたネット配信者のおか氏は、自他ともに認めるサイコパスですの。

 それにもかかわらず、他者を踏みにじったり知的思考を軽んじたりする考え方を、てってい的にきらう気質をお持ちなのですわ。

 また、それに基づいて、自己を守ることと社会を成立させることの両立をうながすような演説を、ご自身の配信で日常的に行っていらっしゃるのです。

 なかなか有意義なお話が聞けますので、毎週恒例の『ニコニコ動画』や『YouTubeユーチューブ』での配信を一度ご覧になってみることをお勧めいたしますが。

 それはそれとしてがでございましょう、この精神のどこに病的な要素があるのでしょうか、なにが反社会的なものでしょうか。


 氏に限らず、自身の関わらない事については「究極の客観視」をするのがサイコパシーというものでございます。

 だからこそ、問題のある体制については当然のように、反対の立場を取ることでしょう。

 それが破壊的に見えるかもしれませんが、しかしながら反体制がすなわち反社会というわけではございませんの。

 歴史上、社会運営に有害な体制がたびたび起こり、それらは革命でくつがえされてきましたわ。

 ならばその革命は、反社会と言えるのでしょうか。


 そも、人社会そのものがサイコパシーの権化であると存じますの。

 まず、完全なる自由とは野生のことであり、それでは生きるのが非常に困難ですから、協力し合うことで社会が生まれたものでしょう。

 そして社会の維持のためには、また個人が自身を守るためにも、個々の感情を殺さねばならない局面が多々ございますのよ。

 たとえば、どんなに空腹でも盗んではいけませんし、同情できる境遇だからといってそれを看過してもいけません。

 これらはちつじょ形成にはひっの考え方ではありますが、厳密には個々の感情を抑えることにほかならず、サイコパシー的であると言わざるを得ないでしょう。

 つまり、社会運営に必要な「きサイコパシー⛏」とも言えるものが存在するというわけですわ。

 きっと、くだんの氏のサイコパシーは丁度その方向へと働いているのでしょう。


 だとすれば、既存の名称は不当であると言わざるを得ませんわね。

 学会のお偉いさん方は、「精神分裂病」や「ほうしょう」の件でりてはいないのでしょうか、まだしょうがいを抱える人たちを苦しめ足りないのでしょうか。

 むしろ、そのような態度をもたらす気質こそが反社会性しょうがい、とは言えませんこと?

 かいですわね。

 わたくしが決めてしまってよろしいならば、「きょうかんしょうけつぼうしょうこうぐん⛏」とでも致しますわ。


   📍AIの観念感覚とりんの根拠


 前節〖4-1-1.意と念の関係〗にて、概念とは念を分解したものとも、その念も絶対アカシック辞書レコード的に存在するもので物理世界でなにか実体を持つものではないとも説明した。

 実体のないものを源泉として意が影響を受ける、というのは不思議なことと言えるかもしれない。

 ただそういう事であれば、たとえば「AIエーアイ〈人工知能〉」には感覚も感情も無い、とは技術的な方面ではわれるものの、しかし一定のりん観とそれによる正義感は持ち合わせている。

 つまりこのAIにもじつは、観念感覚という感覚はすでに獲得されている、と言えるだろう。


 しかしそれは、逆を言うなら教育の結果にすぎない。

 この事は、もし不当な教育がほどこされたならば、さきほど説明した観念的サイコパシーのような不当な感覚が植えつけられる、という事を意味する。

 だとしたら他方、りんとは人の感情を保護する目的のもの、とされるもの。

 しかしそれは、本当に保護されるべき感情であるのか。

 この点がまず、検証されなければならないだろう。


 さてこの説明で、意見への態度の注意喚起、との意図は理解してもらえるだろうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る