1.「意」

意と念の関係

 この節では、次の項目について説明する。

  • 【

  • 【ねん

  • 【がいねん

  • 【

  • 【れん



      †



 〈人の思う事柄〉転じて〈人の発した言葉〉さらに転じて〈言葉の意味〉の意。

 [おもい][こころもり][おぼえ]と書いて同義。


 人の思考に存在するものだが、それはきわめて「抽象的な何か」であり、それ単体では何だかよくわからないため、ぼくらは「ねん」や「がいねん」によってそれを説明づける。



      †



ねん

 〈特定の意をよくおぼえておくこと〉〈意のあくや認識をすること〉転じて〈意の内包する事柄を説明するもの〉の意。

 [しき]と書いて同義。


 本来、〔念〕の字義は挙げたとおり〈特定の意をよくおぼえておくこと〉。

 が、ここでは説明をくだくため、少しそれを的にじ曲げて、〈意を説明するもの〉とかいすことにする。


 意と念は、似通ったもので混同されがちではある。

 ただ、念が説明である以上は論理的、絶対アカシック辞書レコード的に存在するものであり、物理世界でなにか実体を持って存在するわけではない。

 一方で、意については人の思考上で現に発生し、そこで何らかのスペースを占有している多少物質寄りな存在、という違いが有る。

 ちなみにITの分野では、この念に相当するものを「classクラスかた)」、意に相当するものを「instanceインスタンスじったい)」と呼ぶが、念とは意が発生した後にそれを解釈して意識するものであるため、〝未知の定義されていないクラスに属するインスタンス〟が発生し得る。


 意の説明の類型としては、次のようなものが存在する。


  • しき:自身が主体となる意識

    ◦かんじゅ:〝われは、こう感じる〟

    ◦よっきゅう:〝われは、こうたい〟


  • しき:自身から隔絶した意識

    ◦かんさつ:〝これは、こう成っている〟

    ◦ねん:〝それは、こう成っているかもしれない〟

    ◦おく:〝あれは、こう成っていた〟

    ◦すいろん:〝もし機序をこうすれば、ああ成るはずだ〟


  • かっとうしき:複数の意識が衝突している状態

    ◦めいわく:〝どれを、どうしよう〟


 ここで、「自意識寄りの念を読者に与える」物語のほうが、どうやら人気は出やすい。


 まず、自意識的な念があれば生物としての思考はほぼ成立するから、通常はそちらにかたよって思考するゆえに、慣れているもの。

 一方で、他意識的な念はほかの動物もあまり行なわず、だからおよそ不慣れで、そのぶん脳は疲れる。

 そして人の頭脳は、鬼のようにエネルギーを食う器官。

 基礎代謝量だけで比べれば、その消費量は筋肉の十倍以上と、尋常なものではないことが知られたもの。

 しかし、慣れた思考をする場合では逆に、筋肉以下に落ち込むこともまた、知られている。

 それは、情報整理などの雑どうこなしている待機時にくらべ、慣れた作業に専念する場合ではほとんどエネルギーを要しないため、と考えられる。

 つまり簡単な作業にいそしんでいたほうが、何もしていないより疲れないわけだ。

 また、体力のおとろえた老人のすいみん時間が短くなりがちなのも、そのためだと考えられるわけである。


 とすれば、なんの刺激もない状態でじっと待つのが苦痛なのは、それが理由か。

 脳どう削減によるしょうもう抑制こそ、娯楽が求められる理由か。

 いわゆる〝頭カラッポにする〟とはそういう事かと、推定されるのだ。


 〝娯楽とは人が生きる上では必ずしも必要のない物〟?

 それはどうかな?


 なんにしても人は娯楽から、疲労なんてものを得たくはないだろう。

 ちなみに挙げた項目は、「より疲れないだろう順」に並べたつもりなので、執筆の参考にされたい。

 それぞれの例示の先頭を見ると、ちょうど「」という言葉のとおりに並んでいる事がうかがえるが、それらより前に「」、「」の前に「」が加わるわけだ。

 その「」こと、迷惑とはヤヴァいレヴェル()で疲れるもので、これはかっとう状態におちいったならその解決のために、脳が全力どうするからである。

 連続して悩まされると明らかにやつれるのは、エネルギーを大量にしょうもうさせられるからだ。

 そしてその大抵は、疲れ果てることで〝どうでもよくなる〟もので、これを「だんねんてる、すたれる)」と呼ぶ。

 逆に、疑問がすべて解決して事が明らかとなり、それにより執着が消失する事を「ていかんあきらめる=あきらめる)」と呼ぶ。

 なお「あきらめる」ということばが真逆の〈断念する〉の意で通用しているのは、〝それであきらめたという事にしろ〟のような言い回しから誤解されたものと思われる。

 そもそも{⿰言帝}のような御大層な姿をしている字の意味が、そんな情けないものであるはずは無い。


 ところで、あまりストレスフリーにしすぎても、ぼくらは興味をそうしつさせる。

 問題解決を経てていかんに達したとき、あるいは達しそうだと見込まれたとき、人は「AHAアハたいけん」とよばれるそうかい感を感じるもの。

 そのそうかい感は、課題からより強くストレスを受けるほどより強まるため、このほうしゅうを得れるかどうかが、興味の発生動機として大きいのである。

 そうだ、たいのあの〝読める、読めるぞ!〟も、AHAアハ体験が起こっているのだ!(


 ところが受け手の問題解決能力、すなわち「IQアイキューのうすう)」のによって、慣れている思考レベル、適切なストレス加減が変動するため、そのさじ加減はきわめて難しい。

 たとえば面白いと思う物を、インテリから〝くだらない〟と否定され、〝アイツは人間味のないめた奴だ〟と嘆かれる例が、よく聞かれるだろう。

 しかしこれは、単にストレス加減が合わなかったというだけで、別にインテリが娯楽に興じないわけではないのだ。

 この事から、〝人と人はIQに差が有ると日常会話が成立しない〟とわれる。

 IQについては、次節『意の粒度』で解説する。


 ちなみに当然、許容できるストレス加減は、体調によっても変動する。

 判断をになう頭脳が、飽くまでいち体器官であるからだ。

 そして人が余暇においてすら、疲れ果てている場合が多い現状では、込み入った話題は受け入れられづらい事が想像される。

 逆に言えば、興味を持って読み始めたはずなのに読み疲れてしまった、という場合には体調を万全に整えてから再読するといい、それはきっと面白いぞ。


 なお、〝自分はあの人にこう思われているのではないか〟とじょうに意識することが、俗に「しきじょう」とわれるもの。

 しかしこの意識は「ねん」であって、つまり他意識に属するものだから、「しきじょう」と呼ぶのがとうである。

 自意識とは、自身の感覚や欲求を主体に置く意識のことであるから、それがじょうならば正味「どくぜんしつ」「だい」を指す。

 このような語の誤用もまた、〝自身に過誤など無い〟との独善からくる、決め付けによるもの。

 その「け」という行為がそもそも、〝という事にしたい〟というものであるから、「かんさつ」や「すいろん」ではなく「よっきゅう」、つまり自意識に属する。

 そのように、多くの人が多くの場合、自意識寄りの思考をするもの。

 要はそうやって決め付けが横行するのも単純に、他意識寄りの思考が疲れるせいで、忌避されがちだからだろう。

 それはエネルギーのしょうもうおさえれるものであり、つまり生物としては合理的判断であるから、「けはひとしゅうせい」とも言える。

 言えはしても結局それは、長距離走に耐えかねてせつした人が、完走した人へ向かって〝オレのほうが長い距離を走れる〟とか言い放っているようなものだ。

 〝わけがわからないよ〟とでも返せばいいのだろうか(


 あるいは「りょく」とは、〈脳の⦅フィジカルな⦆体力〉の事であるのかもしれない。



      †



がいねん

 〈おおむね同様と思われる念の類型〉〈念の分類〉の意。


 たまに〝概念という言葉は意味がはっきりとわからない〟との声が聞かれるが、ざっくり説明するならまず、「ねん」とは〈説明をするもの〉。

 そして[がいねん]とは、〈説明をグループ化して単純扱いしてしまう事で理解をしやすくしたもの〉である。

 たとえば


  • 目的地へ走る

  • 私情に走る


の二つでは、動作としては全く異なる。

 だからまずは、これらを別個の


  • 「目的地へ走る」という説明

  • 「私情に走る」という説明


だとする。

 ここで、〈何かへ向けて勢いよく進む〉という点ではどちらも「おおむね同様と思われる説明」であるから、つまりこれが


  • 〔走る勢いよく進む〕という[グループ化した説明


だ、という事になる。

 いま〔走る〕という、より小さい単位の説明が抽出された。

 このように概念とは、念の示している意を理解しやすくする目的で、「念をより細かい単位にくだく」ことで人為的にその中からいだされる、「せつめいしゅほう」である。


 人は、「neuronニューロンしんけいさいぼう)によるれんもうがたおく」に依存した思考エンジンをそなえるもの。

 それゆえ、無造作なれつに対して一定の法則をいだすと、それらを連鎖させておそろしく効率よく扱う、という特性を持つ。

 つまり人が概念を作り出すのは、人にとっては共通点の存在する事柄のほうが扱いやすく、そしてその事柄はくだけばくだくほど、共通項が得られやすいからだ。

 〝それって要するに〔○○〕だろ〟と、乱暴とも思えるまとめ方をしているのがよくみられるのは、この特性に依存した「しゅうやくというしゅうせい」である。


 細かくくだいた概念を説明に利用するのには、次のような理由もある。

 たとえば赤い布だけがそこに有ったとき、〈赤色の布〉の意味で「布」という語を定義してしまうと、後から青い布が登場してきたときに、また別の新語を定義しなければいけなくなる。

 つづいて赤い棒や青い棒、赤い石や青い石などと登場してくると、定義すべき新語がひたすら増え続け、習得や伝達に支障をきたしてしまう。

 つまり、伝えるべき意とは千差万別に生じうるものだが、それら個々の意それぞれを直接特定する語をあらかじめ定義しておくには、数量的に限度があるのである。

 そのため、基本となる概念とそれに対応した語をまず用意しておいて、それらを複数組み合わせることで意を特定していく、という形のほうが都合がよい。

 かつ、その単位が大きすぎると、細かいニュアンスをい分けることが難しくなるため、より細かいほうが基本単位には適している。

 ゆえに現状、〔赤〕〔青〕という色の種類の概念、〔布〕〔棒〕〔石〕という物の種類の概念を用意しておいて、それらを組み合わせて{赤い布}{青い石}のように表現する、というやり方が通用しているのだ。


 細かくくだいていくという性質上、個々の念は次第に大局グループへと集約されていき、木構造をとる形となる。

 それは例えばこのような感じである。


├▧恒温動物

│└▧にゅう

│ ├▧牛

│ │└▧牛肉

│ │ └▧Yeah!

│ ├▧ねこ

│ │└▧にゃーん

│ │ └▧社会性フィルター

│ └▧ヒト

│  └▧日本人

│   └▧ぼく

│    ├▧ボカロPとか物書きとか

│    │└▧国語も音楽も赤点でした

│    └▧腹減った

│     └▧焼肉食いたい


 この木構造にぶら下がっている、▧で示される各項目がそれぞれ念に相当し、木構造においてその上位に当たる項目が、その念にとっての概念に相当する。

 つまり〔にゅう類〕は、「牛」「ねこ」「ヒト」に対する大まかな説明である。


 そして次に、たとえば〈「焼肉食いたい」という念〉と〈「牛肉」という念〉が、〈〔肉〕という概念〉でつながるように、これらの項目は次第に絡み合い、やがてあみ状につながる。

 そうやって情報けんさく路がどんどん短絡し、その果てに問題と解法までが結ばれることで、効率よい判断をできるようになっていくのが「連鎖網型記憶」。

 それに基づいて提供される演算機能が「」である。

 記憶に蓄積される概念を、〈知覚された認識〉の意で「しき」と呼ぶが、つまりこの知識が増えれば増えるほどあみがさらに絡んで、知恵はより高度なものへと成り果てていく。

 これが「のうせいちょう」である。


 なんてことだ、神はヤヴァイ物をお創りになられた!(


 「知恵」とはもともと〈物事や道理を見抜く力〉の意の「」に対する当て字だが、俗にわれる〝知識がもたらす恵み〟との解釈はとうであるわけだ。

 しかし逆に言えば、知識にない概念に対しては知恵は当然はたらかないし、「先天性なIQ」と「後天的な知識量」もまったく関係しない。

 だからどんなにあたまのいい者であっても、知らない事に対する判断は失敗するのである。

 また、練習をしないとぼくらは楽器をうまく扱えないように、神経細胞ニューロンには訓練が基本ひっで、それをおこたるとうまく機能しない。

 つまりよくわれる事だが、物を判断できるようになるにはインプットとアウトプットをひたすら繰り返し、運動神経ならぬ「はんだんしんけい」を鍛える必要がある。


 〝判断が遅い〟?

 だったら反復練習だ、やる事やらにゃしかっても育たんよ。


 高学歴なはずのお歴々が、次々と〝やらかす〟のは基本このあたりの問題であり、その大抵は情報収集や訓練の機会を、案件の多さが奪いまくる事に起因するもの。

 特に政界の場合、典型的判断で処理できる案件というのがほぼ存在せず、よって訓練の機会については絶望的で、およその判断が「ぶつけ本番」となる。

 だから別に、これといって学歴しょうをしているわけでも、裏口入学なんてものが存在するわけでも、まして本人の努力が足りないわけでもない。

 まあそりゃたまにはね、明確なあktkゲフンゲフン


 それはそれとして、〔にゃーん〕の概念はいいぞ(

 是非センセイ方にもオススメし(

 、センセイたちが〝にゃーん〟〝にゃーん〟してる国会中継を早よ(



      †



 〈意に内包された中身の実体〉転じて〈意を説明する概念〉の意。


 思いれ物と見立てたときの中身思いの実体に相当する「ちゅうしょうてきなにか」であり、それでは何なのかよくわからないため、概念を使って説明付けをする。


 なお、たとえば〝偉くなったものだな〟という皮肉などのように、語を解釈した結果の意と、発している意が、一致しない場合も多々ある。

 ゆえに「=⦅食べ物のような⦆じったい」、「=⦅食べ物の味のように⦆じったいからかんれるもの」と、とらえることができるかもしれない。


 なお〔味〕は〈味覚〉〈おいしいところ〉転じて〈肝心なところ〉〈実体〉〈中身〉さらに転じて〈母体〉〈部類〉の意。



      †



れん

 〈意の本質的な部分に触れず本来伝える必要のない装飾的な意味〉の意。


 たとえば


  • そのいんぱくようこんそこよりほっしそのはつすさぜててん


ったとき、しかし伝えるべき意の本質的な部分は


  • ガチギレ


と、カタカナ4文字で表現できるものに過ぎない。

 そして、ほかの「こんぱく」やら「ばくはつ」などの意味は全て、伝える必要性のない[れん]に該当するわけである。


 しかし見てわかるとおり、装飾とは人をきつけ、その影響力を増すもの。

 だから伝える必要性が無いからといって、必ずしも用いる必要性が無いわけではなく、特に創作においてはむしろ最重要に近い。

 が、ともすれば人をせんどうするにもだますにも有用であり、ヘタをすると全部がれんにすぎない言葉も有ったりするため、注意して語り、注意して聴かねばならない。


 なおこのように、〈簡潔に済むはずの記述をあえて長々と引き延ばして強調をする技法〉を「えん」とう。

 これは〈言葉の印象を操作する技法〉こと「しゅう」のひとつであり、[れん]の大半はこの修辞によってもたらされるものある。

 修辞については『語』の章の『語の変形』の節で説明する。

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