意の粒度

 この節では、次の項目について説明する。

  • 【IQアイキュー

  • 【IQアイキュー

  • 【EQイーキュー



      †



IQアイキュー

 〈頭脳の知的能力を測る指標〉の意。

 「Intelligenceインテリジェンス Quotientクオシェントのうすう」の略。


 IQとは、言葉と密接な関わりのある指標。

 つまりIQの違いというものが、「伝達」をしていく上で非常に重要になってくる。

 そもそもIQとは何かと考えたとき、それは「ものごとたいするかいぞう」だとすことができる。

 解像度というと、モニタのドットマトリクスや画像データなどの、その細かさを示すものが想像されるが、これらとほぼ同じ物だという事だ。

 たとえば赤ドットと青ドットとの、メッシュ画像が有るとする。


  • 画像Ⓐ

   🟥🟦🟥🟦🟥🟦🟥🟦

   🟦🟥🟦🟥🟦🟥🟦🟥

   🟥🟦🟥🟦🟥🟦🟥🟦

   🟦🟥🟦🟥🟦🟥🟦🟥


 しかしこれをサイズ縮小してみれば、ドットの色が混ざって紫一面となり、赤か青かが判別できなくなるだろう。


  • 画像Ⓑ

   🟪🟪🟪🟪

   🟪🟪🟪🟪


 すごく乱暴に言ってしまえば、この画像Ⓐが「より高IQの視界」であり、画像Ⓑが「より低IQの視界」である。

 自分には〈Ⓐ🟥🟦〉に見えているものが、より低IQの人には〈Ⓑ🟪〉に見えているかもしれない。

 自分には〈Ⓑ🟪〉に見えているものが、より高IQの人には〈Ⓐ🟥🟦〉に見えているかもしれない。

 そういう事だ。


 なおもちろん、画像はイメージ()として的に例示しているにすぎず、実際には情報のぶんせき精度の話である。

 それは例えば「わかる」ということばを、「分かる」「わかる」「わかる」にくわえて「かる」「かる」「かる」のようにも書き分けるようなたぐいの話だ。

 もちろんIQのによらず、実際にそのように書き分けられていれば、違うものだと認識することは可能だろう。

 〝IQに差があろうが意思つうに問題は生じない〟という説が語られる場合もあるのはそのためだが、しかしこの説の支持者が無視している点がある。

 そのような区別を脳内でもきちんとしていく、という事をするには低IQであるほど「脳の体力」が追いつかず、耐えがたい作業になってくるものなのだ。

 ゆえに負担を軽くするために、「分かる」「わかる」「わかる」「かる」「かる」「かる」を「わかる」に統合せざるを、〈紫一面🟪〉と〈赤青メッシュ🟥🟦〉を同一視せざるを得なくなる。

 かつ、そのようなし思考に慣れてしまうと、そのうち本当に同一にしか感じれなくなるのである。

 〝なるべく平易なことば選びをしろ〟という教訓は、そういう人たちに混乱をもたらさず、脱落させないために存在しているわけだ。


 だが当然、〈紫一面🟪〉の画像と〈赤青メッシュ🟥🟦〉の画像では、扱い方が変わってくるもの。

 つまり物事を細かくれるほうが、判断材料を多く得れるわけで、結果としてIQが高いほうが思考力も高い、という事になろう。

 このように、IQに差があると感覚も思考も違ってくる、すなわち「意の粒度」が変わってくる。

 IQが高ければ高いほど思考は細かくなり、ともなって意も細かくなり、その意を説明づける概念までもがまた細かくなるのである。


 そうしてこの「意の粒度」の差に起因して、両者間では会話が成立しなくなってくるのだ。

 なぜなら基本、ぼくらは「」。

 だから〈紫一面🟪〉にしか見えない物から、〈赤青メッシュ🟥🟦〉に辿たどりつくのは、非常に困難なわざなのである。

 一方で、最初から〈赤青メッシュ🟥🟦〉が見えている場合には、それを材料として〝混ぜて見れば〈紫一面🟪〉にも見えるかもしれない〟と、想像することは何とかできるだろう。

 もちろん〈紫一面🟪〉からだって、〈赤青メッシュ🟥🟦〉を想像することは不可能ではないかもしれない。

 しかしこの場合、さらに〈赤青紫メッシュ🟥🟦🟪〉である事や、〈単純なパターンではないもの🟪🟥🟦🟪🟪🟥🟦🟪〉である事などが、あるいは見た目のとおりに〈紫一面🟪〉である事までもが想定されるはずだ。

 つまり高解像度での実態を、低解像度の光景から推測するのはその逆にくらべて、はるかに困難な事なのである。

 苦労して想像をしても、その結果があやふやな判定にしかならないのであれば、そんな事はする気も起きないだろう。


 〈紫一面🟪〉から〈赤青メッシュ🟥🟦〉を浮かべるのが困難で、その逆が比較的容易。

 だとすれば、IQ差のある者らが会話を成立させるには、高IQ側の人が「譲歩」「きょう」をすることが、ほぼゆいいつの解法となるだろう。

 とはいえ〈紫一面🟪〉に見えるときと同様、〈赤青メッシュ🟥🟦〉に見えるものだって基本的には、〈赤青メッシュ🟥🟦〉としか思えないものだ。

 だから〝混ぜて見れば〈紫一面🟪〉にも見えるかも〟のような想像を、めぐらすにもエネルギーが必要になってくるし、それは単純に疲れる。

 すると当然、高IQ側の人にも〝譲るなんて面倒くさい〟という感情が発生してくるし、ついでに〝何でこれが〈紫一面🟪〉に見えるんだよ〟という怒りすら生んでしまう。

 しかしながら低IQ側の人としても、〈紫一面🟪〉に見えるのはなのだ。

 たとえそれが〝〈赤青メッシュ🟥🟦〉なのだ〟と説明されたとしても、


  • 〝〈赤青メッシュ🟥🟦〉だ〟と説明を受けた画像Ⓑ=ⓑ

   🟪🟪🟪🟪

   🟪🟪🟪🟪


  • なんの説明も受けていない画像Ⓒ

   🟪🟪🟪🟪

   🟪🟪🟪🟪


そんな説明は受けようが受けまいが結局、感じ取れるものに変化は無いわけである。


 ではこれらを、厳格に区別する意義を、いては必要性を、感じれるだろうか。

 感じれなかったとして、それはけているからなのか。

 きっと違うだろう、自分の感覚にしたがって、しんにそう判断したはずだ。

 なのにこれをめ立てられてしまっては、〝に言ってるのに、どうしてそんなに怒られなきゃいけないんだ〟と、不当を感じるに決まっている。

 そうやって、両者に悪意などまったく無かったのにもかかわらず、けんに発展してしまうのだ。


 つまり、「IQ」というものが、存在するのである。

 認識とは感覚的なものである以上、色覚のない相手に〈紫🟪〉を伝えることができないのと、同列の話になってくるのだ。


 こういった感覚のからくる衝突を回避するには、互いに「けい」を持ち合うしか無い。

 双方あらかじめ、いつでも衝突は起こりうる事をよく認識して、事を荒立てないように配慮しなければいけないわけである。

 これは姿勢の話であるから、IQはもはや関係ない。

 要はIQとは、上下関係や勝ち負けを決定するものではなく、自身の行動指針を決定するためにわきまえるもの、と言える。

 まあ、そういう心構えをしないなら、それは最初から「話をする気など無かった」という事であるから、そういう人は勝手にすればいいだろう(

 ただし、そのせいで相手から絶交をされても、それは勝手をしたほうの責任だとしか言えない。


 ところで、そんな意見の合わない人と仲良くする必要があるのか、そんなふうにも感じられるかもしれない。

 確かに「高IQの特徴は思考力が高いことだ」とはすでに述べたし、一見そちらが主導に立ったほうが断然いいようにも思える。

 しかし判断材料が多数得られるだけ、それらをいちいち検証せずにはいれなくなり、そのぶん判断速度は当然のように下がるのだ。

 つまり低IQとはじんそく性において優れるもので、だからIQで圧倒的に劣るはずのこんちゅうに、ぼくらは判断速度では絶対にかなわないのである。

 そしてその、超低IQなこんちゅうらだってふつうに暮らしているのだから、世の事柄はそう高度に判断しなくとも構わないものが大半、と言えるわけだ。

 高IQの人ほど勘違いする事だが、ゆえにIQのである。

 たとえば自動車の運転中、予期せぬ飛び出しや暴走車に遭遇したとき瞬間的にそれを回避することは、より多くの判断をついかさねがちであるほうが苦手なはず。

 要はそれぞれ得意分野があるわけで、なのにけんを起こしてしまっては適切な分担もできなくなるから、関係は良好に保っておいたほうがいい、というわけだ。


 を避けようとするなら自然、「言いたい事は小出しにして、出したものが相手にちゃんと届いているかを都度うかがう」という事が、会話をしていくうえで重要になってくる。

 こういった、〈意思つう上で発生しうる障害をうまくなす能力〉を、「コミュニケーション能力」と呼ぶ。

 これは時と場合、相手の性格やコンディションなどによって、取るべき手段が千差万別してくるため、「こうすればよい」という方法はいっさい定義できない。

 〝大まかにはこれでオッケー〟という手法はよく語られているが、いつ来るとも知れないレアケースでは至極あっさり、それが完全に裏目に出たりもする。

 それを回避するには、相手の様子をよくうかがったうえで判断をしていくしか無く、その能力をばすためには、ただじっせんあるのみだ。


 なお、対面のほうがりや表情など、訴えや観察の手段が多いため、チャットなどの文字通信にくらべて実は、難易度が低い。

 ゆえに会話に不慣れと思う人ほど、むしろオススメである。

 たとえば手振りによって言葉の印象を増したりできるほか、話題に詰まったときなどに決まったモーションを見せることで、言外から困惑などの感情を伝えることも可能だ。

 そのようなくだはやはり、じっせんを繰り返すことによって身につくもの。

 また、相手にも会話の意思があるかぎり、発信に失敗してしまったとしても、意図をもうとしてもらえるはずだ。

 会話に不慣れだったとしても、すこし胸を借りるつもりで接していけばいいだろう。

 そしてんでくれない連中というのは、そもそも話をする気が無い、健全な関係なんか築きようのない連中なのだから、無理にがんる必要も無い(


 ちなみに、そういった練習を経てもいっこうに会話ができるようにならない、という不具を「コミュニケーションしょうがい」と呼ぶ。

 一方で、単に不慣れでしゃべれないのは単に不慣れなだけであり、楽器に不慣れな人が楽器をうまく操れないのは当然のことで、それを「演奏しょうがい」とは呼ばない。

 つまり、単なる会話初心者を〝コミュ障〟とすぐ呼ばわる人がいるが、これは不当なレッテル貼りであるわけだ。

 もしそれが〝会話がうまく行かないのは、この自分をちゃんと接待できない相手のせい〟のように考えての事ならば、〝相手だってまったく同じことを思ってるでしょうよ〟と指摘せざるを得ない。

 このように敬意を失した、他責的な考えかたを是とするその感性にこそ、コミュニケーションしょうがいが疑われるものである。

 会話には互いの敬意が必要なのだ。


 いま書いているこの文章は、ふつうに一方通行であり、かつ「これでもか」と言うくらい事細かに物を述べてもいる。

 読み手へちゃんと伝わっているか、退屈させてはいないか、読解に苦労させていないか。

 そういった事はいっさい確認できないため、ひたすら不安は尽きない。

 読むのが正直ツライ、という人が少なからず出ることも予想しているし、しかしこれ以上かみくだくのもまた難しいため、それについて申し訳なくも思う。

 しかしそれでも、まずは語ってみなければ、どうにもならないものである。


 そして余談、ぼくは歯並びが大変悪く、また大変不器用で、かつ両手の小指にも多少のけいがみられ、楽器を扱うに大きな支障があるため、たぶん「演奏しょうがい」である( 

 ギターとか〝「Fコード」が難関〟とはわれてるけど、1ヶ月みっちりやって最も基本的な「Cコード」すらまともに鳴らせなかった時点でもうダメじゃろ (

 そしてサックス吹こうとしただけで流血とかもうイヤじゃ(

 。・゚・(ノД`)・゚・。



      †



IQアイキュー

 〈IQテストによって測定された知能指数の値〉の意。


 この指数の基準は大別すると、〈実齢と精神年齢の差異を測る指標〉の従来型「知能指数」と、〈同年齢内での差異を測る指標〉の「へん知能指数」に分かれる。

 うち前者は精神年齢を測るゆえに、成年では平均値に収束してしまって実用に耐えないため、現在で「IQ値」とった場合には基本後者のものだと理解してよい。

 そんな感じでIQ値は、テストのされ方やコンディションによって変動するので、ぼくらの知能をそこまで的確に表現できている代物ではない。

 飽くまでその時の状態を、決まった定規で測るにすぎない数値であり、要は「IQは潜在能力ポテンシャル」、「IQ値は成績」という事だ。

 つまり、これから紹介する指数帯ごとでの特性には、IQ値以外の要素も有意に影響するため、〝このIQ値だからこうなのだ〟というような断定的な判断は望ましくない。


 この指数値は、100を中心としたがね状の「せいぶん」として分布するもの。

 当然ながら、100周辺の人数がもっとも多く、高方や低方へ寄るほど反比例的に減っていく。

 一般に、その指数帯によって次のような判定がなされる。


  •  〜69:特に低い (2.2%)

  • 70〜79:低い (6.7%)

  • 80〜89:平均の下 (16.1%)

  • 90〜109:平均 (50%)

  • 110〜119:平均の上 (16.1%)

  • 120〜129:高い (6.7%)

  • 130〜 :特に高い (2.2%)


 なお()内の割合は、全体に対するその指数帯の人数の参考的な割合であり、100を中央として対照になっているのが見てとれる。

 ちなみにIQに限らず、〝統計的判断は、サンプル数が2000程度を超えた場合に、しんぴょう性が出てくる〟ともわれるもの。

 つまり統計とは大局的判断をするために有るもので、だから例えば100人規模のグループでは、このとおりの分布にはならない場合が多々ある。

 また、学力へん値ごとに学校を区分けする場合のように、意識的に選別を行なった場合にも分布は崩れるので、局所的に見るほど参考にできなくなるわけだ。


 人は自身よりも、IQが10くらい上までの思考回路ならば、なんとか理解できる。

 視力検査において、視力の限界を超えてしまって正確にえないマークでも、おぼろげにうかがえる断片情報から実像が推定できるのと、同じような事だ。

 そのため母数のいちばん多いIQ 100よりも10上、すなわち「IQ 110」という事になる。

 ちなみに「思考回路が理解できる」とは、〈正解が出ていない状態では答えるのが難しいが、正解さえ知れればそれに至る思考過程には察しがつく〉ということだ。

 だからそのような正解を自力で出せる人は、〝賢い〟と認識されやすいわけである。


 一方、あまりに微細なマークでは断片情報すら視認できないのと同じように、それを超えてIQが20も離れてしまえば、大人おとな稚児こどもくらいに違ってしまう。

 たとえば『モンティ・ホール問題』という、設題に対する正解があまりに直感的でないパラドックスがある。

 説明が長くなるので、設題の詳細を知りたい場合にはWebウェブけんさくしてほしいが、〝史上最高のIQ〟とされるマリリン・ヴォス・サヴァント氏が最初にその答えを提示したとき、それは世界じゅうの学者から否定され、また強く中傷もされた。

 のちの検証により、その答えは正しかったことが証明されたが、その検証はコンピュータでの乱数試行の統計によって、やっと可能性に気づかれて始まったもの。

 要はその学者らは、彼女の「思考回路が理解できなかった」わけである。

 なお、理解できない領域を測れる定規は発明困難であるため、彼女のIQ値は未知数なのだが、「思考回路が理解できなかった」その学者らの最高IQ値よりも最低20は上、とは推定できる。


 このようにIQに差があると、思考力に歴然とした差が出てしまう。

 このため、たとえば高IQの子供は学校の授業ににつき合っていれなくなり、そのせいで〝態度が悪い〟と悪評をつけられる事もよく有るもの。

 くわえ、思考力が高いゆえに周囲の間違いにすぐ気がついてしまい、それに対してつい正解を指摘してしまいがちにもなるが、これはとてもいやがられる行為でもある。

 そもそも「思考回路が理解できない」意見とは、正しいとは到底思えない代物なのであり、だからこそマリリン氏は盛大に中傷されたわけである。

 つまりIQが高すぎると、周囲からの評価はむしろ下がるのだ。

 〝飛びぬけてIQの高い人たちは、あまり大きな功績をのこさない傾向にある〟ともわれるが、これは大功績には他者の協力が不可欠であるのに、理解されないゆえに支持者が集まらないせいである。

 また、認められないゆえに内向的になりがちであり、〝どうせわかってもらえない〟とのえんせい観をも抱えやすく、功績に魅力を感じなくなって世捨て人にも至る。

 しょかつりょうちゃん()が若いころ引きこもってた原因もそれだ(


 こうなるとIQの高い側が、手加減というか「」をしないかぎり、本当に話が合わない。

 東大入試合格者がちょうど、その平均IQ値が120ほどであるから、もし平均的なIQの人が東大生らと会話できていたなら、それは東大生側が相手を接待しているわけだ。

 もちろん接待とは非常に気をつかう事だから、それなりに利益が見込めなければする気にもならない。

 一方で、IQ 100の人から見ると120以上の人らは、役立ちそうにもない話ばかりを細かく並べ立てる、〝使えない〟人物のように感じられるのである。


 つまりぼくらは、自身より高いIQの相手を、こんな「幼稚」な奴らの相手などしていれるかと、んざりさせてしまいがち。

 また同時に、自身より低いIQの相手へ、子供のころに大人おとなたちの雑談から感じさせられた、あの「尋常でない退屈さ」を与えてしまいがちなのだ。

 そんなわけで、もし〝自身が標準的なIQよりおおきく外れる〟と自覚する作家が、より多くの人気を獲得したいなら、まずは既存の人気作品をよくぶんせきして、「どの程度のストレスが最も受けが良いのか」をあくしなければならない。

 そしてそれと同時に、「自身が楽しめる作品を書いてはいれない」ことを覚悟する必要が有る。

 まあなんだ、つまり創作にかぎらずIQは、高ければ高いほど良いわけでは必ずしもなく。

 中央値100から離れれば離れるほど、人気獲得、ひいては人間関係の構築に不利、って事ですよ。

 なんてこったい右京さん(


 その図式はもちろん、IQ 90と110の間ででも成立する。

 指数帯が100を中央として対照分布する以上、 90の人数は110のそれと同数。

 だから〝賢い〟という事で人気者であるはずの、後者らの作品であっても絶対に、〝わけわかんなくて退屈〟との悪評が、少なからず発生してくる。

 しかし「低IQは高IQが退屈」、「高IQは低IQにへきえき」という図式は、脳の性質からくるものである以上は崩しようが無い。

 ゆえに「すべての人にまんべんなく楽しんでもらえる作品」なんてものも、作りようが無いわけだ。

 なので、そういう悪評は気にしてもかたが無いし、ただし〝退屈〟という感想はごく自然な物だから、これを憎んだりめ立てたりするのもすじ違いなのでよろしくない。

 逆に、〝どうしてこんな低俗な作品が好評を博しているのか〟という疑問を持つ人がいたならば、その人のIQは平均よりもだいぶ高いのかもしれない。

 ただし、「」という事だけは、忘れるべきではないだろう。


 ほか、じつは犯歴のある人のなかでは、IQ 80程度の人の割合が最も高いのだが、それは犯行の何がいけないのかがのかもしれない。

 つまりそれは悪い事だと、知識として知ってはいてもに落ちてはおらず、ゆえに「⦅本来の意味での⦆確信犯」として犯行に及んでいる可能性があるのだ。

 だとしたらそれに、刑罰を与えてそれっきり、という対応となっている現状のシステムは、それで本当にとうなのか。

 なぜダメなのかが理解できない行動に対して、罰だけがただ与えられるのは、単なる虐待でしかないのではないか。

 そういう所も疑問になってくるものだ。


 このようにぼくらは、自身の属する指数帯によって、有利にはたらく「身の振りかた」「物事の受け取りかた」というものが変わってくる。

 よって、正式なIQテストをまだ受けていない人はじゅしんをして、自分のIQがどの程度なのか知っておくことをおすすめする。

 なおこのIQテストには、いくつか種類が有るもの。

 現在のところ、心理学者デイヴィッド・ウェクスラー氏が提唱した『WAISウェイス™』が最もポピュラーであり、これは医療にも用いられている。

 その費用は、心理相談室などでじゅしんする場合には2万円弱ほどが一般的だが、発達しょうがいなどが心配される場合には医療機関にて、保険しんりょうとして3割負担でじゅしんできる。

 ちなみに測定結果としてのIQ値とは違い、IQそのものについては脳といういち体器官の性質、すなわち「体質」に依存するもの。

 よってしょうがいでほぼ一定ともわれており、そうひんぱんにテストを受け直してもさほどIQ値は変動しないと推定され、利点はほぼ無いものと思われる。


 ちなみにIQテストはどれも、その実施に長時間かかるもの。

 つまりTVのクイズ番組でよくみられる、〝この問題が解けたらIQ**〟という系統のアレは、番組スタッフが「で決めている」であるから、しんぴょう性はお察しである(

 ほか、厳密でなくともよければ、次の式で学力へん値からIQの概値を求めることはできる。


  • IQ概値 =(学力へん値 - 50)×1.5 + 100


 これは中央値を50から100に変更して、分布幅を1.5倍に拡大するということ。

 学力へん値60ならIQ 115相当、70ならIQ I30相当という事である。

 ただし学力へん値は、「当時のやる気」「教師のこうせつ」「周囲のがんり度」などで大きく変動するため、飽くまで参考にとどめておくのがよい。

 ……え? ぼくの学力へん値?

 50も無かったんじゃね?(

 あっども、国語も音楽も赤点だったボカロPのアカウントはこちらです(


 一方で『WAISウェイス™』では、主として4項目を厳密なテストで測り、そこからさらに総合的IQ値を導き出す。

 その項目は次のものである。


  • VC(Verbalバーバル Comprehensionコンプレヘンション):言語理解(ことばに対する理解力)

  • PR(Perceptualパーセプチャル Reasoningリーズニング):知覚推理(整理力や推理力)

  • WM(Workingワーキング Memoryメモリー):作業記憶(一度に扱える情報量)

  • PS(Processingプロセッシング Speedスピード):処理速度(回転の速さ)


 通常、いずれの項目も、似たような指数帯に寄った結果になるもの。

 たとえば「VC言語理解」が110なら、「PS処理速度」など他の項目も110周辺であるのが普通だ。

 これが大きくバラつくケースがあり、いずれかの項目間で20以上の開きがみられる場合に、医師は「発達しょうがい」を

 その項目間で、大人おとな稚児こどもくらいの差があるという事だからだ。

 ただそれは疑いの要素の一つというだけであり、ただこれだけをもって確定しんだんが下るわけではない。


 また見てわかるとおり、感覚やじょうちょ、共感性などに関する項目が、いっさい含まれていない。

 そのためこのテストで、すべての指数がいちじるしく低い場合でも、げいじゅつ分野などで高い功績をのこす例がみられる。


 参考までに、ぼくの場合でのしんだん結果を紹介する。


┃【指数値】

┃ • VC(言語理解):116

┃ • PR(知覚推理):132

┃ • WM(作業記憶):100

┃ • PS(処理速度):94

┃ • FIQ(総合):116

┃【挙げられる得意なこと】

┃ • 視覚的な情報を頼りにして課題を遂行すること

┃ • 言葉を用いて、課題を遂行すること

┃ • これまで学習してきたことを基に、物事を推測すること

┃【挙げられる不得意なこと】

┃ • みのない聴覚情報をおぼえて課題を遂行すること

┃ • 一般知能を用いること

┃ • 手順が多い作業である場合、素早く正確に沢山の量を遂行すること


 このように指数値だけでなく、までもが判定され、その後の行動指針として役立てることができるのが知能しんだんだ。

 なおこれは、飽くまで参考と解説のための公開であり、見せびらかすのは基本的にすごく恥ずかしい情報なのであって、けっして自慢のためではない事はくれぐれもご留意願いたい(

 ホントよろしく頼む(


 ともあれ指数を見ていくと、まず思考力自体は「PR知覚推理:132」と、非常に高いのが特徴的。

 反し、作業テーブルの広さが「WM作業記憶:100」と普通であり、おまけに作業の速さが「PS処理速度:94」と平均に劣る。

 これは要するに、「思考力はかなり高いが、しかし非常に遅い」という事だ。

 「大型トラックで運ぶような荷物を、人力車で運ぼうとするようなもの」とも言え、その鈍さは「VC言語理解」「PR知覚推理」がそろって90台である場合とくらべると、圧倒的に深刻だ。

 このせいで、「いろいろすっ飛ばしていきなりかくしんへ到達するにもかかわらず、それを言語化して説明しようとするころには〝もう遅いよ〟となって発言の機をいっする」という事が、しばしば起こってくる。

 明らかに不幸体質だ(


 そして一般に、〝頭が良い〟という評価はその「インテリジェントさ」ではなく、「要領の良クレバーさ」に対してなされるもの。

 その「賢さ」にしても、132という指数値は〝特に高い〟という評価であり、割合的に「100人中で3本の指に入る」という勘定にもなるので、一見優秀なようではある。

 しかしこれは、全世界人口からすれば、より上位の2000万人には劣る、という事だ。

 刺身の上のタンポポにもならない。

 ゆえにぼくは、ぶんせきについてならば少しはきるのかもしれないが、とはいえ自分が〝頭が良い〟と思った事は、一度も無い。


 中途半端に賢いからこそ、自分の「頭の悪さ」がよくわかる。

 もしかしたらIQが120〜140の人らも、ぼくと似たような事を思っているかもしれない。

 頭の良さをIQの高さのみで主張するには、おそらく150以上が必要なのであろう。

 ……と、この流れで〝オレはIQ 200だぜ!〟とか言い始めるスットコドッコイはたぶんかなりIQの低い部類だとおもう(


 最後に、しかし以上は飽くまで基本的なとらえかたであり、くり返すが〝このIQ値だからこうなのだ〟というような断定的な判断は、望ましくない。

 すべての判断は確定すべきでなく、「世におけるすべての誤認は、個々での事情の観察をおこたった部分で起きるもの」と重々承知されたい。



      †



EQイーキュー

 〈自身や周囲の人らの感情を適切に察知して適切に処理する能力を測る指標〉の意。

 「Emotionalエモーショナル-intelligenceインテリジェンス Quotientクオシェントじょうどうのうすう」の略。


 ごく近年に提唱されたもので、確かにこのような指標も有ったほうが良いとは思われるが、いかんせんまだ若い概念であり、ゆえに確定していない。

 よってIQテストと比べると、EQテストは評価基準も判定結果も、正確な名称すらもがバラバラ。

 まだ全幅の信頼を置ける状況ではなく、落ちつくにはあと50年ほどは掛かる、とぼくは見込んでいる。

 ただもしかしたら、この指標はいずれ「げいじゅつ的センス」をも測れるようになるのではないか、とも個人的には予想する。

 それはIQテストでは不可能だったことで、だから便利ではあろう反面、すこしこわいことでもあるように思う。

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