第32話 使節団の帰還

 ぎょうに於ける滞在の予定期間が終了し、使節団一行は帰路の旅支度たびじたくを始めていた。

 滞在を通じて、文官は文官同士、兵士は兵士同士で互いに交流を深め、両国の者たちはすっかり打ち解けていた。


御国おんこくの古代の哲学者があらわしたという数学の書物、是非とも送って下さい。交流を通じてその一端を知り、どうしても全てを読みたくなったのです。測量技術の向上に役立てたいのです。」

 暁の文官の依頼に、ローマの文官が笑顔で応えた。

「勿論です。こちらこそ、頂いた天文の書は気候変化を読む上で大変参考になります。但し、ローマでは当面の間はむやみに開示は出来ませんが…」

「どうしてですか?」

「あの書は、御国の偉大な智慧者である華真様があらわしたものですね。今の我らならば、この内容を全て信じますが、ローはマでは異端とされるものも含まれていますので…。」

「異端…?そんなものがありましたか?」

「この世の天体の全ては、太陽を中心に回っていると書かれている部分です。ローマでは、世界の中心は自分達がいるこの大地であると、全ての学者達が信じています。そう簡単にはくつがえりません。でも我々は、これを読んだ時に眼からうろこが落ちた気がしました。」


「とうとう体術勝負の決着はつかなかったな。お前らは凄いよ。俺達よりも遥かに体格では劣るのに…。良い勉強をさせて貰った。」

「なあに…。俺達も、直接組み合った時の攻撃や防御について学ぶ事が多かった。今迄の暁の連中は、組みつかれたら負け、と考えていた者が多かったからな。」

「今後も定期的に二国での体術試合を開けるように、お互い上に提案しないか。それが出来れば、また会えるしな。」

「良いな、それは。早速にも隊長に話をするよ。」

「それと、あの露摸だ。あのような神の使い、皇帝陛下にお伝えすれば、必ず会いたいと仰るだろうな。心配するな。暁が露摸を決して手放さぬ事は、良く分かっているよ。」


 ローマへの帰還の船は、今回も暁の鉄甲船である。

 使節団の皆は甲板から、暁の者は桟橋さんばしから、互いの無事を願いながら別れを告げた。

 船の甲板の上には、ローマに派遣される炎翔えんしょう胡蝶こちょうの姿もあった。

 珠江しゅこうの港から出港した船は、やがて外洋に出ると、一路ローマを目指して船足を上げた。

 航海が始まって直ぐに、一人の若い航海士が炎翔と胡蝶の前に駆け寄った。

「俺が、お二人の航海中のお世話をします。」

 そう言った航海士は、二人を航海中に滞在する部屋へと案内した。

 案内された部屋は、この船では最上級の夫婦部屋だった。

「何か不自由があれば言って下さい。直ぐに対応しますから。」

 そう言って立ち去る航海士を見送ると、炎翔と胡蝶は顔を見合わせた。

「これは…何かの手違いだろう。なぁに、気にする事はない。直ぐにもう一つ部屋を用意して貰う。今夜は俺は甲板で寝るから、胡蝶はこの部屋でゆっくりやすむと良い。」

 部屋を出ようとする炎翔の手を胡蝶が握った。

「一緒に此処ここにいて下さい。何があっても私を守る、と言って下さったではないですか。これからの長い航海の中、炎翔様はずっと私にひとりぼっちの夜を過ごさせるお積もりなのですか?」


 一月ひとつきの後、ローマの王宮では、皇帝コンスタンティヌスが使節団の帰国報告会に出席していた。

 皇帝の前で敬礼する使節団の横には、暁から献上された極上の絹が山積みとなっていた。

 使節団長のマルクスに対して、コンスタンティヌスは開口一番かいこういちばん尋ねた。

「暁という国。一言ひとことで言えばどのような国だ?」

 皇帝の問いに、マルクスは答えた。

「申し上げたい事は山ほど御座いますが、一言でと問われるならば、思慮深しりょぶかい国です。」

 マルクスの言葉に、コンスタンティヌスは興味深げに眉を上げた。

「ほぅ、思慮深い…。」

「はい。軽挙妄動けいきょもうどうつつしみ、何事についても先の先を考える国です。そして何よりも、いくさを嫌っています。」

 コンスタンティヌスは一度笑みを漏らすと、再びマルクスに問い掛けた。

「それで、ローマに対してもペルシャとの戦を止めるように言って来たのか? その実現の為に、ペルシャの領土を通る暁の絹に対して通行税を払う提案が出て来たのか?」

「その通りで御座います。この件については極めて重要な事ですので、我らの帰還の前に、伝書鳩にて、陛下に内容をお知らせした次第です。」

 するとコンスタンティヌスは、マルクスの顔を覗き込んだ。

「暁の者達は、余が通行税の提案を拒否する事は考えてはいないのか?」

「考えてはいないと推察します。拒否もあり得ると我らが伝えたところ、自分達だけで思い込むのは止めて、ありのままを陛下に報告するようにと言われました。」

 それを聞いたコンスタンティヌスは、帝座で高笑いを発した。

「暁のみかどとその周辺は、よほど目端めはしの利く切れ者揃いらしい。ペルシャとのいくさを収めるだけでなく、どうやって我が帝国の人心を束ねるべきかまで考えているのだな。暁の帝はまだ若いと聞いたが、女達の欲求をどう使うかという事については、お前達より頭がまわるようだな。」

 コンスタンティヌスの言葉を聞いて、マルクスが頭を挙げた。

「それでは…」

「ペルシャに対する通行税支払いの件、お前達からの上申通りに裁可さいかする。」

 皇帝の決定に、その場の一同は一斉に頭を下げた。


 するとコンスタンティヌスは、改めてマルクスの顔を見た。

「伝書鳩での知らせには、もう一つ重要な事柄があったな。暁の軍備についてだ。お前は、今の暁といくさを交えればローマ軍は壊滅すると書き送って来た。それ程に暁の軍事力は強大という事なのか?誰の見立てによるものだ?シドニウスか?」

「暁の持つ最新兵器の威力、使節団の全員が眼にしました。いずれもが、我がローマにはないものでした。背筋が凍るような破壊力でした。しかも、暁国の正規兵は百万を越えるそうです。先にお送りした書簡の記載は、私だけの意見では御座いません。シドニウスは勿論、使節団の全員がそう考えております。」

 それを聞いたコンスタンティヌスは、眉間みけんに皺を寄せた。

「先ほどのお前は、暁はなによりもいくさを嫌っていると申したな。そんな暁が、どうしてそれ程に軍備を充実させておるのだ?」

「侵略の為の軍備と、防衛の為の軍備は、全くの別物だと暁のみかどは言っておりました。国が栄えれば、その富を狙うものも増える。それらの脅威から民達をまもるのは、まつりごとを預かる者の責務だと…。」

 それを聞いたコンスタンティヌスは、少し考えをめぐらせた後に話題を変えた。

「それで…。暁の国の街並みや文化の程度についてはどうであった? お前の耳目じもくくすぐるものはあったか?」

「想像を遥かに越えるものばかりでした。口での報告の前に、先ず陛下のお眼に入れたいものが御座います。」

 そう言ったマルクスは、従者に命ずると、暁から贈られた二巻の絵軸をコンスタンティヌスの前で拡げさせた。

「我らを迎える饗応きょうおううたげで披露された暁の絵です。実際には、この百倍近い大きさで、宴会場の壁に飾られていました。しかもその壁絵は、千枚もの絵皿を組み上げて構成されていました。」

 二枚の絵を覗き込んだコンスタンティヌスが、しばらくしてから、ほぅと小さく感嘆の息を漏らした。

「これは見事な絵だな。絵の中から、描かれた自然の風景が浮き出て来るようだ。こんな画法が暁にはあるのだな。」

「はい。その絵を壁一面に見せられた時には、観た者全員が、壁の向こうに異空間があるように思えました。」

「しかも、これが千枚の絵皿に描かれていたと言ったな。およそ尋常を超えた話で想像が難しいが…」

 その時、コンスタンティヌスの前に、従者が一つの木箱を捧げ持って来た。

「その時に使われた絵皿とは違いますが、同じ技法で焼かれた暁の皿です。絵は付いておりませんが、光沢や手触りはあの時の絵皿と同じです。」

 コンスタンティヌスは、木箱を開けて中に収められていた皿を手に取った。

「何という美しい光沢だ。瑠璃るり色に輝いている。しかもこの手触り。この皿が、此処ここにある絵をまとって千枚も眼前がんぜんに並ぶとは…。余も是非見てみたかった…。」


 コンスタンティヌスの反応を確かめた後に、マルクスが改めて口を開いた。

「この絵を見ても分かるように、暁には極めて優れた文化が確立しています。我が国の女達がこぞって求める絹が、暁で産み出されたのも当然と思いました。街並みや道路の状況についても、今後ローマに於いて試してみたい事が数多く御座いました。」

「ふうむ。では、食事はどうであった?慣れぬ異国の料理に辟易へきえきした者も多かったのではないか?」

「それが…。恐ろしく美味なものが多く、ローマに戻って間もないのに、既にあちらの料理を懐かしむ者が多く出ています。」

 マルクスの言葉に、コンスタンティヌスは意外だという表情を見せた。

「それ程なのか…。しかしこればかりは、実際に味わってみなければ分からぬな…。」

 コンスタンティヌスが嘆息たんそくを吐くと、従者が別の木箱を捧げて前に出て来た。

「今度は何だ?」

 コンスタンティヌスが木箱の蓋を取ると、中には大きな黒い乾物かんぶつが入っていた。

「何だ、これは?」

「干しあわびという暁の高級食材です。我らもうたげの席でこれを使った料理を振る舞われたのですが、まことに至上の味で御座いました。料理の方法を聞いて参りましたので、後ほど王宮の料理長に伝えておきます。」

 それを聞いたコンスタンティヌスは、一度顔をしかめると、両手を頭の後ろで組んだ。

「何なのだ、お前の報告は。いずれもが途轍もなく良い旅を楽しんだという風にしか聴こえぬではないか。余は、お前に楽しい休暇の旅を与えた積もりはなかったのだが…。ならば、お前のらぬ間、余が帝国の内政にどれだけ腐心したか、此処ここで聞かせてやろうか…。」

 拗ねたようなコンスタンティヌスの顔を見たマルクスは、最後にとっておきの報告を言上した。

「そうおっしゃらずに…。最後に極上のお知らせが御座います。皇妃様こうひさまの病弱なご体質。それを改善する技を持った医師を二名、暁から借り受けて参りました。これで御子みこを授かることもできるやもしれません。」

 マルクスの言葉を聞いたコンスタンティヌスは、帝座の肘掛ひじかけに置いた肘を思わず外しかけた。


 炎翔と胡蝶は、離宮にある皇妃の住居に招かれていた。

「あのような異国の卑き者達、お会いになる必要はありません。」

 口々に二人をののしる離宮の者達を見て、皇妃が眉をひそめた。

「あのお二人は、私を救う為に、海を越えてわざわざ来て下さったのですよ。無礼な扱いは決して許しませんよ。」

 皇妃の命令にひざまづいた女達を別室に集めた侍女長が、憎々しげに声を発した。

「皇妃様が何を言われようと、あのような者共、決して受け入れてはなりません。」

 その後、侍女長は厨房におもむくと、料理長に命令を下した。

「異国のあの者達への食事は、今後ずっと離宮の侍女達が運びます。決してこの厨房から直接部屋に持って行かない事。宜しいですね。」


 その日の午後、皇妃は初めての診察を受けた。

 診察は全て胡蝶だけによって行われ、炎翔は最後まで姿を見せなかった。

「どうでしょうか? ローマの医師達からは、今の状態で身籠みごもると私の身体が危険と言われました。それを乗り越えるすべは、あるのでしょうか?」

 皇妃の言葉を聞いた胡蝶は、優しく皇妃の背中を撫でた。

「今迄、ずっとお一人で苦しまれていたのですね。でも、もう大丈夫ですよ。炎翔様が必ず皇妃様をお救いします。ご安心下さい。」

 診察の為、通訳も同席しない中での会話だった。

 しかし皇妃は、自分の言っている事の全てが胡蝶に伝わり、胡蝶から言われた事は全て理解できた気がしていた。


 その日の夕食の時間はとっくに過ぎたが、部屋で待つ炎翔と胡蝶には、いまだに夕食の声は掛からなかった。

「どうしたのだろう?もしや忘れているのか?」

 立ちあがろうとする炎翔を、胡蝶が押し留めた。

「恐らく嫌がらせだと思います。侍女達の顔を見て、直ぐに分かりました。でも無理もないと思います。私達のような異国の者が、いきなり皇妃様のそばに飛び込んで来たのですから…。此処ここで私達が騒げば、さらに多くの敵を作ることになります。」

「しかし、ずっと食事をらないという訳にはいかんぞ。毎日の診察にも差し支えるし…」

 そう言う炎翔に、胡蝶が力強く返答した。

「私は大丈夫ですよ。昔、借金取りから逃げていた時には、山の寺に隠れて三日間飲まず食わずで過ごした事も有りますから。だけど、炎翔様は大丈夫ですか?」

 それを聞いた炎翔も、胡蝶に対して胸を張ってみせた。

「俺だって、元は貧農のせがれだぞ。小さい頃とは言え、ろくに食うものがない生活は経験済みだ。分かった。これは根比こんくらべだな。嫌がらせをしている連中も、ずっと食事を出さない事を繰り返せば、そのうちまずいことになるだろう。しばらく辛抱だな。しかし胡蝶…。辛い思いをさせてしまって済まぬ。」

 胡蝶は、そんな炎翔に向かってしっかりと言葉を返した。

「平気です。炎翔様がそばにいて下さるのなら……。私は何があっても平気です。」

 胡蝶の言葉を聞いた炎翔は、思わず胡蝶を抱き寄せた。

 胡蝶もそれに応えて、炎翔の胸にすがり付いた。

 それから二日後、皇妃直属の女官が、顔色が悪い胡蝶の様子に気付いた。

 そして密かに探りを入れて、炎翔と胡蝶の食事が掃溜はきだめに捨てられているのを見つけた。

 その事を知らされた皇妃は激怒した。

「この事に関与した全ての者は、即刻離宮から追放しなさい。私の為に遠い暁から駆けつけて下さった方々に、何という真似を…。絶対に許しませんよ。」

 皇妃の前には、蒼白そうはくの顔を床にり付け、許しを請う侍女長の姿があった。

 怒りが収まらない皇妃を、胡蝶がなだめた。

「皇妃様、落ち着いて下さい。お身体にさわります。それに先ほどおっしゃった事。そのような事をされれば、私達は更に恨まれます。何とぞ穏便にお収め下さい。」

 その日を境に、炎翔と胡蝶に対する待遇が激変した。

 運ばれてくる豪華な料理を前にして、胡蝶が炎翔に尋ねた。

「このような贅沢な料理を、私達が頂いてしまって良いのでしょうか?第一、これ程の量、一度では食べきれませんし…。」

 そう言って恐縮する胡蝶に、炎翔が答えた。

「気にしなくても良いのだと、女官の皆様から伝えられた。我らが食べ残したものは、下働きの者達に下げ渡されるそうだ。だから無駄になって捨てられる事はない。そう考えれば、気も楽になるのではないか?」


 十日とおかの後、コンスタンティヌスがマルクスを呼び出した。

「皇妃から聞いた。数日間の診察が済んだ後で、鍼治療はりちりょうというものを受け始めたのだが、すこぶる体調が良くなって来たそうだ。お前が呼んだあの二人の医師、本物だったな。」

「本格的に鍼治療を行い始めたと、あの二人からも報告を受けております。」

「そうか。しかし…、あの二人。いつ迄ローマに居てくれるのだ? 今の皇妃は、あの二人に全てを頼り切っておる。このような状態で帰られたりすれば…。」

 そんなコンスタンティヌスに向かって、マルクスが上申した。

「ご心配には及びません。あの二人の医師。皇妃様が御子みこをご出産あそばす迄、ずっと皇妃様に寄り添うと言ってくれております。」

 それを聞いたコンスタンティヌスが、眼を剥いた。

「何だと…。帝国内には、あの二人は人質だと公言する者も多いのだぞ。しかも離宮では、侍女達から理不尽りふじんな仕打ちを受けたと聞いておる、それなのに、そんな事を言ってくれているのか。」

 するとマルクスが、諭すような口調でコンスタンティヌスに告げた。

「あの二人にもそうですが、暁のみかどにも感謝なさいませ。あの二人をローマに送る際に、暁の帝はこう言われていました。『羅馬の皇帝陛下が、永遠の生命いのち宿木やどりぎいつくしまれるのなら、我らは喜んでお手伝いを致します』」

 それを聞いたコンスタンティヌスが、首を傾げた。

「永遠の生命の宿木…? それはどういう意味だ?」

「私にも分かりません。しかし、皇妃様を気遣きづかっての言葉である事に間違いないと思います。あの二人の医師は、御子の出産までは、暁に戻る事はないでしょう。暁の帝からの勅命という後押しもあるのですから…」

 するとコンスタンティヌスは、しばらく黙り込んだ。

 そしてその後に、意を決したようにマルクスに命じた。

「暁と結ぼうとしている協定は、不戦協定だったな。それを友好条約に改めて、即刻にも暁に申し入れよ。それが合意出来た時には、暁から使節団を招け。その際には、お前達が暁で歓待を受けた以上の接遇をせよ。絵画、料理…何でも良い。全てに於いて暁に負けぬように万全を尽くせ。分かっているな。我らは暁には、多くの借りを作っているのだぞ。」

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