第29話 鍼と灸

 五日の後、ラサウスとパンデがいる病室を、通訳司を伴ったマルクスとシドニウスが訪ねて来た。

 見舞に訪れた二人を、病室の前で胡蝶こちょうが迎えた。

「お二人共、もう相当に回復されています。冗談口も言える程ですよ。今は回復治療の最中さなかです。それを見て驚かないで下さいね。身体に悪い事をしている訳ではありませんから。」

 胡蝶の言葉に首をかしげながら、二人は部屋に入った。

 寝台でうつ伏せの姿勢で寝ていた二人は、マルクスとシドニウスの顔を見ると、揃って顔を枕にうずめた。

 それを見た胡蝶が、口元に手を当てて小さく笑った。

「上司のお二人と顔を会わせるのが、きまりが悪いのでしょう。眼を覚まされてからというもの、随分と恥入はじいっておられました。団長や隊長に会わせる顔が無いとおっしゃって…。」

 胡蝶の言葉を耳にしながらも、マルクスとシドニウスの視線は、寝台にうつ伏せとなっている二人のあしに釘付けとなっていた。

 ラサウスとパンデの両脚のふくらはぎには、無数のはりが突き立っていた。

「どうしたのだ、それは…?お前達、痛くは無いのか?」

 あせった顔付きで二人を見つめるマルクスとシドニウスを見て、胡蝶はまた小さく笑った。

鍼治療はりちりょうと言って、弱った体力を回復させる為に一日一度このようにしています。本日はそろそろ良いでしょうから、先生方を呼んで来ますね。」


 胡蝶がその場を離れるのと入れ替わりに、マルクスとシドニウスは寝台の横に立った。

 ラサウスがうつ伏せの姿勢のまま、シドニウスに視線を向けた。

「隊長…。面目次第めんぼくしだいもありません。穴があったら潜り込みたいです。我ら二人、どんな罰でも受ける覚悟は出来ております。」

「今は、そのような事は良い。それよりも手術で切った腹の傷は、もう大丈夫なのか?」

 その問いにパンデが答えた。

「胡蝶様が言っておられました。傷口は完全にふさががっていると…。我らに手術を行った華鳥かちょう様の手技しゅぎ神業かみわざなので、縫った糸を抜いた後は傷跡も殆ど残らないそうです。」

 それを聞いたマルクスは、感心した表情で頭を振った。

「本当にそんな事が出来るのだな。ところで、先程の美しい女性が、お前達の世話をして下さっているのか?」

 マルクスの言葉に、ラサウスが相貌そうぼうを崩した。

「胡蝶様と言う方です。綺麗な人でしょう?しかもとても優しいのです。あの人の看護を受けていられるならば、俺はずっと此処ここに居ても良いです。」

 あラサウスがにやけた顔になったのを見て、シドニウスの怒りが爆発した。

「馬鹿者!お前達は何を仕出かして此処ここにいるのか、もう忘れているのか!マルクス様も俺も、どれ程心配していたか…。そちらには頭は回らんのか!」

 その時入り口の扉が開いて、白衣を身にまとった二人の人物が姿を現した。

医療処いりょうどころの中では、大声は控えて下さい。別の部屋にも患者がいるのです。どうかお静かに。」


 華鳥かちょうの顔を見たシドニウスは、直ぐに姿勢を正すと深々と頭を下げた。

「華鳥様。このたび二人を救って頂いた事、いくら感謝しても足りません。」

 シドニウスの言葉を聞いたマルクスは、直ぐに華鳥に向かって拝礼した。

貴女様あなたさまが華鳥様ですか。使節団長のマルクスです。この度の事、私からも感謝申し上げます。また部下達の愚かな行動で王宮をお騒がせした事、誠に申し訳ありませんでした。」

 マルクスに拝礼を返した華鳥は、改めて二人に向き合った。

「手術後の経過は順調です。手術自体は、それほど難しいものではありませんでしたから。」

 華鳥の言葉に、マルクスとシドニウスは眼をみはった。

「腹を切る治療が、貴女にとっては簡単な事なのですか?」

「腹の中が傷付いていた訳ではなかったですからね。寄生虫を取り除き、その後腹を閉じただけです。マルクス様は、今回の部下の方々の行動を愚行と言われましたが…。確かに愚行には違いなのですが。異国への長い旅が続き、心の抑圧が溜まった事が背景にあるようですね。」

 それを聞いたマルクスとシドニウスが怪訝けげんな顔になった。

「心の抑圧…?」

いまだ行った事のない国を、初めて訪れたのです。慣れない航海を経てようやく陸に上がったと思ったら、今度は大勢の守備兵に囲まれて成都までやって来たのですからね。皆さんの緊張は尋常ではなかったでしょう。特に武官の方々は、守備兵の動きに常に神経をとがらせていたでしょうね。あの歓迎のうたげでその緊張が解放された事で、普段であれば抑制が出来る行動もゆるんでしまったのでしょうね。」


 華鳥がマルクス達と話しているかたわらに、炎翔えんしょうが歩み寄った。

「患者のはりを外します。」

 その声にうなづいた華鳥が、二人に炎翔を紹介した。

「この鍼治療を担当している医師です。腕は保証しますよ。マルクス様達も、連日の交渉で心身共に疲労が蓄積しているでしょう。宜しければ鍼治療と言うものを体験されても良いかもしれませんね。」

 それを聞いて、マルクスとシドニウスの顔に興味深げな表情が宿った。

 寝台にうつ伏せになっている二人の脚に突き立っている鍼の山を見ながら、マルクスが恐る恐る尋ねた。

「この二人にほどこしている治療は、弱った身体を回復させる効果があると、先ほどうかがったのですが…。我々には、どのような効果があるのですか?」

 すると華鳥は、にこりと微笑みながらマルクスに向かい合った。

「連日の会議で、肩や背中がっていませんか?そうであれば、相当に効きますよ。その他…そうですね。腰痛ようつうの持病をお持ちなら、鍼を使う事でかなり痛みが緩和する筈です。」

 それを聞いたマルクスが、思い当たったように顔を挙げた。

「腰痛持ちと言えば、クイントスだな。長く椅子に腰掛けていると、いつも辛そうにしているのを良く見かける…」

 華鳥が、マルクスとシドニウスに鍼の効果を説明している間に、炎翔はうつ伏せのラサウスとパンデのふくらはぎから全ての鍼を取り去った。

 そしてその後、二人のふくらはぎを両手の親指で何度も圧迫した。

「かなり良くなってますね。華鳥様、きゅうはどうしますか?もう一回くらい、やっておきますか?」


 通訳を通じても聞き慣れない言葉に、マルクスとシドニウスは首をひねった。

 かたわらに立つ通訳司も、どう説明したら良いのか戸惑う様子を見せた。

 それを見た華鳥が肩をすくめた。

「言葉では説明し難いですね。炎翔、今日もう一回だけやりましょう。胡蝶にもぐさの準備をして貰ってね。」

 華鳥は、そう言うとマルクス達を振り返った。

「手術の時に使った麻酔にかなり強い薬を処方したので、しばらくの間は頭痛の後遺症こういしょうが出るのです。それを抑える為の治療です。その方法ですが、見て頂いた方が早いですね。」

 もぐさと香炉を手にして戻って来た胡蝶を見て、ラサウスとパンデの顔が引きった。

「またあれをやるんですか?」

 おびえた眼になった二人に、胡蝶が笑いかけた。

「頭痛で寝られない夜を過ごすよりは良いでしょう。小半刻こはんときの辛抱ですよ。頑張って下さいね。」

 寝台の端に腰掛けたラサウスとパンデが、覚悟を決めた様子で上衣を半分下ろすと、胡蝶が二人の両肩の首に近い所にもぐさを山の形に乗せた。

 艾の場所と量を確認した炎翔が、香炉から竹籤たけひごに火をともすと、その火を艾へと移した。

 二人の両肩の艾から小さく煙が上がり、暫くするとラサウスとパンデの額に脂汗が浮きだして来た。

 両眼を見開いて歯を食いしばるラサウスとパンデの顔を、シドニウスが面白そうに眺めた。


 その後、マルクスとシドニウスは、別室の寝台で二人並んでうつ伏せになっていた。

 二人の両肩には、間隔を置いて左右各々に五本程の鍼がほどこされていた。

「何か、肩の内部が熱くなって来たな。これが鍼と言うものの効果か…。」

「しかし、両肩に十本も鍼を刺しているのに、全く痛くは無いですね。」

 感心したような声を挙げたシドニウスの横で、マルクスが小さく欠伸あくびをした。

「痛いどころか、心地よくて眠気を覚えそうだ。」

 それを見たシドニウスは、思い出したように顔に怒りをみなぎらせた。

「ラサウスとパンデのあの二人。こんな心地よい治療を毎日受けていたのか…。しかもあのように美しい医師と看護人がずっと一緒などと…。許せん。回復した時には、どのように罰してやろうか。」

 ぶつぶつと呟くシドニウスは、やがて何か思い付いたように顔を挙げた。

「そうだ、あのきゅうとやらを、これから毎日ずっとえてやるのが良い。脂汗を流して熱さに耐える姿を、兵達全員に見学させてやろう。うむ…良い思い付きだ。」

 そう呟きながら鍼の心地良さに身を任せるシドニウスを見て、マルクスが小さく笑った。

「シドニウス。何やら悪い顔になっているぞ。しかし、この国の医術というのは大したものだな。腹を切る治療を簡単だと、あっさり言ってのけるのだからな。しかもこの鍼と言うものも、あの灸も、今迄見た事が無いものだ。」

 するとシドニウスが、表情を改めてマルクスに顔を向けた。

「それにしても、この国の女性はどうして皆あんなに輝いて見えるでしょうね。華鳥様と言い、胡蝶様と言い、あの耀春様だってそうだ。女神だらけではないですか。」

「ほう、シドニウスは随分と入れ込んでいるのだな。今まで女にはおよそ興味を示した事のないお前が…。そう言えば、あの耀春嬢だがな。華鳥様の娘御むすめごだそうだ。天才の子供というのは、同じように天才に生まれ育つのだな。」

 それを聞いたシドニウスが、マルクスに顔を向け直した。

「本当ですか、それは…。」

「あぁ、本当だ。しかも耀春嬢の父親は、あの宴会料理を取り仕切った国一番の料理人だという。凄い一家だな。」

 うつ伏せに並んだあんマルクスとシドニウスが話をしている中、炎翔と胡蝶が部屋に入って来た。

「もう良い頃合いだと思いますよ。」

 そう言った炎翔がはりを取り去ると、起き上がった二人は肩を回したり首を捻ったりして身体の調子を確かめた。

「これは凄い。見違えるほどに肩が軽い。鍼治療というのは凄いものだな。是非クイントスにも教えてやろう。」

「この鍼と言うものが有れば、ローマの医師でも同じ治療が出来るのでしょうか?」

 マルクスに問われて、胡蝶が言葉を返した。

「直ぐには無理ですね。下手な場所に鍼を打つと、死んでしまう事もあるそうですから。炎翔様も、これまで足掛け四年は修行をされています。でもその甲斐あって、治療出来る患者さんの幅が広がっています。最近では、身体が弱くて子供が望めないと言われていた女性の方に長期に渡って鍼治療を続けた結果、無事赤ちゃんが産まれたのですよ。」

 胡蝶の言葉を聞いたマルクスの表情が、緊迫したものに変わった。

「今、何と言われた…。お願いします。その話もっと詳しくお聞かせ下さい。」


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