第15話 九鍼
絵画処の皆が
「
顔に
「炎翔様なら、自分の小屋に居る筈だけど....」
「一緒に来て欲しいんです。うちの馬がお産なんですが...。難産で体が弱ってるんです。」
それを聞いた胡蝶が、眼の前にいる娘の顔を見返した。
「それで、炎翔様を呼びに来たのですか...?」
「以前に、隣の牧場でも同じことがあって....。それを炎翔さんが救ってくれたんです。父様に、炎翔さんを連れて来てくれと言われて....。それで駆けて来たんです....」
そう言った少女は、庭の
直ぐに扉が開き、炎翔が顔を覗かせた。
「これは....。七奈ではないか?何かあったのか?」
暫(しばら)くの間、少女の話に耳を傾けていた炎翔は、
そして何やら
「ちょっと出掛けてくる。今夜は戻れないかもしれないが、心配しなくても大丈夫だよ。」
少女と共に早足で歩み去る炎翔を見送る胡蝶の横に、
「確かあの娘は、街外れにある牧場の一人娘ね。馬のお産と言ってるのが聞こえて来たけど....。」
首を
「前にちょっとお話した事がありましたね。炎翔様は以前から、馬や牛などの動物の具合が悪いと知らされると、
「それでか....。でも炎翔は獣医ではないのに...」
「炎翔様が針を使って行う治療は、身体の弱った動物達に良く効くらしいんです。私は、実際にその治療の場に立ち会った事は無いですけど....」
華鳥は、記憶を巡らせるような眼で胡蝶を見た。
「『
華鳥の言葉に、今度は胡蝶が首を
「なぜ、その治療方法が
華鳥は、胡蝶の顔を正面から見据えた。
「それはね...その治療法は、とても危険だからよ。」
それを聞いた胡蝶は、思わず両手の拳を胸の前で握り締めた。
い
「
華鳥の言葉に、胡蝶は
「人の身体には『
それを聞いて、胡蝶の眼に浮かぶ疑問の色がさらに濃くなった。
「それはとても素晴らしい治療に思えるのですが…。どうしてその治療法が危険なのでしょうか?」
すると華鳥は、胡蝶に向かって怖い言葉を発した。
「それはね。この治療法は効果があるだけじゃない。その反面、人を死に追いやったり、不随にする事が多いからよ。」
華鳥の言葉に、胡蝶は顔色を失った。
「どうして、そんな事が起こるんですか?」
「治療の効果を
それを聞いた胡蝶は、思わず反論した。
「それは、おかしいと思います。華鳥様の行う手術は、
「その通りよ。でもそれは、どれだけ人殺しと呼ばれようが、その治療の正しさを信念をもって伝えようとした人がいたから…。でも鍼治療の場合には、そこまでの試練には耐えられなかったのかもしれないわね。間違えば人が死んでしまう事に平気でいられる医師はいないものね。自分の心の
華鳥の話に怯えを感じながらも、胡蝶はそれに
「でも....間違わなければ、効果は大きいんでしょう?」
「そうね。でも効くべき壺を的確に見極め、しかも急所を避ける事は、途轍もなく難しい。私が行う手術は、患部を切って傷や病気の場所を直接見る事が出来るけど、鍼治療では、それは出来ないのよ...」
炎翔の行っている鍼治療の危険を教えられて、胡蝶の顔から血の気が引いた。
「でも、華鳥様の手術だって、つい最近迄は禁断の技と言われていたのに…。同じように人を救う為に生み出されて来た医術なのに…。それが人殺し扱いされるなんて…。」
胡蝶のその言葉に、華鳥は鋭く反応した。
「その通りよ。医者は人の命と向き合うんで、一つ間違うと人殺しになりかねない。だから医療というのは誤解も産みやすい。私の場合なら、身体を切るというのは、普通で考えれば命を縮める行為よね。私の行ってる手術を最初に編み出した
翌朝、炎翔はげっそりと
「炎翔様....
胡蝶から慰めるように声を掛けられた炎症は、首を振った。
「いや....助かったよ。母馬も仔馬も元気だ。とにかく、今はひと眠りしたい....」
そう言うと、炎翔は自分の小屋に
やがて小屋の外まで、大きな
その様子を
昼過ぎになって店の
「申し訳ありません。こんな時間まで寝入ってしまって....」
そう言われた潘誕は、炎翔に笑顔を向けた。
「胡蝶から聞いたよ。昨夜は大変だったようだな。気にするな。今日の開店は夕方からだ。店の卓の上にお前の飯が用意してある。昨夜の宴会の残り物を使った
それを聞いた炎翔は、再び潘誕に深く頭を垂れた。
店内の卓に座る炎翔の周りには、潘誕、華鳥、胡蝶が顔を揃えた。
そして全員が、一心に料理に食らいつく炎翔の姿を見守っていた。
「今日の飯は格別に
串焼きに
「良かったですね。母馬も仔馬も元気なんですね....」
「こう言う時の御飯は格別でしょう? ところで、貴方に一つ聞いておきたい事があるの。」
そう言った華鳥は、表情を改めて炎翔の顔を見た。
「どうして
炎翔は碗と
そして、一度丁寧に頭を下げた。
「もっと早くお話しておくべきでしたね。父からの宿題であった
炎翔の言葉を受け取った華鳥が、炎翔を見る視線を強めた。
「人の命? ......でも、今の貴方が向かい合ってるのは、動物達の命でしょう。勿論、馬や牛だって命あるもの。しかも、人の役にたって
そう言われた炎翔は、華鳥ではなく胡蝶に向き直った。
「華鳥様の問いにお答えする前に....。胡蝶。最初にお前に謝りたい。俺は、自分自身の道を見出してもいない前に、お前に偉そうな事を言った。済まなかった。」
突然の炎翔の言葉に、胡蝶が
「何を
そう言う胡蝶の横で、潘誕と華鳥が大きく
胡蝶からそう言われた炎翔は、もう一度頭を下げた。
「だからこそ、
「そんな時、王宮書庫の中で『
そう言って溜息をつく炎翔を華鳥が見詰めた。
「そうよ。医者というのは、神ではない。時には救えない命に向き合う事もある。それは....辛い事よ。」
華鳥は、炎翔が気づいた医者の宿命について語った。
「そういう時の医者は、人が
そう言われた炎翔は、強い眼で華鳥を見返した。
「
炎翔は一度その場を立つと、何冊かの画帳を
「もしやそれは、貴方が書き留めた治療の経緯?」
それに
「これは....。
「はい。触診で大概の壺は見分けられます。」
そう言う炎翔の横で、華鳥は画帳を次々と
「こちらにある
「それは....脚の内部に蓄積された疲労を取るんです。血の巡りが悪い場所には、一本だけではなく、患部一帯に
「それじゃあ、此れは?」
次々に質問を繰り出そうとする華鳥を、潘誕が
「難しい事は後にして、大事な事を聞きたい。」
「お前が
潘誕にそう問われた炎翔は、自信無さ気に下を向いた。
「それは....正直分かりません....。人に試した事は無いんで....。でも基本は
「どんな症状に効くんだ?」
「最も効くのは、身体内部の痛みや
それを聞いた潘誕の顔に、笑顔が浮かんだ。
「そうか....人にも効果があるんだな? 弱った身体の回復というのは、どのような患者のことなのだ? 」
「
それを聞いた潘誕は、不思議そうな顔で炎翔に尋ねた。
「炎翔、お前。
潘誕の問いに、炎翔は決意を
「お産というのは、新たな命を生み出す
華鳥が、感心した眼で炎翔を見詰めた。
「貴方は男なのに....。そこまで考えを巡らせていたのね。」
胡蝶が、炎翔の言った言葉を思い返しながら尋ねた。
「炎翔様は、赤子には
「産まれたばかりの赤子は、母親の体内から外界に出たばかりで、只でさえ大きな変化に
「それでは、
「いや....。産まれた時には息をしていなかった。あの仔馬は、その時にはもう体力が尽きかけていたんだ。」
胡蝶は、炎翔の言葉を聞いて思わず口元を手で
「そんな....。息のない仔馬を、生き返らせたのですか?」
「仔馬が、この世に戻って来るのに、俺はちょっとだけ手を貸しただけだ。」
「それではよく分かりません。どうすれば、そんな事が出来るのです?」
そして、その先は何も答えなかった。
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