第14話 百年像
それを了承した何恭は、耀春の申し出の意図を考えながら、ひと月待った。
何恭は、耀春の申し出について様々な考えを巡らせた。
耀春、まさか何かを掴んだか?
いや、しかし。あのような幼い娘には未だ無理であろうが……。
しかし、ならばどうして、儂はこのように苛つくのか?
いや、あの耀春ならば、もしかすると…。
ひと月待っても耀春から何の動きもない事に、何恭の苛立ちは日々高まっていった。
とうとう
「このひと月の間の耀春は、朝に仕事場の
何恭の苛立った気配を感じた小媛は、思わず身を縮めた。
「いえ....。朝の支度を終えたら直ぐに出掛けているのは今迄通りです。今迄と違うのは、三日置きではなく毎日という事です。夕刻の片付けまでには戻って来ています。
それから五日後の朝、何恭の部屋の外から耀春が声を掛けて来た。
「何恭様。申し訳ございません。
耀春の声を聞いた何恭は、心の内に興奮の騒めきを感じた。
直ぐに部屋から姿を
「
そう尋ねた何恭は、ふと思った。
ほぅ…。これは前に耀春を劉備帝の
「王宮の外には出ません。王宮内にある小山の
二人が辿り着いたのは、小山の
像の上には
像を前にした何恭と耀春の直ぐ後ろで、露摸が
その像を見た何恭は、その場で硬直した。
この像に眼を止めたのか…。
それで、この像から何を感じたのだ?
そう思った時、何恭は耀春に対して、
そして、
「百年像か....。お前は、毎朝ずっと
隣に立つ耀春の視線は、揺らぐ事なく像へと注がれている。
「はい。この像の上に据えられた竹の筒から
「この像は、蜀の王宮が建てられる遥か昔から、
二人の前にあるのは、今にも跳ね出しそうな雰囲気を
像の大きさは、二人の後ろで座る露摸よりも少し小さい。
像の全身は
像の前に立った耀春は、まるで独り言を呟くように言葉を発した。
「この像をずっと
耀春の言葉を聞いて、何恭は耀春がある種の境地を得ている事を察した。
「
すると耀春は、何恭が思うよりも淡々と言葉を発した。
「何恭様のお言葉から、時の積み重ねが思いを凝縮して行くと感じました。この像を最初に観た時、言いようもない何かが私の心に響きました。この像に込められた思いが、私の心に語りかけているのだと思いました。」
耀春は、まるで像に向かって話しかけるように言葉を
「像は世の移り変わりを、
そんな耀春を見て、何恭はごくりと
「それで…何かを描こうと決めたのか?」
「直ぐに筆は取れませんでした。
「では...いつ筆を取る気なのだ?」
「三日前に、像に込められた何かが、私に描くべきものを示してくれた気がしました。像に宿る魂が、横に座る露摸へと乗り移ったように感じました。それから直ぐに、露摸と共に自分の部屋に戻って、絵筆を手にしました。そして昨夜迄かけて一気に描き上げました。この後、何恭様にその絵を御批評頂きたいと思います。その前に、もう一度この像に会いたかったのです。そして何恭様にも、私が何を題材にしたかを、確認して頂きたかったのです。」
耀春の気迫に気圧されるように、何恭は耀春と獅子の像を交互に
そして、横に座る露摸へと眼を移した。
獅子像に込められた多くの者達の心が、露摸に乗り移ったのか…。
それが、耀春へと
そう思った何恭は、全身に痺れるような緊張を覚えた。
数日後の
そこでは志耀が、
志耀が座る所から一段下がった場所に、華真、呂蒙、王平の三人が控えている。
「私に、献上したい絵があると聞いた...。しかも耀春が描いた絵と聞いたので、この三人にも一緒に同席して貰ったのだが...。差し支えはないかな?」
そう問われた何恭は、深く頭を下げた。
「お気遣い恐れ入ります。
そんな何恭を志耀が促した。
「それでは早速、その絵。観せてもらおうか。」
何恭は立ち上がると一度拝礼し、部屋の中央に置かれた木枠に、一本の絵軸を
その絵に眼をやった志耀は思わず息を呑み、じっとそれに見入った。
すると絵軸の横に立った何恭が、静かに声を発した。
「耀春が、初めて写生を止めました。そして
一同の前に
左下には
その絵を前にした皆は、しばし言葉を失ったまま絵を凝視した。
やがて、志耀が強い嘆息と共に声を挙げた。
「
志耀の声に他の三人も一様に
「我が
何恭は、もう一度志耀に拝礼すると、自らの評価を口にした。
「耀春をお預かりしてから、
志耀達が、耀春の絵に見入っていたその頃。
絵画処の廊下では、小媛と季煌が並んで立ち話をしていた。
「ねぇ、季煌。耀春が
「あの絵を、絵軸に貼ったのは俺だからな。手が震えたよ。あの時、本当の絵というものが何かを初めて知った気がした。」
「あの絵を描いてる時の耀春は....そりゃあ怖かったわよ。何かに取り憑かれたような感じで...。同じ部屋にいても、普通ではない気配が耀春の周囲に漂うのを感じたもの。しかもその気配は、耀春の隣にいる露摸から発せられているみたいだった。何度も部屋を逃げ出そうと思ったわ。」
季煌が、まだ細かく震える小媛の肩に手をやった。
「そりゃそうだろう。あの絵は普通の絵じゃないからな。」
肩に置かれた季煌の手を、小媛が握り締めた。
「耀春が絵を描いていた二日間、居ても立ってもいられない気持ちだったわ。耀春ったら、食事にも行こうとしなかったし…。
小媛にそう言われた季煌は、肩を
「あぁ、お前に呼ばれて耀春が絵筆を持つ姿を見た時、
そう言った季煌は、今度は宙を見上げた。
「しかし耀春のあの絵…。
すると小媛は、季煌の
「私達の間に生まれて来る子も、耀春みたいになれるかしら?」
「なに...お前、もしかして.....」
すると小媛は、自分の下腹に季煌の
「耀春みたいな子供が欲しいよね。可愛くて、優しくて、そして才能に溢れた子が....」
絵画処に戻った何恭が仕事場の扉を開けると、そこには多くの絵師達が待ち構えていた。
何恭を見るなり、一人の絵師が尋ねた。
「師匠、どうだったんですか? 耀春の絵を御覧になって、
その場にいる絵師達全員の眼が自分に向けられているのに気付いて、何恭は眼を
「何なのだ、お前達。誰も彼もが、仕事を放り出して…」
「仕事なんて手に付く訳がないでしょう。早く教えてくださいよ。」
緊迫した様子で何恭の言葉を待つ絵師達を見て、何恭は苦笑いした。
「全く、仕方のない
「そんな事言われても…。耀春は、俺達にとっては娘か小さな妹みたいなもんなんですよ。それに何恭様と並ぶ絵の師匠でもあるんです。気になって当然でしょう。」
そうだ、そうだと騒ぐ絵師達を、何恭は手を上げて制した。
「
それを聞いた絵師達の間から、大きな歓声が起こった。
その晩、潘誕の店は、絵画処の貸し切りとなっていた。
「今晩は皆様ゆっくり
一同を
「何を
そんな何恭に向かって、華鳥がもう一度頭を下げた。
「昼に、兄の華真から二つの連絡がありました。耀春の絵に対して、
何恭は苦笑いを見せながら、潘誕と華鳥に言った。
「いや実は。帝からお褒めを賜った事を皆に知らせたところ、仕事場がお祭り騒ぎになり、その後は仕事どころではなくなったのです。いきなり大勢で押しかけて、ご迷惑をかけているのではありますまいか…」
そう言って気遣う何恭に、潘誕が手を振った。
「大丈夫です。店に来られるお客様には、ちゃんと事情をお話しして分かって頂きますから。でも今日は、耀春は店には顔を出さないのですね。」
やや不満気な顔を見せた潘誕に、何恭が言った。
「一つの峠を越えて、
店の外では、胡蝶が、訪れる常連客一人一人に頭を下げながら小さな竹包みを渡していた。
「
「何....絵画処。耀春…。いや、そうか。残念だがそういう事なら仕方ないな。耀春は元気でやってるんだな。絵描きになっているって聞いてたが…。最初に耀春の描いた絵は、是非この店に貼り出して俺たちにも披露して貰いたいな。」
次々とやって来る常連客達は、事情を聞くと、皆が耀春への激励を口にしながら、手土産に渡された雀焼きの包みを手にして立ち去って行った。
そんな店の外の様子を眼にした何恭が、盃を口に運びながら呟いた。
「耀春を連れて来なくて良かったな。連れて来ていれば、皆が店に
そう言う何恭に向かって、華鳥は改めて頭を下げた。
「そうですね....。何恭様を始めとする絵画処の皆様には、本当に感謝しています。でも何恭様...。耀春をこれから甘やかさないで下さいね。一つの絵を
「これは.....手厳しい。言われるまでもなく、今後、耀春にはさらに上の修行を課す積もりではありますが、それを母者様から念押しされるとは...。恐れ入りました。」
絵画処の絵師達は、次々と運ばれて来る料理に夢中になっていた。
「いやぁ…。本当に
「そう言えば、耀春のあの絵だが…。
「何…。瑞兆の間と言えば、
料理が一段落した時、厨房の入り口で胡蝶が華鳥の背中に声を掛けた。
「本当は、私は耀春様にお会いしたかったです。素晴らしい才能を持っていらっしゃるのですね。この店に来てから、未だ一度もお会いしてないので....。」
それを聞いた華鳥が、胡蝶を振り返った。
「会えるわよ。王宮で...。後で話をしようと思ってたんだけど、
その言葉に、胡蝶が眼を見開いた。
「私なんかが、王宮に行ってもお役に立てるとは思えませんが....」
「そんな事はないわ。貴女の助手役の素晴らしさは、私が太鼓判を押すわ。今、医療本処では、ようやく女医を育て始めようとしてるの。そんな女達の世話は、男の人だけでは無理だもんね。だから月に一度でいいから、修行に励む女医の卵達の話し相手になって欲しいって。そう言いながら、貴女に道具出しのコツを教わりたいのが本音らしいけど。」
華鳥言葉を聞いた胡蝶が尻込みをした。
「そんな...。私が人にものを教えるなんて...」
「自信を持ちなさい。貴女が私と一緒に医療所に行き始めてから二年になるのよ。もう一通りどころか、かなり難しい手術の助手も貴女は務めてきたわね。
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