第12話 心を伝えるもの
晩春が過ぎ、日差しが肌に暑く感じられる季節になっていた。
「ねぇ耀春。明日は久し振りのお休みだし、閉じ
小媛に声を掛けられた耀春は、机の前で筆を止めて小媛を振り返った。
「季煌様とお二人だけで行けば良いんじゃないですか?私なんかが一緒じゃ、お邪魔でしょうし…。」
「こら...。まだ小さいくせにませた事を言うんじゃないの...」
小媛は軽く耀春を
「季煌は、最近釣りに
耀春は、机から離れると、縁台に座る小媛の側に歩み寄った。
「しごかれてるなんて...。何恭様は、何かを伝えようとして下さってるんです。でも、私が中々それにお
「もう一年半以上なるよね...。
耀春は、とんでもないといった表情をすると、今度は小さく
「いえ...。いつも何恭様は、早朝から私に付き合って出掛けて下さってるのです。昼前迄、私が何恭様を独占しちゃって、皆さんには申し訳なくて...。」
そう言って身体を縮める耀春の顔を、小媛が覗き込んだ。
「何言ってるのよ。耀春は仕事が終わった後は、私達皆に色んな画法を教えてくれてるじゃない。今じゃ皆がこの部屋には入りきれなくて、仕事場での大授業になってるもんね。」
耀春は、
「そんな...私みたいな者が、授業だなんて...。」
そんな耀春を見て、小媛は微笑んだ。
「
「何恭様が、そんな事を...」
「そう...。だけど、耀春は頑張り過ぎね。だからたまには必要なのよ。気晴らしが....。」
翌日、耀春は季煌と小媛に
季煌は右肩に何本かの釣竿を背負い、左手には
小媛は、両手一杯に風呂敷包みを抱えていた。
「季煌。釣りに行くのに、何でこんな大荷物が必要なのよ?」
不満顔で話しかける小媛を見て、季煌が答えた。
「釣った魚は、その場で喰うのが一番美味いんだ。その荷物は調理道具だ。」
「調理道具って言っても...何でこんなに
不平たらたらの小媛に向かって、季煌は親指をぐいと突き上げた。
「鍋に金串、そして包丁だ。調味料は、耀春が
風呂敷包みを抱え直しながら、小媛がぼそりと呟いた。
「でも、こんなに準備したのに、魚が釣れなかったらどうするのよ?」
その呟きを聞いた季煌が、聞き捨てならないという表情で小媛を振り返った。
「お前、俺の腕を疑ってるな。心配するな。今日の昼には、美味い魚を腹一杯になるまで喰わせてやるぞ。」
そう言って胸を張る季煌の顔を、小媛は疑わしげに見返した。
そんな横で、耀春が小さな声で小媛に告げた。
「大丈夫ですよ。もしもボウズになっちゃった時には、釣り場の近くには
それを聞いた小媛が、不思議そうな顔で耀春を見返した。
「何で、釣り場の
「それが、結構売れるんです。何の
それを聞いた小媛が笑った。
「そういう事か。でも私達の目の前で、季煌が魚を買うかしら?」
くすくす笑いをする二人を、前を行く季煌が
川岸の岩場に到着して荷物を下ろした三人は、早速釣りの準備に取り掛かった。
露摸は、三人から少し離れた水辺で、
季煌が、小媛と耀春を見ながら、川面を指差した。
「川の中のあの岩の周囲を見てみろよ。何匹も魚が跳ねてるだろ。
季煌はそう言いながら腕を
そんな季煌を見て、小媛が尋ねた。
「餌は何を使うの?」
「餌は要らない。魚のいそうな所に
そう言いながら季煌は 釣り糸に幾つもの針を
「ようし、来たぞ。」
季煌が引き上げた竿の針の一つに、青黒い背と銀色の腹を
季煌は手早く糸を
それを観た小媛が、ほっとしたように胸を撫で下ろした。
「これで収穫なしという事にはならなくて済んだわね。魚屋さんの世話にもならなくて済むかもね。でも何で餌が要らないのかしら?」
「この夏魚は、岩の
後ろから耀春にそう言われて、小媛は
「何でそんな事を知ってるの?」
「父様が、この魚を釣っているのを何度も観てましたから...」
その言葉に小媛は納得顔になった。
「そうか。耀春のお父上は料理人だったわね。自分で漁をしてたんだ。」
順調な滑り出しで始まった季煌の釣りだったが、五匹程を釣り上げた後、ぱったりと手応えが無くなった。
焦り始めた季煌の様子を観た耀春が声を掛けた。
「季煌様。今度は私にやらせて下さい。」
首を振りながら岸に上がって来た季煌は、
「川底は滑るから、気をつけるんだよ。」
季煌の注意に
「ほう...耀春の
そう言って様子を見守る季煌の前で、何度目かに振られた耀春の竿が大きく
その瞬間、耀春は竿からの強い抵抗を受けて、前のめりに転びそうになった。
すると、水面から三匹の魚が銀鱗を
「こいつは凄い...‼︎」
糸を
するとまたもや三匹が一度に針に掛かった。
それを見た季煌が呆れたように言った。
「何だ、これは....。耀春、お前は釣りの才能もあるんだな。こんなのは初めて観たぞ。」
すると耀春が、魚を針から外しながら季煌を見上げた。
「父様に言われたことがあります。釣ろう釣ろうと気持が先走ると、その気持が魚に伝わって逃げられるんだって...。それと、この魚を釣る時は、水の中の魚の気配を見極めるのが大事だって言われました。だから魚の気配に眼を凝らしてみたんです。」
耀春の言葉に、季煌は眼を
「気配を見極める...? どうやったら、そんなことが出来るんだい?」
すると耀春は、少し離れた岩場の辺りを指差した。
「この魚は
耀春の指差す川面は、集まった魚影で色が黒く変わっていた。
「
勢い込んだ季煌は、もう一本の竿を手にして立ち上がった。
それを見た耀春が直ぐに声を掛けた。
「それと、もっと簡単に釣る方法もあるって教わりました...。それなら小媛様でも釣れると思います。私もその方法で
「なに...?。耀春、その方法って奴を教えてくれないか...」
それから
季煌は岸辺の岩場に石を組んで
「しかし....こんな方法があったのか....。針と一緒に、釣った魚を生きたまま結んで一緒に投げ入れるなんて....。耀春。父上は、この方法だと
季煌に尋ねられた耀春は、魚を針から外す手を止めて振り返った。
「この魚は、とても縄張り意識が強いんですって。だから仲間以外の魚が、自分達の
「
感心する季煌の横で、小媛が言った。
「でも、こんなに
すると耀春が、直ぐに小媛が持参して来た風呂敷包みを解き始めた。
「調理道具を持って来て良かったですね。今から料理して、食べ切れない分は、
そう言った耀春は、直ぐに
「魚の胴体が波打つように串を打つと、火が均等に回りますよ。」
小媛が横で、耀春の手元を見ながらそれに
その匂いを嗅ぎつけた露摸が、三人の
その姿を見て、季煌が笑った。
「お前は、生で喰うのだと思ったが…。塩を
そう言う季煌に向かって、露摸はふんと鼻を鳴らした。
その夜、絵画処の大部屋では、集まった絵師達が魚料理に
「こんな
目の前に並べられた料理の皿に歓喜する絵師達に向かって、小媛が胸を張った。
「それを料理したのは私よ。みんな、
それを聞いた季煌が、呆れた表情で小媛を見た。
「何を言ってる。この料理の
その時、部屋の扉が開かれ、何恭が姿を現した。
「この騒ぎは何事だ‼︎ お前達の大声が、王宮中に響き渡っておるぞ。警護の者達が来たらどうするのだ‼︎」
すると耀春が、何恭にそっと小さな
「何恭様。今日は、季煌様と小媛様が魚釣りに連れて行って下さいました。此れは、何恭様へのお土産です。きっと
何恭は、眉を潜めたまま壺に指を差し入れ一口舐めると、そのまま部屋を出て行った。
「何だ?どうしたのだ...?」
皆が呆気にとられた表情で座り込んでいると、
その胸には大きな
「耀春。此れは何だ?」
何恭が先ほど耀春に渡された壺を指差した。
その声に耀春が、恐る恐る口を開いた。
「今日獲った魚の内臓を包丁で刻み、酒と
すると何恭は、耀春が今まで見た事もない笑顔を作った。
「このような
何恭の声に、部屋に集まった絵師達が歓声を挙げた。
「師匠。この塩焼もどうぞ。このつけ汁に浸して食うと絶品ですぞ。」
一人の声に誘われて、串の魚を
「何だ、此れは....。魚の香りが更に引き立つ....この緑色のつけ汁は何だ?」
「それは、
次に何恭は、包丁で刻まれたなますの山に眼を
「それは生の魚に細かく包丁を入れて、香辛料を
耀春にそう言われた何恭は、すぐにそれに箸を付けると大きく
次に何恭は、大きな皿に盛られた魚の煮付けに
「それは....魚を
何恭の動きを眼で追った耀春が、すぐに説明を加えた。
全ての料理に箸を付けた何恭は、酒を一口含むと耀春に向き合った。
「これらは全て、お前のお父上の発想から生まれた料理なのか?」
何恭の問いに、耀春はちょっと首を
「全て父様の発想なのかどうかは、私には分かりません。でも...この味は、どれもが私にとっては、忘れられない味です。父様の
何恭は姿勢を正すと、それまでとは違う真剣な表情を見せて耀春に向き合った。
「お前は今日、お前は自分の心に刻み付けられた父の料理を、
耀春も居住まいを正すと、何恭へと向き直った。
「
「それならばお前に問う。お前の父の味と、今作ったお前の味。どちらが本物なのじゃ?」
「それは言うまでもありません。私の料理は、父様の真似事です。」
「では、お前の作ったのは
そう言われた耀春は、思わず何恭を
「父様がいつも料理に込めている心だけは、再現している自信があります。」
強い調子の耀春の言葉に、何恭は大きく
「そうであろうな。この場に居る全ての者達が、
翌朝、耀春は
「何恭様。いつもと道が違うようですが、
その問いに答える事なく、何恭は早足で歩を進め、耀春は小走りでその後を追った。
何恭達は王宮の裏門に着くと、見張りの兵に通行証を示して王宮の外へと出た。
そして門の横にある小屋の扉を叩くと、中から門番の男が姿を見せた。
何恭が
耀春はその様子に眼を
「
何恭は、その問いに対して
「一般には知らされておらぬが、この場所に蜀の建国の祖である
何恭の言葉に、耀春は驚いた。
「劉備帝と言えば、今の
「劉備帝のご意向なのだ。劉備帝はご自身が神格化される事を嫌われた。そひっそりと静かに蜀の行く末を見守りたいと遺言された。だから
二人は、木立に囲まれた
廟の敷地に入った途端に、露摸の動きが止まった。
じっと
「劉備帝は、
何恭は、
後ろで、耀春もそれに
「どうして、何恭様は私を
拝礼を解いた何恭は、真っ直ぐに耀春の顔を見詰めた。
「この場所は、この国の心が宿る場所だからだ。人の心とは、
何恭の言葉を耳に
「それは、私にとって大事な事なのですか?」
何恭は少し表情を緩めて、
「儂はこれまで
「それは確かに、いつもお聞きしている事ですが...」
「心とは何だ?
耀春は、その問いに戸惑ったように何恭の顔を見上げた。
「
耀春の問いに対して、何恭はそれまでとは全く異なる質問を返した。
「耀春。昨夜のお前は、お父上の料理が自分の食の全てと申したな? それでは、お前が一番好きなお父上の料理とは何だ?」
いきなりの問いに戸惑いながらも、耀春は直ぐに答えを返した。
「煮込みです。父様の煮込みは、いつ食べても気持がほっこりします。」
「ほぅ...。それでは
「それは....判りません。でも父様は、いつも煮込みには凄く時間をかけてました。納得出来るまでは、丸一日以上でもお客様の前には出さない事もしょっちゅうでした。」
それを聞いた何恭は、さもありなんという表情になった。
「その煮込み、さぞ客の評判を呼んでいるのであろうな。」
「はい。店では
すると何恭は、耀春に向かい合い、教え
「手間をかけた料理というのは、作り手の心が、料理に
「心に共鳴する....」
何恭の言葉を聞いた耀春は、父の料理が持つ本当の力を初めて知った気がした。
「勿論、
そう言った何恭は、二人が立つ
「この場所には、劉備帝だけでなく、この国の建国に命を捧げた多くの方々の魂が宿っている。その心をお前は感じ取れるか?」
そう言われた耀春は、改めて目の前の塚に眼を向けた。
「
「それは、お前の心が方々の心に共鳴しているからだ。だからこそ
そう語る何恭は、耀春が今感じているものを探るように、耀春を見下ろした。
「先程お前は、
耀春は、また混乱した様子で首を捻った。
そんな耀春を見て、何恭は表情を緩めた。
「
「それは、絵の修行とはどう関係するのですか?」
「今のお前の絵は、
初めて絵の話が出た事で、耀春の表情が引き締まった。
「描いた絵を儂に破られる
何恭は、
「だからこそ、お前は技倆に
「
そう呟きながら、耀春は自分の立つ
その横では、露摸が目に見えない何かに語り掛けるように、じっと座ったまま
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