第12話 心を伝えるもの

 晩春が過ぎ、日差しが肌に暑く感じられる季節になっていた。

 小媛しょうえんが、縁台でたらいの水に素足すあしを浸しながら、耀春ようしゅんに話しかけた。

「ねぇ耀春。明日は久し振りのお休みだし、閉じこもってないで、季煌きこうと一緒に郊外まで出掛けようよ。」

 小媛に声を掛けられた耀春は、机の前で筆を止めて小媛を振り返った。

「季煌様とお二人だけで行けば良いんじゃないですか?私なんかが一緒じゃ、お邪魔でしょうし…。」

「こら...。まだ小さいくせにませた事を言うんじゃないの...」

 小媛は軽く耀春をにらむと、笑いながら顔の前で両手を合わせた。

「季煌は、最近釣りにまっているのよね。待ってる間、私一人じゃ退屈なのよ。だからお願い。それに耀春も、ずっと何恭かきょう様にしごかれっぱなしなんでしょ。息抜きが必要よ。」

 耀春は、机から離れると、縁台に座る小媛の側に歩み寄った。

「しごかれてるなんて...。何恭様は、何かを伝えようとして下さってるんです。でも、私が中々それにおこたえ出来なくて....」

「もう一年半以上なるよね...。何時いつも絵を破られてばっかりなのに。耀春も良く続くと思って、感心してるのよ。」

 耀春は、とんでもないといった表情をすると、今度は小さくうつむいた。

「いえ...。いつも何恭様は、早朝から私に付き合って出掛けて下さってるのです。昼前迄、私が何恭様を独占しちゃって、皆さんには申し訳なくて...。」

 そう言って身体を縮める耀春の顔を、小媛が覗き込んだ。

「何言ってるのよ。耀春は仕事が終わった後は、私達皆に色んな画法を教えてくれてるじゃない。今じゃ皆がこの部屋には入りきれなくて、仕事場での大授業になってるもんね。」

 耀春は、あわてた様子で首を振った。

「そんな...私みたいな者が、授業だなんて...。」

 そんな耀春を見て、小媛は微笑んだ。

謙遜けんそんしなくても良いの。耀春の教えてくれる画法は、何時いつもとても分かり易いもの。だから皆がむらがって来るのよ。夜の集まりに仕事場を解放してくれたのが、誰か知ってる?あの何恭様なのよ。画法を習うなら、耀春が一番だって、ご自身でおっしゃってたわ。」

「何恭様が、そんな事を...」

「そう...。だけど、耀春は頑張り過ぎね。だからたまには必要なのよ。気晴らしが....。」


 翌日、耀春は季煌と小媛にともなわれて、王宮の門を出た。

 季煌は右肩に何本かの釣竿を背負い、左手には魚籠びくを手にしていた。

 小媛は、両手一杯に風呂敷包みを抱えていた。

 何時いつもと同じく、三人の後ろには露摸ろぼが従っている。

 くだんの盗賊事件以来、王宮の多くの者が、露摸を眼にするとその歩む前を開けて横で待つようになっていた。

「季煌。釣りに行くのに、何でこんな大荷物が必要なのよ?」

 不満顔で話しかける小媛を見て、季煌が答えた。

「釣った魚は、その場で喰うのが一番美味いんだ。その荷物は調理道具だ。」

「調理道具って言っても...何でこんなに沢山たくさん...?」

 不平たらたらの小媛に向かって、季煌は親指をぐいと突き上げた。

「鍋に金串、そして包丁だ。調味料は、耀春が食賄処まかないどころに行って調達してくれた。耀春の家は、知っての通り評判の料理屋なんで、魚によく合う奴を選んで貰ったんだよ。」

 風呂敷包みを抱え直しながら、小媛がぼそりと呟いた。

「でも、こんなに準備したのに、魚が釣れなかったらどうするのよ?」

 その呟きを聞いた季煌が、聞き捨てならないという表情で小媛を振り返った。

「お前、俺の腕を疑ってるな。心配するな。今日の昼には、美味い魚を腹一杯になるまで喰わせてやるぞ。」

 そう言って胸を張る季煌の顔を、小媛は疑わしげに見返した。

 そんな横で、耀春が小さな声で小媛に告げた。

「大丈夫ですよ。もしもボウズになっちゃった時には、釣り場の近くには大抵たいていは魚屋がありますから。」

 それを聞いた小媛が、不思議そうな顔で耀春を見返した。

「何で、釣り場のそばに魚屋があるの?売れる訳がないじゃない。」

「それが、結構売れるんです。何の釣果ちょうかも無かった時に、手ぶらで帰るのが気恥ずかしいと思う人が多いみたいで。私の実家の料理屋も、釣り場の近くにあったんで、生きのよいなるべく大きな魚を売ってくれという釣り人のお客さんが良く来ていました。」

 それを聞いた小媛が笑った。

「そういう事か。でも私達の目の前で、季煌が魚を買うかしら?」

 くすくす笑いをする二人を、前を行く季煌が怪訝けげんそうに振り返った。


 川岸の岩場に到着して荷物を下ろした三人は、早速釣りの準備に取り掛かった。

 露摸は、三人から少し離れた水辺で、早々はやばや水浴すいよくを始めていた。

 季煌が、小媛と耀春を見ながら、川面を指差した。

「川の中のあの岩の周囲を見てみろよ。何匹も魚が跳ねてるだろ。彼奴あいつが今日の獲物だ。この夏魚は、香りが良くて美味いんだ。」

 季煌はそう言いながら腕をした。

 そんな季煌を見て、小媛が尋ねた。

「餌は何を使うの?」

「餌は要らない。魚のいそうな所におもりを付けた針を投げ込んで、魚に引っ掛けるんだ。簡単だろ。」

 そう言いながら季煌は 釣り糸に幾つもの針をまとった竿を持つと、川に踏み込んでそれを振るった。

 しばらくすると、竿を握る季煌の指がぴくりと動いた。

「ようし、来たぞ。」

 季煌が引き上げた竿の針の一つに、青黒い背と銀色の腹をきらめかせた魚が掛かっていた。

 季煌は手早く糸を手繰たぐりり寄せて、魚を針から外すと魚籠びくに収めた。

 それを観た小媛が、ほっとしたように胸を撫で下ろした。

「これで収穫なしという事にはならなくて済んだわね。魚屋さんの世話にもならなくて済むかもね。でも何で餌が要らないのかしら?」

「この夏魚は、岩のを食べてるんです。」

 後ろから耀春にそう言われて、小媛は吃驚びっくりしたように振り返った。

「何でそんな事を知ってるの?」

「父様が、この魚を釣っているのを何度も観てましたから...」

 その言葉に小媛は納得顔になった。

「そうか。耀春のお父上は料理人だったわね。自分で漁をしてたんだ。」


 順調な滑り出しで始まった季煌の釣りだったが、五匹程を釣り上げた後、ぱったりと手応えが無くなった。

 焦り始めた季煌の様子を観た耀春が声を掛けた。

「季煌様。今度は私にやらせて下さい。」

 首を振りながら岸に上がって来た季煌は、かたわらに寄って来た耀春に釣竿を手渡した。

「川底は滑るから、気をつけるんだよ。」

 季煌の注意にうなづいた耀春は、岸辺から少し川に踏み込んだ場所で両手で竿を持ち、それを大きく振り上げた。

「ほう...耀春の竿捌さおさばきは、中々にさまになってるな...。」

 そう言って様子を見守る季煌の前で、何度目かに振られた耀春の竿が大きくしなった。

 その瞬間、耀春は竿からの強い抵抗を受けて、前のめりに転びそうになった。

 あわてた季煌が、耀春が持つ竿を横から握り、力一杯竿を立ちあげた。

 すると、水面から三匹の魚が銀鱗をきらめかせて、宙に舞った。

「こいつは凄い...‼︎」

 糸を手繰たぐって魚を取り込んだ季煌が、竿を耀春に戻すと、耀春はまた直ぐに竿を振った。

 するとまたもや三匹が一度に針に掛かった。

 それを見た季煌が呆れたように言った。

「何だ、これは....。耀春、お前は釣りの才能もあるんだな。こんなのは初めて観たぞ。」

 すると耀春が、魚を針から外しながら季煌を見上げた。

「父様に言われたことがあります。釣ろう釣ろうと気持が先走ると、その気持が魚に伝わって逃げられるんだって...。それと、この魚を釣る時は、水の中の魚の気配を見極めるのが大事だって言われました。だから魚の気配に眼を凝らしてみたんです。」

 耀春の言葉に、季煌は眼をしばたいだ。

「気配を見極める...? どうやったら、そんなことが出来るんだい?」

 すると耀春は、少し離れた岩場の辺りを指差した。

「この魚はむれで泳ぐんですって...。だから無闇むやみに竿を振るんじゃなくて、群の存在を見極めて、其処そこに針を落とすと良いって言われました。彼処あそこがそうです。」

 耀春の指差す川面は、集まった魚影で色が黒く変わっていた。

成程なるほど。そう言う事か...よしそれなら俺も…。」

 勢い込んだ季煌は、もう一本の竿を手にして立ち上がった。

 それを見た耀春が直ぐに声を掛けた。

「それと、もっと簡単に釣る方法もあるって教わりました...。それなら小媛様でも釣れると思います。私もその方法で沢山たくさん釣った事があります。」

「なに...?。耀春、その方法って奴を教えてくれないか...」

 それからしばらくの間、小媛も竿を持ち、三人は夢中になって魚釣りに没頭した。

 魚籠びくはあっという間に一杯になった。

 季煌は岸辺の岩場に石を組んで生簀いけすを作ったが、間もなくそれも満杯となった。

「しかし....こんな方法があったのか....。針と一緒に、釣った魚を生きたまま結んで一緒に投げ入れるなんて....。耀春。父上は、この方法だと何故なぜこのように沢山の魚が釣れるのか、その理由も教えてくれたのかい?」

 季煌に尋ねられた耀春は、魚を針から外す手を止めて振り返った。

「この魚は、とても縄張り意識が強いんですって。だから仲間以外の魚が、自分達のむれそばに来ると、それを追い出そうとして皆で襲って来るんだそうです。だからおとりの魚を針と一緒に投げ込めば、魚達の群がおとりの魚に集まるって教わりました。」

成程なるほど流石さすがにその道の達人だな...」

 感心する季煌の横で、小媛が言った。

「でも、こんなに沢山たくさん....。私達だけじゃ食べ切れないわよ....。」

 すると耀春が、直ぐに小媛が持参して来た風呂敷包みを解き始めた。

「調理道具を持って来て良かったですね。今から料理して、食べ切れない分は、絵画処かいがどころの皆さんへのお土産にしましょうよ。絵画処に戻ってから料理した方が良い献立こんだてもありますけど…。」

 そう言った耀春は、直ぐに生簀いけすから魚を取り上げて、串に刺し始めた。

「魚の胴体が波打つように串を打つと、火が均等に回りますよ。」

 小媛が横で、耀春の手元を見ながらそれにならった。

 やがて、焚火たきびの脇に立てた魚の串が、香ばしい匂いを発し始めた。

 その匂いを嗅ぎつけた露摸が、三人のそばに寄って来ると、どかりと腰を下ろした。

 その姿を見て、季煌が笑った。

「お前は、生で喰うのだと思ったが…。塩をまぶして焼いた魚の方が良いのか?いっぱしの食通だな。しかし塩はお前の身体には良くないのではないか?」

 そう言う季煌に向かって、露摸はふんと鼻を鳴らした。


 その夜、絵画処の大部屋では、集まった絵師達が魚料理に舌鼓したつづみを打っていた。

「こんな美味うまい魚は、初めて食ったぞ。しかも焼物、煮物、和物あえものまで揃ってる。いやはや大したもんだ。」

 目の前に並べられた料理の皿に歓喜する絵師達に向かって、小媛が胸を張った。

「それを料理したのは私よ。みんな、美味おいしいものを食べられて感謝しなさいよ。」

 それを聞いた季煌が、呆れた表情で小媛を見た。

「何を言ってる。この料理のほとんどは耀春がやったものではないか。お前は、単に火であぶったり、鍋に入れたりしただけではないか....。包丁すら握ってはいないのに…。」

 その時、部屋の扉が開かれ、何恭が姿を現した。

「この騒ぎは何事だ‼︎ お前達の大声が、王宮中に響き渡っておるぞ。警護の者達が来たらどうするのだ‼︎」

 すると耀春が、何恭にそっと小さなつぼを差し出した。

「何恭様。今日は、季煌様と小媛様が魚釣りに連れて行って下さいました。此れは、何恭様へのお土産です。きっと美味おいしいと思います。」

 何恭は、眉を潜めたまま壺に指を差し入れ一口舐めると、そのまま部屋を出て行った。

「何だ?どうしたのだ...?」

 皆が呆気にとられた表情で座り込んでいると、やがて何恭が部屋へと戻って来た。

 その胸には大きな酒甕さけがめが抱かれていた。

「耀春。此れは何だ?」

 何恭が先ほど耀春に渡された壺を指差した。

 その声に耀春が、恐る恐る口を開いた。

「今日獲った魚の内臓を包丁で刻み、酒と山椒さんしょうに漬けたものですが...。お口に会いませんでしたか?」

 すると何恭は、耀春が今まで見た事もない笑顔を作った。

「このような酒肴つまみは初めてだ。得も言えぬ魚の香りと山椒の風味が一体となり、この上もなく酒が欲しくなる。絶品とはこの事だな。」

 何恭の声に、部屋に集まった絵師達が歓声を挙げた。

「師匠。この塩焼もどうぞ。このつけ汁に浸して食うと絶品ですぞ。」

 一人の声に誘われて、串の魚を頬張ほおばった何恭の顔が更にほころんだ。

「何だ、此れは....。魚の香りが更に引き立つ....この緑色のつけ汁は何だ?」

「それは、たでの葉をり木で引いて酢を合わせたものです。」

 次に何恭は、包丁で刻まれたなますの山に眼をった。

「それは生の魚に細かく包丁を入れて、香辛料をまぶしたんですが....お味はどうですか?」

 耀春にそう言われた何恭は、すぐにそれに箸を付けると大きくうなづいた。

 次に何恭は、大きな皿に盛られた魚の煮付けにはしを延ばした。

「それは....魚を魚醤ぎょしょうと酒に浸し、蜂蜜を加えて煮込んだ甘露煮かんろにです....。」

 何恭の動きを眼で追った耀春が、すぐに説明を加えた。

 全ての料理に箸を付けた何恭は、酒を一口含むと耀春に向き合った。

「これらは全て、お前のお父上の発想から生まれた料理なのか?」

 何恭の問いに、耀春はちょっと首をかしげた。

「全て父様の発想なのかどうかは、私には分かりません。でも...この味は、どれもが私にとっては、忘れられない味です。父様のそばを離れた今でも、父様は欠かさず私にお弁当を届けてくれています。そんな父様への感謝を感じながら、これらの料理を作りました。父様の料理は私の食の全てです。」

 何恭は姿勢を正すと、それまでとは違う真剣な表情を見せて耀春に向き合った。

「お前は今日、お前は自分の心に刻み付けられた父の料理を、此処ここで再現した。しかし何故なぜ、それが出来たのかを良く考えてみよ。此れは単なる真似事まねごとだったのか?」

 耀春も居住まいを正すと、何恭へと向き直った。

れは、私が見様見真似みようみまねで作った味かもしれません。でも父様の料理は、誰にも誇れるものと思っております。」

「それならばお前に問う。お前の父の味と、今作ったお前の味。どちらが本物なのじゃ?」

「それは言うまでもありません。私の料理は、父様の真似事です。」

「では、お前の作ったのは偽物にせものか?」

 そう言われた耀春は、思わず何恭をにらみつけた。

「父様がいつも料理に込めている心だけは、再現している自信があります。」

 強い調子の耀春の言葉に、何恭は大きくうなづいた。

「そうであろうな。この場に居る全ての者達が、此処ここに並べられた料理に感激しておる。それは、この料理が単なる模倣もほうではないからだ。お前自身が今言った言葉の意味、良く考えてみよ。」


 翌朝、耀春は筆筒ふでづつと画帳をたずさえて、何恭と外へと出掛けた。

 何時いつものように、露摸が二人をまもるように後ろから続いてくる。

 しばらく歩を進めた所で、耀春が前を行く何恭に尋ねた。

「何恭様。いつもと道が違うようですが、何処どこに行くのですか?」

 その問いに答える事なく、何恭は早足で歩を進め、耀春は小走りでその後を追った。

 何恭達は王宮の裏門に着くと、見張りの兵に通行証を示して王宮の外へと出た。

 やがて何恭は、さくに囲われたびょうの前で足を止めた。

 そして門の横にある小屋の扉を叩くと、中から門番の男が姿を見せた。

 何恭がふところから木札を取り出して示すと、門番は門の鍵を外して入口を開いた。

 耀春はその様子に眼をりながら、何恭に問い掛けた。

此処ここは....? 一体どのような場所なのでしょうか?」

 何恭は、その問いに対して厳粛げんしゅくな表情を作った。

「一般には知らされておらぬが、この場所に蜀の建国の祖である劉備帝りゅうびていが眠っておられる。今日は、劉備帝の御霊みたま拝謁はいえつさせて頂く為に、此処に参ったのだ。」

 何恭の言葉に、耀春は驚いた。

「劉備帝と言えば、今のみかど御尊父様ごそんぷさまでは御座いませぬか。何故なぜ、そのような方の眠る場所が、世間から閉ざされているのです? もっと多くの人々が参拝におとずれるのが普通ではないのですか?」

「劉備帝のご意向なのだ。劉備帝はご自身が神格化される事を嫌われた。そひっそりと静かに蜀の行く末を見守りたいと遺言された。だからおおやけにはされておらぬ。」

 二人は、木立に囲まれたびょうの地域に足を踏み入れた。

 廟の敷地に入った途端に、露摸の動きが止まった。

 じっとくうを見上げて、何かを感じ取っている風情ふぜいだった。


「劉備帝は、此処ここで眠っておられる。」

 何恭は、埋高うずたかく土が盛られたつかに歩み寄り、其処そこで深く拝礼した。

 後ろで、耀春もそれにならった。

「どうして、何恭様は私を此処ここに...?」

 拝礼を解いた何恭は、真っ直ぐに耀春の顔を見詰めた。

「この場所は、この国の心が宿る場所だからだ。人の心とは、ただうつろい行くものではない。人から人へと受け継がれるものだ。劉備帝の御心みこころは、今のみかどに受け継がれておる。それをお前にも感じて貰おうと思ったのだ。」

 何恭の言葉を耳にとどめながら、耀春は尋ねた。

「それは、私にとって大事な事なのですか?」

 何恭は少し表情を緩めて、さとすような口調になった。

「儂はこれまで幾度いくたびもお前と出掛け、お前に絵を描かせ、毎回のように同じ事を言って来た。只描くのではなく、お前の心を描けと。もう一度その意味を考えてみよ。」

「それは確かに、いつもお聞きしている事ですが...」

「心とは何だ? ただ頭に浮かぶだけのものか?」

 耀春は、その問いに戸惑ったように何恭の顔を見上げた。

おっしゃる事の意味がよく判りません。何故なぜそのような事をお尋ねになるのですか?」

 耀春の問いに対して、何恭はそれまでとは全く異なる質問を返した。

「耀春。昨夜のお前は、お父上の料理が自分の食の全てと申したな? それでは、お前が一番好きなお父上の料理とは何だ?」

 いきなりの問いに戸惑いながらも、耀春は直ぐに答えを返した。

「煮込みです。父様の煮込みは、いつ食べても気持がほっこりします。」

「ほぅ...。それでは何故なぜ、その煮込みが他の料理よりもお前の心を揺さぶるのだ?」

「それは....判りません。でも父様は、いつも煮込みには凄く時間をかけてました。納得出来るまでは、丸一日以上でもお客様の前には出さない事もしょっちゅうでした。」

 それを聞いた何恭は、さもありなんという表情になった。

「その煮込み、さぞ客の評判を呼んでいるのであろうな。」

「はい。店では何時いつも一番の人気献立です。」

 すると何恭は、耀春に向かい合い、教えさとすような声音になった。

「手間をかけた料理というのは、作り手の心が、料理にめられる時間も長いと言うことだ。真の料理とは、舌だけで味わうものではない。味覚を通して、料理人の心が食べる者の心に共鳴する食こそが、末永く愛される料理なのだ。」

「心に共鳴する....」

 何恭の言葉を聞いた耀春は、父の料理が持つ本当の力を初めて知った気がした。

「勿論、ただ手間を掛ければ良いというものではない。相当の技倆ぎりょうと強い心が一体となって、初めて人の心を揺さぶれるのだが...」

 そう言った何恭は、二人が立つびょうの風景に眼を巡らせた。

「この場所には、劉備帝だけでなく、この国の建国に命を捧げた多くの方々の魂が宿っている。その心をお前は感じ取れるか?」

 そう言われた耀春は、改めて目の前の塚に眼を向けた。

此処ここに宿る方々の心がどのようなものか、私には判りません。でもこの場に立っていると、物凄く緊張した気持ちになります。何かに圧倒されるような....」

「それは、お前の心が方々の心に共鳴しているからだ。だからこそ此処ここは神聖な場所なのだ。」


 そう語る何恭は、耀春が今感じているものを探るように、耀春を見下ろした。

「先程お前は、何故なぜ自分が此処ここに連れて来られたのか?...と、わしに問うたな。それは、お前にこの場所に宿る心を感じ取る力があるかどうかを見極めるためだ。お前はだ幼い。此処に宿る心の本質を理解出来るのは、先の事であろう。しかし、この場にある神聖さ、厳粛さを感じ取れる事が、まずは重要なのだ。その感性無くしては、心の本質に迫る事は出来ぬ。」

 耀春は、また混乱した様子で首を捻った。

 そんな耀春を見て、何恭は表情を緩めた。

あせらずとも良いぞ。しかし、今日此処で感じた想いを心の中に刻み込め。それは、いずれお前の心の中で新たな芽を出す。そしてお前の生きる道を豊かにするだろう。」

「それは、絵の修行とはどう関係するのですか?」

「今のお前の絵は、技倆ぎりょうだけが突出しておる。それは天賦の才だ。しかし観るものを本当に感動させる絵というのは、技倆の巧拙こうせつだけで決まるのではないぞ。」

 初めて絵の話が出た事で、耀春の表情が引き締まった。

「描いた絵を儂に破られるたびに、お前はおのれの技倆が足りぬと思い、どうしたらもっと緻密ちみつに花や草木を描けるのかを考え続けていたのであろう。技倆ぎりょうの良し悪しは、確かに大切だ。しかしお前が修行せねばならぬのは、技倆ではない。何故なぜならどのような画法も、お前なら一眼見ただけで、それを我が物に出来る才がある。誰にでも出来る事ではない。いや、お前にしか出来ぬ事であろう。」

 何恭は、んで含めるように耀春に語りかけた。

「だからこそ、お前は技倆にこだわってはならぬ。描こうとするものに宿る心を感じ取る修行が、お前に一番大切なものなのだ。難しい事だ。しかし、その修行を積む事によって、お前だけが描ける絵というものが見えて来る。単なる写生ではなく、人の心に共鳴し、感動を生む絵だ。」

技倆ぎりょうだけに拘ってはいけない....」

 そう呟きながら、耀春は自分の立つびょうを見回し、改めて自分の五感を研ぎ澄ませた。

 その横では、露摸が目に見えない何かに語り掛けるように、じっと座ったままくうに眼をらしていた。



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