第10話 胡蝶という娘
それから
その名を
雀取りと
「あの
華鳥からの申し出に、胡蝶は大きな瞳を輝かせた。
「私で良いんですか?住み込みで働かせて頂ける上に、
こうして胡蝶は、潘誕の店に下働きとして雇われた。
下働きの毎日は、主に材料の
その働きぶりを華鳥が認めて、
「おいおい、どうなってるんだ? この店の売り物は、料理の他に美人の
初めて店に立った時、常連客の言葉に胡蝶は顔を赤らめた。
「
華鳥の叱責を受けたその常連客は、
「俺は冗談は言わない。この店に通う楽しみが、また一つ増えた。本当だぞ。」
ある日潘誕が、胡蝶が
「胡蝶、お前の雀の下拵えは最高だ。
潘誕の言葉に、胡蝶は顔を輝かせた。
「本当ですか。 嬉しいです。家も近いので、本来なら通いが当然なのに、わざわざ住み込みにして頂いたのは、私の家の事情に
その言葉に潘誕はぴくりと眉を動かしたが、すぐに何事もない表情で胡蝶に向かい合った。
「余計な気を回さなくても良いのだ。お前が来てくれて、店は本当に助かっている。華鳥も
すると胡蝶は、潘誕に向かって丁寧に一礼した後、確認するような顔つきで潘誕に向き合った。
「本当ですか。華鳥様だけでなく、炎翔様もそう
その胡蝶の真剣な眼差しに少し驚きながらも、潘誕は笑い顔を見せた。
「お前に嘘を言うわけがないだろう。どうしてそんな事を聞くのだ?」
潘誕が首を
「この店の方々の心配りは本当に嬉しいです。特に炎翔様は、一番最初にこの店への仕事に誘って頂いた方です。その炎翔様から、そのように言って頂けるなんて...」
そう言って
それから半月ほど後、潘誕の店に招かれざる三人の客が現れた。
昼過ぎに店に入って来たのは、
男達は、店内の一角にある卓に腰を下ろすと、乱暴な口調で注文を発した。
「雀焼きと、それから酒だ。」
それに対して、男達の前に立った華鳥が頭を下げた。
「
華鳥にきっぱりと言い切られて、男達は露骨に不快さを表に出した。
「なんだと... 料理屋なのに酒を出さないというのはどう言う事だ。酒もなしで料理が喰えるわけがないだろう。」
席に座る三人の中央にいた若い男が吠えたが、華鳥は憶する事なく答えた。
「そういう店なのです。お気に召さないならお引取り下さい。そう大声で騒がれては、他のお客様に迷惑です。」
店内の常連達が、呆れ加減にその様子を見守った。
「
華鳥から拒絶を受けたその男は、
「それが、客に対する物言いか。 しかしまぁ、今日のところは我慢してやる。他に用事があるんでな...。」
若い男は、そう云い捨てるなり立ち上がり、厨房に向かった。
「胡蝶 ‼︎ 一緒に来るんだ‼︎ 勝手に家を出るような真似をしやがって…」
そう叫んだ男が胡蝶ににじり寄ろうとした時、華鳥が二人の間に割って入った。
「店の者に手出しをすると許しませんよ。」
目の前に立ちはだかった華鳥を見て、男は頬を
「また盾を付くのか‼︎ それじゃあ教えてやる。この胡蝶という女は、父親の借金の
男の言葉を聞いた胡蝶が、悲鳴のような叫びを挙げた。
「借りたお金は返したではありませんか‼︎ 私が、貴方にしっかりお渡しした筈です。」
胡蝶の言葉に、男は鼻を鳴らした。
「金を借りれば利息ってもんが付くんだよ。お前が返したって言うのは、元金だけだろうが..。」
胡蝶の悲鳴のような声が、さらに大きくなった。
「利息って言ったって...。なんで借りたお金の三倍も払わなくちゃならないんです‼︎」
すると、叫ぶ胡蝶に向かって、若い男がにんまりと笑った。
「そいつは、お前の親父がちゃんと確認しなかったのが悪い。証文もちゃんと有るんだぜ。
胡蝶に
男の腕は、華鳥によって後ろ手に
「どうしようもない人ですね、貴方は。」
華鳥は男の腕を
地面に這い
「この
怒り吠える男の顔を、華鳥が
「そのようにして、女達を食い物にして来たのですね 。このような真似、いつまでも許される筈はありませんよ。」
立ち上がって摑みかかろうとする男の突進を、華鳥は軽い身のこなしで
すぐに男の腕を取った華鳥が、小さな気合いを発すると男の身体はふわりと宙に浮き、道の向こう側の土手にまですっ飛んで行った。
土手を転がる若い男の姿を見た仲間の二人が、直ぐに席を蹴って、華鳥の後方から猛然と襲い掛かった。
難なく身を
すると二人の男も宙に浮き、最初に転がった若い男の上に
それまでその情景を見守っていた常連客からは、一斉に
すると、喝采する客達の中から感嘆の声が掛かった。
「いやはやお見事です。
そう言いながら前に進み出たのは、警備隊長の
「今日は非番だったので、
周文は、毒気を抜かれた様子で土手下に座り込む三人の男達の
「相手が悪かったとはこの事だな。到底お前達に歯の立つ相手ではない。それにしっかりと聞かせて貰った。借金の利息が元金の三倍とは、立派な犯罪だ。しかも証文まであると言う事は、自らその証拠を作ったと言う事だぞ。
周文の言葉に、三人は
男達が逃げ去るのを見届けた華鳥は、店の入口で
「もう大丈夫よ。周文様が
胡蝶は、震えながら華鳥の胸に取り
「でも直ぐにもっと大勢で、この店に押し掛けて来たりしたら....」
そんな胡蝶を
「それは無い。早々に連中は取調べ、不当な真似をしていた者共は、全て投獄する。仮に、直ぐ押し掛けて来た場合だが....。今度は、主人の潘誕殿の出番となるな。」
周文は確信を持った様子で、胡蝶に笑いかけた。
「潘誕殿ならば、あの程度のやくざ者なら、十数人相手でも叩き伏せるのは一瞬であろう。お前は良い店に奉公に来たな。」
周文からそう言葉をかけられた胡蝶の眼から大粒の涙が溢れ、華鳥は
「そう...。もう安心なのよ。これで貴女は、これからは自分の家から通っても心配ないわね。」
それを聞いた胡蝶は、いきなり華鳥の前に
「そんな事、駄目です。こんな御恩を頂いたのですから...」
胡蝶は、華鳥に向かって嘆願するように言った。
「店のお手伝いだけじゃなく、お住まいのお掃除、お洗濯、何でもやります。だから、今迄通り住み込みにさせて下さい。お願いします。」
泣きながら
するとそこに、客を掻き分けながら潘誕が姿を見せた。
「なんか店内が騒がしかったんで出て来てみたんだが....。何かあったのか? それに胡蝶は何でそんな格好で泣いてるんだ?」
潘誕ののんびりした声に華鳥が笑い声を挙げ、潘誕の顔を見た胡蝶も泣き笑いとなった。
昼の後片付けを終えた胡蝶が、店の裏手の井戸に水を汲みに出ると、庭では炎翔が切株に腰を下ろして
炎翔が軽く斧を振るう
胡蝶は思わずそれに見入った。
胡蝶の姿に気付いた炎翔が声を掛けた。
「どうした?
「凄いです。こんな鮮やかな薪割りは、初めて見ました。」
それを聞いた炎翔は、笑いながら立ち上がった。
「
「自然体で向き合う...?」
「そうだよ。そう言えば、胡蝶も何かと頑張り過ぎるところがあるね。もっと肩の力を抜くと良いかもしれないな。」
そう言われた胡蝶は、思わず炎翔の
何も考えずに、身体が炎翔に向かって動いていた。
胡蝶は、口ごもりながら炎翔に話しかけた。
「え、炎翔様。この店の人達って、本当に凄いです。みんな本当に強くって....それでいて、本当に優しくて....。潘誕様も、華鳥様も、炎翔様も....」
炎翔は、
「急に何を言い出すんだ。何かあったのか?」
炎翔の驚いた顔を前にしても、胡蝶の口は止まらない。
「この店の方々は、私のとと様やかか様とは、まるで違います。とと様は優しいけど、
それを聞いた炎翔は、胡蝶の顔にじっと眼を落とした。
そして胡蝶が言葉を止めたのを確認してから、穏やかに声を掛けた。
「なぁ胡蝶。お前のとと様は、お前を殴る事はあるか?」
その問いに驚きながらも、胡蝶が首を横に振ったのを見て、炎翔が微笑んだ。
「それなら、お前のとと様は、お前を愛してくれている。
炎翔の言葉に、胡蝶は
そんな胡蝶に視線を
「俺の本当の父は、幼い頃の俺を、
突然の炎翔からの言葉に、胡蝶は混乱した。
でも、今は何か言葉を返さなくてはならない…。
そう思った胡蝶は、何とか言葉を
「それで炎翔様の母様は、今の炎翔様の父上に
胡蝶の問いに対して、炎翔は首を振った。
「そうではないのだよ。今の俺の父は、相当な身分の一族の嫡子だった。だが不幸な事件があって一族は滅び、妻子は死んだ。しかし今の俺の父は、家の再興など望まなかった。別の
炎翔が語っている事は、胡蝶には良く理解出来なかった。
でも
そう思って頭を巡らした胡蝶の頭に、次の問いが
「それでは、その
「そうとも言えるし、そうではないとも言える。今の俺の父の身分に比べれば、母や俺など下の下の存在だ。しかしそんな事を気にする人ではなかった。あの人は、母と俺を丁重に扱った。そしてある時、あの人は母に提案をした。俺を養子に欲しいと...」
ようやく胡蝶は、自分に理解出来る回答を得た気がした。
「だからそれは、炎翔様に父上の志を継がせたかったからなのでしょう?」
だが炎翔の答えは、またしても胡蝶を混乱させた。
「そうとも言えるし、そうではないとも言える。」
「またその言葉ですか? 良く意味が分かりません。」
「母は、俺の将来を思って養子の申し出に同意した。しかし、その後も新しい父は、母を俺から遠ざける事はしなかった。父は、俺に様々な学問を教えてくれた。単に教えるだけでなく。それをどのように使うべきかも教えてくれた。そしてある日、父は俺に言った。『もう
黙り込んでしまった胡蝶に構わず、炎翔は言葉を続けた。
「最初は、父が何を言ってるかが解らなかった。俺はこの店に連れて来られ、『
自分も一緒に働く店の話が出てきた事で、胡蝶はようやく炎翔の言葉に対する理解の糸口を見つけた心持ちになった。
「最初の思いとは、今は違うと考えておられるのですか?」
そう言う胡蝶に向かって、炎翔は深く
「最初にこの店に来た時の俺は、潘誕様と華鳥様が俺とどのような
胡蝶の頭の中に、潘誕と華鳥からよく聞かされている人物が浮かんだ。
「
炎翔は、胡蝶に向かって一つ
「口にすると
炎翔の言葉は、胡蝶にとって衝撃だった。
胡蝶は悲しげな表情で炎翔を見上げた。
「でも耀春様は、今は王宮におられるのでしょう? 絵の修行をされているとお聞きしました。最低三年は家には帰って来ないと、華鳥様から伺っています。」
炎翔は、胡蝶の言葉に頷いた。
「そうだ。俺は一度は、耀春の後を追って王宮に行こうとも思っていた。」
「思っていた...? 今はそうでは無いのですか?」
「ある方が、俺をこの店に寄越した父の真意を伝えて下さった。父がこの店に俺を預けたのは、単に
先程の炎翔の言葉に気落ちしていた胡蝶は、力なく尋ねた。
「どういう意味なのですか?」
「その時、初めて俺は、自分の
炎翔の言う事の意味が分からず、胡蝶は首を
「今日の炎翔様の言われる事は、何もかも判らない事だらけです...。
「さっきの胡蝶の言葉を聞いて、話をしたくなったんだよ。」
そう言った炎翔は、胡蝶の顔を覗き込んだ。
「胡蝶。人とは本来弱い生き物なのだよ。お前のとと様が
胡蝶は、思わず炎翔を見上げた。
「じゃぁ、私のとと様やかか様も、最後は私を連れて逃げる積りだったのでしょうか?」
「それは分からない。しかし結果としては、お前のとと様とかか様はこの店にお前を預けた。お前を、借金取りの手の届かない所に逃そうとしたのだろう。お前の事で家に訪れた潘誕様と華鳥様を見て、お前を救ってくれると思ったのではないかな?」
「それは...。きっと炎翔様が言われる通りだと思います。」
そう言って下を向く胡蝶に、炎翔は更に言葉を続けた。
「弱い人間は、逃げる他には、強い他人に
「私を借金取り達から守る為…。」
そう言った胡蝶に、炎翔は
「だが、これからは人に
炎翔の言葉に、胡蝶はぽつりと呟いた。
「炎翔様のお父上の
しかし炎翔は、胡蝶の言葉に首を振った。
「そうではない。父は
胡蝶は、ようやく炎翔の言っている事が
「それが、先程炎翔様が言っていた『そうとも言えるし、そうでないとも言える』の意味なのですね?志を継ぐのではなく、自分で志を打ち立てろと言われているのですね?」
「それで、炎翔様の
「いや....それは未だ...。でも手掛かりはある。父が俺を引き取るきっかけとなった『無限の
その言葉を聞いた胡蝶は、覚悟を決めたように炎翔に尋ねた。
「それでは、炎翔様はそれが見つかった時には、耀春様を迎えに行かれるのですね?」
しかし炎翔の答えは、胡蝶の予想を裏切るものだった。
「迎えに行く....? それは無い。耀春は、潘誕様と華鳥様の娘だ。間違いなく、生まれつき強いものを持っている。そして絵画というものの中に、自分の
じゃあ、どうするのよ…。
ご自身の
胡蝶は、炎翔の考えを
「それでは、どうされようと言うのですか?」
胡蝶の問いに対して、炎翔はきっぱりとした口調で答えた。
「俺が耀春を
胡蝶は、思わずため息を付いた。
「耀春様が
その言葉を聞いた炎翔は、不思議そうな顔で胡蝶を見た。
「羨ましい?
炎翔にそう言われて、胡蝶は下を向いた。
「駄目です...。炎翔様や耀春様とは違い、私には学問も技術もありませんし...」
胡蝶の返事に対して、炎翔は語気を強めた。
「何を言っているんだ。学問なら華鳥様に習えば良い。あの方は大変な博識の持ち主だよ。」
俯く胡蝶に向かって、炎翔は更に言葉を繋げた。
「華鳥様は、医術や薬学だけでなく、恐ろしい程に幅広い分野の知識を持っておられる。そんな人が
炎翔にとくとくと
「私に出来るでしょうか?」
「あぁ、きっと胡蝶なら出来るよ。」
その時、胡蝶は決意した。
炎翔様がこうまで言って下さっているんだ…。
私だって頑張れば、耀春様に近づけるかもしれない。
「直ぐにでも華鳥様にお願いしてみます。耀春様が学ばれたように、私にも色々な事を教えて下さいって...」
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