第10話 胡蝶という娘

 それから一月ひとつき後、潘誕はんたんの店に新たな仲間が増えた。

 その名を胡蝶こちょうという。

 雀取りと下拵したごしらえの為に店に通う姿を見て、華鳥かちょうが見込んだ娘だった。

「あのなら気立ても良いし、何よりも周囲への気配りが効くわ。これから忙しくなるし、手伝って貰いたいわね。」

 華鳥からの申し出に、胡蝶は大きな瞳を輝かせた。

「私で良いんですか?住み込みで働かせて頂ける上に、美味おいしいご飯まで頂けるなんて夢のようです。」

 

 こうして胡蝶は、潘誕の店に下働きとして雇われた。

 下働きの毎日は、主に材料の下拵したごしらえと厨房ちゅうぼうでの洗い物ばかりだったが、胡蝶は日々それを真面目にこなした。

 その働きぶりを華鳥が認めて、やがては店に出て接客もこなすようにになっていった。

「おいおい、どうなってるんだ? この店の売り物は、料理の他に美人の女将おかみとめんこい娘と決まっていた。耀春が居なくなって、ちょっと寂しく思ってたが、今度はこんな可愛い娘が店に出てくれるのか?」

 初めて店に立った時、常連客の言葉に胡蝶は顔を赤らめた。

揶揄からかっては駄目ですよ。まだ慣れるには時が居るんですから...」

 華鳥の叱責を受けたその常連客は、至極真面目しごくまじめな表情で答えた。

「俺は冗談は言わない。この店に通う楽しみが、また一つ増えた。本当だぞ。」


 ある日潘誕が、胡蝶が下拵したごしらえで漬け込んだ雀を、指先で味見しながら顔をほころばせた。

「胡蝶、お前の雀の下拵えは最高だ。たまりが均等に染みて、絶品の焼き具合になる。料理人の素質十分だぞ。」

 潘誕の言葉に、胡蝶は顔を輝かせた。

「本当ですか。 嬉しいです。家も近いので、本来なら通いが当然なのに、わざわざ住み込みにして頂いたのは、私の家の事情に気遣きづかって下さったのでしょう?」

 その言葉に潘誕はぴくりと眉を動かしたが、すぐに何事もない表情で胡蝶に向かい合った。

「余計な気を回さなくても良いのだ。お前が来てくれて、店は本当に助かっている。華鳥も炎翔えんしょうも、そう言っているぞ。」

 すると胡蝶は、潘誕に向かって丁寧に一礼した後、確認するような顔つきで潘誕に向き合った。

「本当ですか。華鳥様だけでなく、炎翔様もそうおっしゃって下さっているのですか?」

 その胡蝶の真剣な眼差しに少し驚きながらも、潘誕は笑い顔を見せた。

「お前に嘘を言うわけがないだろう。どうしてそんな事を聞くのだ?」

 潘誕が首をかしげると、胡蝶は胸の前でぎゅっと手を組んだ。

「この店の方々の心配りは本当に嬉しいです。特に炎翔様は、一番最初にこの店への仕事に誘って頂いた方です。その炎翔様から、そのように言って頂けるなんて...」

 そう言ってほおを赤らめる胡蝶に、潘誕は生温かい視線を送った。


 それから半月ほど後、潘誕の店に招かれざる三人の客が現れた。

 昼過ぎに店に入って来たのは、いずれも身なりは良いが粗暴な雰囲気を持った男達だった。

 男達は、店内の一角にある卓に腰を下ろすと、乱暴な口調で注文を発した。

「雀焼きと、それから酒だ。」

 それに対して、男達の前に立った華鳥が頭を下げた。

相済あいすみません。この店では、日が落ちる前には、酒はお出ししていないのです。日中は食事だけです。」

 華鳥にきっぱりと言い切られて、男達は露骨に不快さを表に出した。

「なんだと... 料理屋なのに酒を出さないというのはどう言う事だ。酒もなしで料理が喰えるわけがないだろう。」

 席に座る三人の中央にいた若い男が吠えたが、華鳥は憶する事なく答えた。

「そういう店なのです。お気に召さないならお引取り下さい。そう大声で騒がれては、他のお客様に迷惑です。」

 店内の常連達が、呆れ加減にその様子を見守った。

彼奴あいつら、馬鹿か...。よりによってあの女将おかみ喧嘩けんかを売るなどと...。」

 華鳥から拒絶を受けたその男は、ひたいに青筋を立てた。

「それが、客に対する物言いか。 しかしまぁ、今日のところは我慢してやる。他に用事があるんでな...。」

 若い男は、そう云い捨てるなり立ち上がり、厨房に向かった。

 厨房ちゅうぼうに繋がる通路の中央には、胡蝶が蒼白な顔で立ち尽くしていた。

「胡蝶 ‼︎ 一緒に来るんだ‼︎ 勝手に家を出るような真似をしやがって…」

 そう叫んだ男が胡蝶ににじり寄ろうとした時、華鳥が二人の間に割って入った。

「店の者に手出しをすると許しませんよ。」

 目の前に立ちはだかった華鳥を見て、男は頬を痙攣けいれんさせた。

「また盾を付くのか‼︎ それじゃあ教えてやる。この胡蝶という女は、父親の借金の担保たんぽだ。借りた金は返すのが当然。それが払えないなら、担保は貰って行くのが当然だろう。」

 男の言葉を聞いた胡蝶が、悲鳴のような叫びを挙げた。

「借りたお金は返したではありませんか‼︎ 私が、貴方にしっかりお渡しした筈です。」

 胡蝶の言葉に、男は鼻を鳴らした。

「金を借りれば利息ってもんが付くんだよ。お前が返したって言うのは、元金だけだろうが..。」

 胡蝶の悲鳴のような声が、さらに大きくなった。

「利息って言ったって...。なんで借りたお金の三倍も払わなくちゃならないんです‼︎」

 すると、叫ぶ胡蝶に向かって、若い男がにんまりと笑った。

「そいつは、お前の親父がちゃんと確認しなかったのが悪い。証文もちゃんと有るんだぜ。其奴そいつが払えないと言うから、わざわざ迎えに来たんだ。つべこべ言わず、さっさと来い‼︎」

 胡蝶につかみかかろうとした男が、いきなり悲鳴を挙げた。

 男の腕は、華鳥によって後ろ手にねじり上げられていた。

「どうしようもない人ですね、貴方は。」

 華鳥は男の腕をねじり上げたまま店の入口へと進み、男を店の外へと放り出した。

 地面に這いつくばった男は、怒り狂った。

「このあま、何をしやがる‼︎ 邪魔するなら、お前も胡蝶と一緒に女郎屋に売り飛ばしてやる‼︎ お前のような上玉なら、胡蝶共々高い値が付く。それで借金は帳消しにしてやる。」

 怒り吠える男の顔を、華鳥がにらみつけた。

「そのようにして、女達を食い物にして来たのですね 。このような真似、いつまでも許される筈はありませんよ。」

 立ち上がって摑みかかろうとする男の突進を、華鳥は軽い身のこなしでかわした。

 すぐに男の腕を取った華鳥が、小さな気合いを発すると男の身体はふわりと宙に浮き、道の向こう側の土手にまですっ飛んで行った。

 土手を転がる若い男の姿を見た仲間の二人が、直ぐに席を蹴って、華鳥の後方から猛然と襲い掛かった。

 難なく身をかわした華鳥は、その二人の腕を両手に取ると同じように気合を発した。

 すると二人の男も宙に浮き、最初に転がった若い男の上におおかぶさるように横転した。

 土手下どてしたに転がった三人は、何が起こったか分からぬ様子で首を振り、店の入口では胡蝶が眼をぱちぱちさせて立ちすくんでいた。

 それまでその情景を見守っていた常連客からは、一斉に喝采かっさいが起こった。

 すると、喝采する客達の中から感嘆の声が掛かった。

「いやはやお見事です。気武術きぶじゅつという奴ですな。」

 そう言いながら前に進み出たのは、警備隊長の周文しゅうぶんだった。

「今日は非番だったので、此処ここでゆっくりする積りでしたが…。思いがけず、結構なし物を拝見しました。」

 周文は、毒気を抜かれた様子で土手下に座り込む三人の男達のそばに歩み寄った。

「相手が悪かったとはこの事だな。到底お前達に歯の立つ相手ではない。それにしっかりと聞かせて貰った。借金の利息が元金の三倍とは、立派な犯罪だ。しかも証文まであると言う事は、自らその証拠を作ったと言う事だぞ。後程のちほどお前達の店に警備隊を差し向けるので、きっちりと取り調べを行わせて貰うぞ。」

 周文の言葉に、三人はあわてた様子でその場から逃げ去って行った。


 男達が逃げ去るのを見届けた華鳥は、店の入口で茫然ぼうぜんと立ち尽くす胡蝶の両肩を抱いた。

「もう大丈夫よ。周文様が彼奴あいつらを取り締まって下さるわよ。もうあの者達が貴女の家にやって来る事も無いでしょう。」

 胡蝶は、震えながら華鳥の胸に取りすがった。

「でも直ぐにもっと大勢で、この店に押し掛けて来たりしたら....」

 そんな胡蝶をなだめるように、周文が声を掛けた。

「それは無い。早々に連中は取調べ、不当な真似をしていた者共は、全て投獄する。仮に、直ぐ押し掛けて来た場合だが....。今度は、主人の潘誕殿の出番となるな。」

 周文は確信を持った様子で、胡蝶に笑いかけた。

「潘誕殿ならば、あの程度のやくざ者なら、十数人相手でも叩き伏せるのは一瞬であろう。お前は良い店に奉公に来たな。」

 周文からそう言葉をかけられた胡蝶の眼から大粒の涙が溢れ、華鳥は嗚咽おえつする胡蝶をしっかりと抱き締めた。

「そう...。もう安心なのよ。これで貴女は、これからは自分の家から通っても心配ないわね。」

 それを聞いた胡蝶は、いきなり華鳥の前にひざまづいた。

「そんな事、駄目です。こんな御恩を頂いたのですから...」

 胡蝶は、華鳥に向かって嘆願するように言った。

「店のお手伝いだけじゃなく、お住まいのお掃除、お洗濯、何でもやります。だから、今迄通り住み込みにさせて下さい。お願いします。」

 泣きながらひざまづく胡蝶に、華鳥は思案顔しあんがおを作った。

 するとそこに、客を掻き分けながら潘誕が姿を見せた。

「なんか店内が騒がしかったんで出て来てみたんだが....。何かあったのか? それに胡蝶は何でそんな格好で泣いてるんだ?」

 潘誕ののんびりした声に華鳥が笑い声を挙げ、潘誕の顔を見た胡蝶も泣き笑いとなった。


 昼の後片付けを終えた胡蝶が、店の裏手の井戸に水を汲みに出ると、庭では炎翔が切株に腰を下ろしてまきを割っていた。

 炎翔が軽く斧を振るうたびに、立てた木々が面白いように薪に変貌して行く。

 胡蝶は思わずそれに見入った。

 胡蝶の姿に気付いた炎翔が声を掛けた。

「どうした?薪割まきわりが、そんなに珍しいかい?」

「凄いです。こんな鮮やかな薪割りは、初めて見ました。」

 それを聞いた炎翔は、笑いながら立ち上がった。

れは、ある人から極意ごくいを習ったんだ。無闇に肩に力を入れるなと....。目の前にある物に自然体しぜんたいで向き合えば、見えて来るものがある....。そう教えられてから、このような事が出来るようになったんだよ。」

「自然体で向き合う...?」

「そうだよ。そう言えば、胡蝶も何かと頑張り過ぎるところがあるね。もっと肩の力を抜くと良いかもしれないな。」

 そう言われた胡蝶は、思わず炎翔のそばに駆け寄った。

 何も考えずに、身体が炎翔に向かって動いていた。

 胡蝶は、口ごもりながら炎翔に話しかけた。

「え、炎翔様。この店の人達って、本当に凄いです。みんな本当に強くって....それでいて、本当に優しくて....。潘誕様も、華鳥様も、炎翔様も....」

 炎翔は、吃驚びっくりしたように胡蝶の顔を見詰めた。

「急に何を言い出すんだ。何かあったのか?」

 炎翔の驚いた顔を前にしても、胡蝶の口は止まらない。

「この店の方々は、私のとと様やかか様とは、まるで違います。とと様は優しいけど、博打ばくち)好きで何時いつも借金ばかりです。かか様は、そんなとと様を叱る事も出来ない気の弱い人なんです…。」


 それを聞いた炎翔は、胡蝶の顔にじっと眼を落とした。

 そして胡蝶が言葉を止めたのを確認してから、穏やかに声を掛けた。

「なぁ胡蝶。お前のとと様は、お前を殴る事はあるか?」

 その問いに驚きながらも、胡蝶が首を横に振ったのを見て、炎翔が微笑んだ。

「それなら、お前のとと様は、お前を愛してくれている。博打ばくちをして借金をこさえるのは自分をりっする気が弱いからだ。胡蝶、お前に一つ俺の秘密を教えてやる。俺の今の父は立派な人だが、実は俺の本当の父親ではない。俺の母は、俺を連れて本当の父の元から逃げたのだ。」

 炎翔の言葉に、胡蝶はにわかには信じられないという顔を見せた。

 そんな胡蝶に視線をとどめながら、炎翔は語り続ける。

「俺の本当の父は、幼い頃の俺を、四六時中しろくじちゅう殴ったり蹴ったりばかりだった。ある日父に蹴られて死にかけた俺を、母は背負って家から逃げた。逃げる途中に出会ったのが、俺の今の父、そして潘誕様と華鳥様だ。華鳥様は、死にかけた俺に治療をほどこし、命を救って下さった。そして今の俺の父は俺と母を引き取り、その後俺は今の父の養子となった。」

 突然の炎翔からの言葉に、胡蝶は混乱した。

 でも、今は何か言葉を返さなくてはならない…。

 そう思った胡蝶は、何とか言葉をひねり出した。

「それで炎翔様の母様は、今の炎翔様の父上にとつがれたのですか?」

 胡蝶の問いに対して、炎翔は首を振った。

「そうではないのだよ。今の俺の父は、相当な身分の一族の嫡子だった。だが不幸な事件があって一族は滅び、妻子は死んだ。しかし今の俺の父は、家の再興など望まなかった。別のこころざしを胸に生きる事を決めた。」

 炎翔が語っている事は、胡蝶には良く理解出来なかった。

 でも此処ここで話を止めたくはない…。

 そう思って頭を巡らした胡蝶の頭に、次の問いがひらめいた。

「それでは、そのこころざしというものを継がせる為に、炎翔様を養子にされたのですか?」

「そうとも言えるし、そうではないとも言える。今の俺の父の身分に比べれば、母や俺など下の下の存在だ。しかしそんな事を気にする人ではなかった。あの人は、母と俺を丁重に扱った。そしてある時、あの人は母に提案をした。俺を養子に欲しいと...」

 ようやく胡蝶は、自分に理解出来る回答を得た気がした。

「だからそれは、炎翔様に父上の志を継がせたかったからなのでしょう?」

 だが炎翔の答えは、またしても胡蝶を混乱させた。

「そうとも言えるし、そうではないとも言える。」

「またその言葉ですか? 良く意味が分かりません。」

「母は、俺の将来を思って養子の申し出に同意した。しかし、その後も新しい父は、母を俺から遠ざける事はしなかった。父は、俺に様々な学問を教えてくれた。単に教えるだけでなく。それをどのように使うべきかも教えてくれた。そしてある日、父は俺に言った。『もう此処ここで学ぶ事はない。これからのお前は、自分を見つける事をしなければならない』....」

 黙り込んでしまった胡蝶に構わず、炎翔は言葉を続けた。

「最初は、父が何を言ってるかが解らなかった。俺はこの店に連れて来られ、『此処ここでお前の道を探せ』と言われた。最初は、あきないの修行だと思った。机上きじょうの学問では得られない物を、此処で学べと言われたのだと思った。」

 自分も一緒に働く店の話が出てきた事で、胡蝶はようやく炎翔の言葉に対する理解の糸口を見つけた心持ちになった。

「最初の思いとは、今は違うと考えておられるのですか?」

 そう言う胡蝶に向かって、炎翔は深くうなづいた。

「最初にこの店に来た時の俺は、潘誕様と華鳥様が俺とどのような因縁いんねんがあるかを聞かされていなかった。でもしばらくあのお二人を見ていて、此れは普通の人達ではないと判った。胡蝶、お前と一緒だ。お二人は、尋常ではないほど強く、そして優しい。それとお二人の間には、何とも言えないいとおしげな娘がいた。」

 胡蝶の頭の中に、潘誕と華鳥からよく聞かされている人物が浮かんだ。

耀春ようしゅん様ですね。お会いした事はありませんが...。天女のような方だと、お客様達が言っています。」

 炎翔は、胡蝶に向かって一つうなづくと下を向いた。

「口にすると気恥きはずかしいんだが、俺は耀春に恋してしまったのかもしれない...。この娘は俺が守らねばいけないと思い込んだ。遥か歳下の幼い娘なのにね...。」

 炎翔の言葉は、胡蝶にとって衝撃だった。

 おもい人がられたのですね…。

 胡蝶は悲しげな表情で炎翔を見上げた。

「でも耀春様は、今は王宮におられるのでしょう? 絵の修行をされているとお聞きしました。最低三年は家には帰って来ないと、華鳥様から伺っています。」

 炎翔は、胡蝶の言葉に頷いた。

「そうだ。俺は一度は、耀春の後を追って王宮に行こうとも思っていた。」

「思っていた...? 今はそうでは無いのですか?」

「ある方が、俺をこの店に寄越した父の真意を伝えて下さった。父がこの店に俺を預けたのは、単にあきないを学ばせる為ではなかった。『本当に強いという事はどう言う事か、そして本当の優しさとは何か、それをあの店で知ることが出来る筈だ。そしてそれを通じて己の目指す道が見えて来る』。父はそう言っていた...。そうその方から告げられた。」

 先程の炎翔の言葉に気落ちしていた胡蝶は、力なく尋ねた。

「どういう意味なのですか?」

「その時、初めて俺は、自分の生命いのちを救ってくれたのが華鳥様だと知らされた。そして父が俺を引き取ったのは、『無限の生命の宿木やどりぎ』を繋げる為だったという事も。」

 炎翔の言う事の意味が分からず、胡蝶は首をかしげた。

「今日の炎翔様の言われる事は、何もかも判らない事だらけです...。何故なぜそのような話を私にされるのですか?」

「さっきの胡蝶の言葉を聞いて、話をしたくなったんだよ。」

 そう言った炎翔は、胡蝶の顔を覗き込んだ。

「胡蝶。人とは本来弱い生き物なのだよ。お前のとと様が博打ばくちに走り、かか様がそんなとと様をいましめることが出来ないのは、人の弱さゆえなのだと俺は思う。でもお前の両親は、お前を愛してくれている。俺の本当の父は、弱い上に俺や母への愛情など微塵みじんも無かった。自分の弱さを隠す為に、捌口はけぐちを他人に向けるのは最低だ。母は、俺を愛するゆえに家から逃げた。弱い者が出来るのは、逃げる事だけだ。」

 胡蝶は、思わず炎翔を見上げた。

「じゃぁ、私のとと様やかか様も、最後は私を連れて逃げる積りだったのでしょうか?」

「それは分からない。しかし結果としては、お前のとと様とかか様はこの店にお前を預けた。お前を、借金取りの手の届かない所に逃そうとしたのだろう。お前の事で家に訪れた潘誕様と華鳥様を見て、お前を救ってくれると思ったのではないかな?」

「それは...。きっと炎翔様が言われる通りだと思います。」

 そう言って下を向く胡蝶に、炎翔は更に言葉を続けた。

「弱い人間は、逃げる他には、強い他人にすがるしかないのだ。俺もお前も運が良かったんだよ。俺たちは二人共、潘誕様と華鳥様という強い人に救われたんだ。胡蝶も分かっているんだろう?潘誕様と華鳥様が、家からの通いではなく、この店への住み込みにお前を誘った理由わけを…。」

「私を借金取り達から守る為…。」

 そう言った胡蝶に、炎翔はうなづいた。

「だが、これからは人にすがるだけじゃ駄目だ。自分も強くならなくちゃいけないんだ。それを判らせる為に、今の俺の父は、俺をこの店に寄越したんだ。」

 炎翔の言葉に、胡蝶はぽつりと呟いた。

「炎翔様のお父上のこころざしを継がせる為にも、炎様様には強くなって欲しかったんですね?」

 しかし炎翔は、胡蝶の言葉に首を振った。

「そうではない。父はおのれこころざしを俺に継がせようなどとは思っていない。只、俺自身の志を見つける事を願っている。但しその志は弱い人々を救うものでなくてはならない。そう父は言っていた。だからその為には、俺自身が強くならなくては駄目なんだ。」

 胡蝶は、ようやく炎翔の言っている事がおぼろげながらも分かって来た気がした。

「それが、先程炎翔様が言っていた『そうとも言えるし、そうでないとも言える』の意味なのですね?志を継ぐのではなく、自分で志を打ち立てろと言われているのですね?」

 うなづく炎翔に向かって、胡蝶は尋ねた。

「それで、炎翔様のこころざしは見つかったのですか?」

「いや....それは未だ...。でも手掛かりはある。父が俺を引き取るきっかけとなった『無限の生命いのち宿木やどりぎ』という言葉。父がこだわるこの言葉に、妙に俺も引っかかるんだ。それを頼りに、俺は自分の志を探そうと思っている。それは、父が思い描いている志とは違うかもしれない。それでも俺はそれを探そうと思う。先程お前に言った『そうとも言えるし、そうでないとも言える』とは、そういう事だ。」

 その言葉を聞いた胡蝶は、覚悟を決めたように炎翔に尋ねた。

「それでは、炎翔様はそれが見つかった時には、耀春様を迎えに行かれるのですね?」

 しかし炎翔の答えは、胡蝶の予想を裏切るものだった。

「迎えに行く....? それは無い。耀春は、潘誕様と華鳥様の娘だ。間違いなく、生まれつき強いものを持っている。そして絵画というものの中に、自分のこころざし見出みいだそうとしている。俺よりずっと歳下なのに、俺より遥か先に行っているのだ。俺は未だ自分の志すら見つけられていない。そんな俺が、耀春の前に立てる訳が無いだろう。」

 じゃあ、どうするのよ…。

ご自身のおもびとなんでしょう?

 胡蝶は、炎翔の考えをはかりかねて、思わず尋ねた。

「それでは、どうされようと言うのですか?」

 胡蝶の問いに対して、炎翔はきっぱりとした口調で答えた。

「俺が耀春をまもろうなどという一方的な考えは不遜ふそんだと悟った。俺は、先ずは俺自身の道を探らねばならない。そして志を胸に自分で立たなくてはならない。耀春の事を考えるのは、その後だ。」

 胡蝶は、思わずため息を付いた。

「耀春様がうらやましいです。幼くしてご自身の道を見つけ、それに向かっているなんて…。しかも炎翔様にも、そのように思って貰っているなんて...」

 その言葉を聞いた炎翔は、不思議そうな顔で胡蝶を見た。

「羨ましい? 何故なぜだ? 胡蝶、それならお前も、耀春の絵に匹敵するものを、これから探せばいいじゃないか? それによってお前自身がきっと強くなれるのだぞ。潘誕様と華鳥様への本当の恩返しとは、そうする事だ。」

 炎翔にそう言われて、胡蝶は下を向いた。

「駄目です...。炎翔様や耀春様とは違い、私には学問も技術もありませんし...」

 胡蝶の返事に対して、炎翔は語気を強めた。

「何を言っているんだ。学問なら華鳥様に習えば良い。あの方は大変な博識の持ち主だよ。」

 俯く胡蝶に向かって、炎翔は更に言葉を繋げた。

「華鳥様は、医術や薬学だけでなく、恐ろしい程に幅広い分野の知識を持っておられる。そんな人がそばにいるのだ。俺だって元々は貧農のせがれだ。今の父がそばにいてくれたから、多くの学問を身に付ける事が出来たんだ。」

 炎翔にとくとくとさとされて、胡蝶の眼に光が戻った。

「私に出来るでしょうか?」

「あぁ、きっと胡蝶なら出来るよ。」

 その時、胡蝶は決意した。

 炎翔様がこうまで言って下さっているんだ…。

 私だって頑張れば、耀春様に近づけるかもしれない。

「直ぐにでも華鳥様にお願いしてみます。耀春様が学ばれたように、私にも色々な事を教えて下さいって...」

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