第8話 耀春のいない店

 王宮の絵画処かいがどころから、耀春ようしゅんを預かりたいと申し出を受けた潘誕はんたん華鳥かちょうは、急な申し出に頭を抱えた。

「どうしたものでしょう。耀春をそのように認めて下さるのは有り難いですが、耀春はまだ八歳ですから….。私の育った飛仙ひせんの店では、その位の年頃から奉公に預けられる子供達も多かったですが、今回は何分なにぶんにも急な話ですからね。」

 潘誕は、すがるような眼を華鳥に向けた。

「ううむ…。しかし、何と言っても絵画処のかしらからのたっての申し出だからな。何十人もの絵師を預る立場の人に、あそこまで頭を下げられてしまうと….。華鳥、何か上手く断る算段はないだろうか?」

 そう言われた華鳥は、潘誕の真意を確認するように顔をのぞき込んだ。

「貴方は、耀春を行かせたくはないのですね?」

 華鳥にそう問われた潘誕は、直ぐに首をコクコクと縦に振った。

「当然だろう。まだ可愛い盛りの娘を手離すなど、そんな事を喜ぶ親はいない。そうだろう? 」

 華鳥は、そんな潘誕の顔を覗き込んだ。

「そうですね。でも当の本人である耀春は、どう思っているのでしょうね。昨夜、貴方様あなたさまは、耀春とずっと話をされていましたね。耀春は、この事について貴方様に何か話したのではありませんか?」

 華鳥にそう言われた潘誕は、泣きそうな顔になった。

 そして、絞り出すような声で華鳥に答えた。

「耀春は….俺に言った。『父様、絵画処の何恭かきょう様が、あたしの事をめて下さったのです。でも、こうもおっしゃいました。あたしには、まだまだ足りないものが沢山たくさんある。それを乗り越える為には、今のままでは駄目だ。今後は絵画処で暮らしなさい。』そう言われたと。」

「それで….。何恭様からの申し出に対して、耀春はどうしたいと言ったのですか?」

 潘誕は、突然両眼から涙をぽろぽろとこぼしながら、鼻をすすり上げた。

「それって楽しそうだなぁって、無邪気に言ってたよ。好きな絵を毎日習えるなんて凄いと….。」

 潘誕の言葉を聞いた華鳥は、意を決したように立ち上がるとくうを見詰めた。

「ちょっと早いとは思いますが….。耀春が自分に向かい合う時が来たのですね。」


 翌朝、両親の前に座った耀春は、二人の緊張した気配を察して身をちぢませた。

「あたし、何か悪いことをしましたか。もしもそうだったらごめんなさい。」

 泣きそうな顔の耀春に、華鳥が笑いかけた

貴女あなたは何も悪い事はしてませんよ。でも聞きたい事があるのです。昨日、絵画処の何恭様から、貴女を絵画処で預かりたいと正式に申し入れがありましたね。貴女はどうしたいですか。これから真剣に絵に取り組みたいと思っていますか?」

 耀春は顔を挙げて、両親の顔を見回した。

 母の華鳥は笑いかけてくれているものの、耀春を観るひとみの奥には強い緊張がある。

 父の潘誕の方はと言うと、泣きじゃくった後のように、眼をらしている。

 耀春は、言葉を発するのを躊躇ためらった。

 自分の返答が、両親を悲しませてしまうのではないか…。

 そう思うと、口を開くのが、とても恐ろしく感じた。

「黙っていては分かりませんよ。何恭様からお誘いを受けて、貴女あなたはどうしたいと思っているのですか?」

 再度華鳥からうながされた耀春は、思い詰めたような顔の潘誕を一度見つめてから、おずおずと口を開いた。

「あの…何恭様だけじゃなくて、小媛しょうえん様も季煌きこう様も、凄く熱心に誘って下さってるんです。」

「そんな事は聞いていません。貴女自身の気持ちを聞いているのですよ。」

 華鳥にそう言われて、耀春はもう一度両親の顔を見回した。

 潘誕の顔を見た耀春は、父のれた眼を前にして顔をくもらせた。

「父様、もしかしてあたしが昨日きのうの晩に、絵を勉強したいと言った事で、父様を悲しませてしまったのですか?それだったら、本当にごめんなさい。」

 耀春の言葉を聞いた潘誕は、慌てて涙眼なみだめぬぐった。

「耀春、何を言うんだ。俺も母様も、お前の望みをちゃんと聞きたいだけなんだよ。絵が大好きで、絵が勉強したい…。それは良い。でも何恭様が言われてるのは、絵画処かいがどころでお前を預かりたいと言う事なんだよ。それはつまり、この家から出て行くと言う事なんだ。お前は、本当にそれで良いのかい?」

 父の言葉に、耀春はしばらく黙った。

 そしておずおずと言葉を発した。

「絵を描くことがもっと上手になりたいのは本当なの。でも父様や母様と離れるのは、嫌。だから、もし絵画処に行くことになっても、おうちにはしょっちゅう戻って来ても良いよね?」

「勿論だ。もし辛いことがあれば、すぐに戻って来れば良い……。」

 そう言う耀春と潘誕を、華鳥がぴしゃりとさえぎった。

「それは駄目よ。絵の修行というのは、そんな甘いものではないのよ。一旦決心を固めたら、最低三年は家には戻らない覚悟を持ちなさい。」

 華鳥の言葉に、耀春は眼を見開き、潘誕はまた泣き出しそうな顔になった。

「おい、それはないだろう。三年も家に帰れないななんて……。」

 懇願こんがんするように訴える潘誕に向かって、華鳥は眼力めじからを強めた。

「人が本当に自分の行く道をさとった時には、その位の覚悟をするものです。私にも覚えがあります。私と兄が、こころざしを胸にして飛仙の家を去った時…。耀春のように幼くはなかったですが、家を捨てる覚悟を決めて旅に出たのです。我が子がおのれこころざしを定めた時には、親は情に流されるのではなく、子のこころざしを見守らなければなりません。私の父がそうでした。」

 そう言われた潘誕は、およそ商人らしくない飛仙の義父ちちを思い浮かべた。

 そうだったんだよな。

 商人と言うよりは、むしろ武人に近い心根こころねを持ったあの人は、華鳥と華真様が、飛仙という大店の跡継あとつぎという身分を捨てて旅立った時、最初は二人の行動を許さなかった。

しかし二人の求めるものの本質を理解すると、一転して支援の姿勢に変わった。

 俺に、あの人のような事が出来るだろうか……。

 その考えを見透みすかしたように潘誕を見た華鳥は、今度は耀春に視線を移した。

「耀春。自分のやりたい事をきわめようと本気で思うなら、甘えは許しませんよ。もう一度、よく自分の心と向き合いなさい。一晩、時間を与えます。よく考えなさい。その上で、自分の決心を、父様と私に伝えなさい。」

 耀春が二人の前から下がった後、華鳥はもう一度強い眼差まなざしを潘誕に向けた。

「お分かりですね。娘の行く道を親が閉ざしてはなりません。そのような真似をすれば、私の父が貴方様あなたさまに対して、どのような事をするか…。考えたくもありません。」


 翌朝、耀春は両親の前で居住いずまいを正した。

 昨日とは打って変わった決意の眼差まなざしが、耀春の表情に宿っていた。

「父様、母様。色々と考えました。そして決心しました。あたしに三年の時間を下さい。三年後に、父様と母様に胸を張ってお会いしたいと思います。ですから絵画処かいがどころに行く事を、どうかお許し下さい。」

 そう言って頭を下げる耀春に、華鳥は笑顔を、潘誕は泣き顔を見せた。

 こうして、耀春は王宮に行く事になった。

 王宮に行くに当たって、耀春は両親に一つだけ要望を出した。

 露摸ろぼも一緒に連れて行きたいと。

 露摸が最もなついているのは耀春だ。

 しかも露摸が耀春のそばにいてくれるのは、何よりも心強い。

 潘誕も華鳥も、そう思った。

 しかし露摸が王宮に入るなど、認められるはずもないだろう。

 そう思っていた潘誕と華鳥だったが、予想に反して露摸の王宮入りは、あっさりと許可された。


 こうして耀春が王宮の絵画処かいがどころに住み込みとなり、家から居なくなってから、潘誕の元気が無くなった。

「耀春の為にもこうするべきだと、貴方様あなたさまも同意されたではありませんか。元気を出して下さい。」

「そうは言ってもなぁ。朝の漁から戻って、耀春の出迎えの声が無いと、どうにも調子が出ない。その上、華鳥までが週に一度とはいえ、医療所に出向く事になってしまった…。こうなってしまうと寂しくてたまらん。」

 そう言って泣き言をこぼす潘誕を、華鳥が呆れたように見詰めた。

「店が開いている日には、ちゃんと一緒にいるではありませんか。医療所に行くのは、店の休みの日だけです。その日は、貴方様あなたさまも炎翔と狩りに出掛けているではありませんか?」

 しかし潘誕の泣き言は、一向に止まらない。

「しかしなぁ...。お前の帰りが遅くなった日などは、炎翔と共に家に帰り着くと中は真っ暗だ。そういう時は寂しくてならぬ。」

「何を子供のような事をおっしゃっているのですか。しっかりして下さい。」


 この二人のやりとりには、いささか事情がある。

 耀春が絵画処への住み込みを決めて程なくの頃、王宮医療処おうきゅういりょうどころおさが華鳥をたずねて来た。

「華鳥様。お願いで御座います。どうか医療処にお戻り下さいますように…。王宮医療処は、華鳥殿の具申ぐしんによって設立されたもの。王宮医療処だけでなく、市井しせいもうけられた医療所も、元はと言えば華鳥殿の発案によるものです。」

「それは確かにそうかもしれませんが、医療の現場を離れてから長い私を、なぜ医療処に引き戻そうとされるのでしょうか?」

 そう問われた医療長は、真剣な眼差まなざしで華鳥を見た。

「二つ御座います。一つ目ですが、女子おなごならではのやまいが数多くある事は、華鳥殿も当然ご存知と思います。男の医者では、それに真摯しんしに向き合う事が出来ておりません。それには女医がのぞむのが望ましいのですが、女医の数がにもかくにも足りておらぬのです。」

 その言葉には、華鳥は成程なるほどと思った。

「確かに、今の世で女医は育て難いですね。男が幅を利かす世界で、進んで医者になりたがる女の方は少ないでしょうね。」

 華鳥の言葉に、医療長が膝を乗り出した。

「だからこそ、先達せんだつの存在が必要なのです。医者をこころざそうとする若い女達に、目の前で指針を示してくれる女医が…。それに相応ふさわしい人物は、華鳥様以外にはおりませぬ。」

 考え込む様子を見せた華鳥に対して、医療長は更に言葉を繋げた。

「もう一つ。これこそが華鳥様でなければ出来ぬ事なのですが…。華鳥様が会得えとくされている手術の技の数々。それをこなせる者が、まだ王宮の医療処いりょうどころには居ないのです。華鳥様が技を磨いた魏の山奥にある華佗かだ殿の弟子達の里から、その為の指導者を招こうとしたのですが、誰一人応じてくれる者はいませんでした。」

 それを聞いた華鳥が、その理由に思い当たるという顔つきになった。

「あの里の方々は、ずっと異端視いたんしされて来ましたからね。他の医者達からの差別の眼にさらされるだけでなく、長きに渡って多くの不当な仕打ちも受けてきました。共にそれに耐えて来た仲間同士、誰もがの地から離れるのは嫌なのでしょう。」

 華鳥の言葉に、医療長はうなづいた。

「そこで、王宮の医療処から数人の医者を、あの里へ修行に派遣しました。しかし六年が過ぎても誰一人として戻って来ません。しびれを切らせて問い合わせると、だ未熟で戻せぬと言われました。わずか二年そこそこで全てを会得した華鳥様は特別なのだ、とも言われました。それを聞いて決めたのです。やはり華鳥様に戻って頂くしかないと…」

 医療長に懇願された華鳥は、困惑した表情になった。

「事情は、よく分かりました。私のような者でも、まだ必要とされている事も…。しかし、私は一旦医療の場を退しりぞいた身です。今ではこの店を主人と共に切り盛りするのに精一杯なのです。とても医療処いりょうどころに戻るなど…」

「週に一度だけで良いのです。医療処の者達に、華鳥様の持つ知識、技術、それらをご教授頂きたいのです。無理は承知でお願いしています。どうかお引き受け下さいますように…。」

 これが華鳥が医療処に通い始めた端緒たんしょだった。


 潘誕が華鳥に泣き言を繰り返しているその時、店の扉が叩かれた。

 扉を開けた二人の前に、志耀しようが顔をのぞかせた。

「潘誕殿のぼやきが、店の外まで聴こえていますよ。それ程に姉様あねさまられぬのがたまらぬのなら、医療処へ来て貰う回数を減らしましょうか?」

「いや...。それは成りませぬ。華鳥の医術は、まだ医療所には必要なものなのでしょう?俺だけが我儘わがままを言うわけには行きません。」

 そう言って強がる潘誕に、志耀は優しげな眼を向けた。

「あの医療処いりょうどころを創設したのは、華鳥の姉様あねさまですからね。医師達が驚いておりました。耀春を産み育てる為に今まで医療現場を離れていたのに、姉様の医術の腕は全く変わっておらぬと...。しかし、いつまでも先達の姉様ばかりに頼り切っているのは情け無い限りですね。医療長には良く言っておきます、あまり姉様ばかりに頼るなと…。」

「いや...みかどにそのような事をして頂くなど、滅相めっそうもありません。」

 恐縮して地に頭が付くばかりに頭を下げる潘誕に向かって、志耀は言った。

「良いのです。しかしこうなってみると、炎翔えんしょうがいてくれて良かったですな。」

 そう言いながら、志耀は自分のあごでた。

「耀春の住み込みの話の直ぐ後に、呂蒙爺りょもうじいが炎翔を自分が預かりたいと言い出した時は、どうしようかと思いましたよ。呂蒙爺は、すっかり炎翔の才に惚れ込んでいるようです。司馬炎殿が、王宮に行くのは未だ早いと言ってくれたのでその話は無くなりましたが...。炎翔までこの家から居なくなってしまっていれば、潘誕殿の元気はますます無くなっていたでしょうね。」

 志耀の言葉に、華鳥が頭を下げた。

みかどまでにご心配をお掛けして、申し訳ないことです。呂蒙様から話があった時、炎翔は乗り気だったのですよ。司馬炎様から御断りはあったのですが、実は私からも炎翔に頼んで、この家に残って貰ったのです。耀春の居ない状況が落ち着くまでは、此処ここに居て欲しいと...」

 華鳥の言葉を聞いた志耀は、眼を細めた。

「ほう、そんな事が...。まぁ炎翔は行きたがったでしょうな。王宮には耀春がいますからね。しかし、しっかりと華鳥の姉様の願いを受け入れるとは、大したものだ。」

 そう言いながら、志耀は店内を見渡した。

「それで...炎翔は何処どこにいるのです? 実は今日は、彼に話がしたくて来たのです。」


 裏庭に廻った志耀は、其処そこまきを割っている炎翔を目にした。

 庭の隅で薪割りを眺める志耀の姿に、しばらくして炎翔が気付いた。

れは...みかど... 。ずっと其処そこにいらっしゃったのですか?」

「うむ。中々見事な斧捌おのさばきだ。しかし、少し力が入りすぎているな。ちょっとその斧を貸してみろ。」

 志耀はそう言うと炎翔の横にしゃがみこみ、切株を手にした。

 志耀にうながされた炎翔は、怪訝けげんな顔つきで志耀に斧を手渡した。

 志耀は、手渡された斧を一度宙で軽く振り、すぐに切株に向かって振り下ろした。

 乾いた音が響き、ほとんど何の手ごたえもないように、切株は真っ二つに割れ飛んだ。

 その後、次々と薪を割って行く志耀の姿を見て、炎翔は唖然あぜんとした。

れは...。まるで手品を見ているようだ...」

 そんな炎翔を見ながら、志耀が小さく笑った。

霊鳥山れいちょうざんに居た時、薪割まきわりは私の日課の一つだったからな。久々に斧を手にしたが、まだ腕は衰えていないな。」

 その後も斧を振りながら、志耀は炎翔に話しかけた。

「先日、魏郡に視察に出掛けた際に、司馬炎殿にお会いして来た。話をする中で、炎翔、お前の事についても司馬炎殿の胸の内をお聞きして来た。此処ここに来たのは、それをお前に伝える為だ。」

 その言葉に、炎翔は思わず直立した。






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