第7話 耀春の実力

 一人残された耀春ようしゅんに、何恭かきょうが声を掛けた。

「それでは、お前の世話をする者に引き合せよう。しばら此処ここで待つが良い。」

 席を立った何恭を待ちながら、耀春は周囲の絵師達が紙に絵を描きつけて行く様子に、喰い入るように見入った。

 やがて何恭が、一人の若い女性を伴って戻って来た。

 小柄で細面のその女性は、耀春を見て驚いた表情を見せた。

「こんな小さな娘だったのですのね。」

 そんな娘を、何恭は耀春に引き合わせた。

「紹介しよう。お前の世話をしてくれる小媛しょうえんと言う者だ。」


 小媛は、耀春をともなって廊下を歩みながら、優しい声で語りかけた。

吃驚びっくりしちゃったわよ。上の方々からの直々の頼みで預かる俊才なのでくれぐれも大事にって….。そう師匠が言うから、どんな人かと思ってたら...。こんな可愛い娘だったのね。」

「小媛様。宜しくお願いします。」

 丁寧に頭を下げる耀春見て、小媛は微笑んだ。

 まだ八つか九つ位かしら。

 笑窪えくぼが何とも可愛いわね。

 思わずぎゅっと抱きしめたくなる衝動を、小媛は何とか抑えた。

「お行儀も良いのね。お母様から、しっかりとしつけられてるのね。」

 そう言いながら、小媛は耀春を見下ろした。

「さてと...。警護所の絵師さん達が集まって来る迄には、だ時間があるし...。ちょっと私の部屋にいらっしゃいな。其処そこで一休みして、待つと良いわ。」

 耀春が小媛に案内されたのは、狭いながらもきちんと掃除の行き届いた小部屋だった。

「私は運がいいの。一人で部屋を貰えたから。女は私一人だからね。他の男の人達は、みんな一緒くたに大部屋に押し込められて、雑魚寝ざこねの状態なのよ。」

 部屋の中で座った耀春の前に、茶碗が差し出された。

白湯さゆだけどね。お茶なんて洒落しゃれたものは無いんで、御免ね。」

 耀春は、脇に置いた巾着きんちゃくから竹包みをひとつ取り出した。

「これ、どうですか? 父さまが作ってくれた饅頭まんとうです。昼餉ひるげに食べるようにと言って、持たせてくれたんです。」

 小媛は、竹包から饅頭を一つつまみ上げて頬張ほおばると、眼を丸くした。

「なにこれ...。途轍とてつもなく美味しいじゃない。こんなの初めて..」

 たちまち一つの饅頭を平らげた小媛が、だ物足りない顔をしているのを見て、耀春は直ぐにもう一つをすすめた。

「父さまは、料理屋をやってるんです。それは人気の献立の一つなんです。」


 そう言いながら、耀春はふと部屋の隅にある机に眼をやった。

 机上には、だ描きかけの花の絵が置かれていた。

 おかわりの饅頭を頬張ほおばりながら耀春の視線を追った小媛が、その絵を見て微笑んだ。

「それは、私が今練習で描いてる絵よ。」

 そう言いながら、小媛の頭に一つの考えが浮かんだ。

 この子、一体どの程度に絵が描けるのかしら?

 師匠は俊才と言ってるし、警護所から絵師が人相書にんそうがきを習いに来るって言ってるけど…。

 ずは何か描いて貰えば、すぐに分かるわよね。

 そこまで頭を巡らせた小媛は、耀春に誘いを掛けた。

「耀春も何か描いてみない? 此処ここには画材も色材も全部揃ってるから...」

 それを聞いた耀春の頬の笑窪が輝いた。

「描いて良いんですか?」

 そう尋ねた耀春を見ながら、小媛は机の上にある小窓に歩み寄ってそれを引き開けた。

 窓の外には庭が広がり、其処そこには一面の秋桜コスモスが咲き誇っていた。

「私の描いていたのは此れ。耀春も描いてみない?」

 そう言いながら、小媛は耀春に絵筆を差し出した。

 耀春は小媛から手渡された絵筆を取ると、庭の花々にしばらく見入った後に、机上きじょうの紙に筆を走らせ始めた。

 その様子を見守る小媛の顔に、驚きの色が広がった。

「耀春....。この筆裁ふでさばき...。何で、こんな物を知ってるの? これは絵画処かいがどころでも、季煌きこうにしか出来ない技よ...。何であんたがれを...」

 小媛に詰め寄られた耀春は、少し後退あとずさりをした。

「さっき小媛様を待ってた時に、絵画処の方々の作業を見ていたんです。その方達の中で、本当に凄い描き方をする人がいたんです。それがあんまりにも凄かったんで、真似してみたくなって....」

 その言葉に、小媛は息を呑んで立ちすくんだ。

 そんな小媛の姿を、耀春は不思議そうな顔で眺めた。

 その時部屋の扉が開き、一人の若い男が顔をのぞかせた。

「おい、小媛。何をしてるんだ。警護所の絵師達は、もうとっくに集合してるそうだ。早く耀春を連れて来いと言って、師匠が怒ってるぞ。」

 小媛は、その男の顔を見ると、黙ったまま机上きじょうの絵を指差した。

 耀春が描き上げたばかりの絵に眼をやった男は、唖然あぜんとした顔になった。

「何だ、れは…。小媛、お前....。いつの間に、俺の技法を盗み取ったのだ。此れをお前に教えた事など一度も無いのに....」

 そう言って詰め寄る男に向かって、小媛は言った。

「季煌....。それを描いたのは私じゃない...。此処ここにいる耀春よ....。」

 季煌と呼ばれた男は、呆気あっけに取られた顔で、小媛と耀春の顔を交互に見回した。

 そして改めて机上の絵に眼を落とした後、声を絞り出した。

「そんな馬鹿な....あり得ない...」


 翌朝、絵画処かいがどころ統括とうかつする何恭は、仕事場に姿を現した三人を見て立ちすくんだ。

 何恭の前には、季煌に肩車をされた耀春と、そのかたわらに寄り添う小媛の姿があった。

「お前ら、これはどうした事だ。耀春は昨日の用事が済んだら、直ぐに警護の者の元に渡し、家に送り届けよと言った筈ではないか。」

 そう言ってあわてる何恭に、季煌が頭を下げた。

「申し訳ありません。我等われらが耀春に頼み込み、此処ここに泊まって貰いました。」

 何恭から急用の知らせを受けて、王平が直ぐに絵画処にやって来た。

 王平が部屋に入り腰を下ろすと、直ぐに何恭が報告を始めた。

「何だと...。昨夜、耀春は家には戻らなかったと言うのか...」

 驚いた顔つきになった王平に向かって、何恭が頭を下げた。

「申し訳御座いませぬ。耀春の画法に驚いた絵画処の二人が、耀春に様々な絵を描かせているうちに夜半になり、耀春は部屋で寝入ってしまったとの事です。それを見た季煌と言う者が、あわてて耀春の家に駆けつけて、そのむねは説明したそうですが...。耀春の母者は、事情を聞くと笑って承諾されたそうです。何ともきもの座ったお方で御座います。」

 そう言ってひたいの汗をぬぐう何恭に向かって、王平は得心した表情を見せた。

「それはそうであろうな。此処ここだけの話だが、耀春の母者とはあの華真かしん殿の妹御いもうとごだ。多くは言えぬが、言わば百戦錬磨ひゃくせんれんまのお人だ。多少の物事には動ぜぬのは当然であろう。ところで...。何故なぜ、絵画処のその二人は、耀春を引き止めたのだ?」

「二人のうち季煌が耀春の描いた絵を見て、直ぐに別の絵を描いてくれと頼んだそうです。季煌の筆は絵画処でも一二です。その筆遣ふでづかいとそっくりだったので、どうしても確かめたかったと...」

 それを聞いた王平が、身を乗り出した。

「それで...。お前も、耀春が描いたその絵を見たのか?」

「はい。我が眼を疑いました。耀春の描いた絵の筆遣ふでづかいは、季煌の筆そのものでした。絵画処では、事細ことこまかに技法を教える事はありません。師匠や周囲の者の絵や筆遣いを見て、それを盗めと、常々言っております。しかしれは、言葉で言う程の生易なまやさしいものではありません。ところが耀春は、季煌の筆遣いを一度見ただけで、技法を我が物としていました。」

 いまだに信じられぬと言う表情のまま、何恭は言葉を継いだ。

「それだけではありません。小媛と季煌の眼の前で、耀春が描いた他の絵...。あれには、春秋しゅんじゅうの時代の名筆達の画法が、そのまま使われておりました。何故なぜあのような画法を耀春が知っているのか、さっぱり判りませぬ。」

 それを聞いた王平は、春秋という言葉に思い当たる表情を見せた。

「それは恐らく...。みかどが与えた春秋の画集を、耀春が何度も模写もしゃして覚えたものであろうな。」

 それを聞いた何恭は、思わず腰を浮かせた。

「何と...。みかどがあの娘に、そのような高価な画集を下賜かしされたと言うのですか...」

 それにうなづく王平を見た何恭は、思わず息を吐いた。

「そうだとすれば帝の御慧眼ごけいがんにはおそれいるばかりです。しかし耀春の才はそれだけでは御座いませぬ。」

「まだ何かあるのか?」

「今朝、耀春を連れて現れた季煌と小媛が、耀春を師匠と呼ぶのです。おぬしらの師匠は私だと言って叱ると、『何恭様は盗めというばかりで、何も教えては下さらぬ。でも耀春は全て判りやすく教えてくれる』...そう言うのです。」

 あの小さな耀春が、大の大人から師匠と呼ばれている光景を想像して、王平は思わず笑いを漏らした。

 しかし何恭の顔は、真剣そのものだった。

 笑い事ではないと訴える表情だった。

先程さきほど申し上げた通り、絵師というのは技術を盗んで覚えます。だから、人に教えるなどという事は苦手なのです。私も同様です。ところが耀春が語る画法と言うのは、実に判り易く、つぼを得ていたと季煌達は言いました。」

 王平が、またもや思い当たる事がある表情で何恭の顔を見た。

「そう言われれば、あの警護所の絵師達...。帰りぎわに、このような分かり易い授業は初めてだと言いながら感激しておったな。何の事かと思っていたが...。」

 王平の言葉に、何恭が大きくうなづいた。

「彼等も、きちんと教えて貰うなどという体験は初めてだったのでしょう。あの耀春という娘。小さな娘とはいえ、持つ技倆ぎりょうは大変なものです。それを懇切丁寧こんせつていねいに教えられれば、感激も当然でしょう。」

 そこ迄の話を聞いた王平は、改めて何恭の顔を覗き込んだ。

「それで...。おぬしは、今後の耀春をどうしたら良いと思っているのだ?」

 王平に見つめられた何恭は、真っ直ぐに王平の眼を見返した。

「あの娘は、真の天才です。しかしこのままでは、模倣もほうだけの天才で終わる危険もあります。それは惜しいと強く思います。」

「だからどうすれば良いかと...。私はそれを聞いているのだ。」

 やや苛立いらだった王平の前に、何恭は両手を突いた。

「単なる通いではなく、ずっと絵画処かいがどころが耀春をお預かりしたく存じます。私自らが、耀春を超一流の絵師に育ててみたいのです。」

 何恭に両手をついて懇願された王平は、戸惑いの表情を見せた。

「しかし...おぬし先程さきほど、自分は人に絵を教えるのは苦手だと申したばかりではないか。」

 王平にそう言われた何恭は、今度は床にひたいり付けた。

「技法を教えるのは苦手です。しかし絵を描く心は教えられます。耀春だけが描ける絵の心を掴み取れるように、私に導かせて下さい。...。何卒なにとぞ、お願いで御座います。」


「ふうむ...何恭がそのような事を...。何恭と言えば、国でも一二を争う名筆ではないか。耀春も、大変な人物に見込まれたものだな。」

 王平から話を聞かされた志耀は、腕組みをしながら、視線を宙に彷徨さまよわわせた。

「何恭だけでなく、絵画処の季煌と小媛という者達からも、是非とも耀春を絵画処で預かりたいと嘆願たんがんが来ています。小媛というのは女絵師なのですが、耀春の面倒は自分が責任を持ってみるからとも言っておりまして…。」

 それを聞いた志耀は、何度も首を振った。

「私には決められぬ。ればかりは、潘誕殿と華鳥の姉様に相談せねばな。」



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