第3話 煮付けの秘密

 その晩の潘誕はんたんの店は、相変わらず常連客でにぎわっていた。

「この煮付け、出て来るのは久しぶりじゃないか。此奴こいつが喰いたくて、この五日間というもの、店に通い詰めたんだ。今日の魚は、何時いつも以上にでかいな。これは、食いでがあると言うものだ。」

 美味うまそうに魚にかぶり付く姿を見て、隣に座ったもう一人の常連客が生唾なまつばを飲んだ。

「俺にも、それをくれないか。しかしこの店の煮付けというのは、味付けにどんな香辛料を使っているんだ? この前、成都せいとの料亭に久しぶりに行ったんだが、其処そこの板前が言っていた。この店の煮付けの味を再現しようと何度も頑張ってみたが、どうしても駄目だったそうだ。」

 客にそう聞かれた華鳥かちょうは、にこやかな笑みを浮かべた。

「味付けは、それこそ営業秘密ですよ。おそらく誰がいどんでも、この味を再現するのは無理でしょうね。」

 華鳥がそう断言するのには、理由わけがある。

 潘誕の店では、肉にしろ魚にしろ、特別な香辛料で下味を付けている。

 潘誕が昔からずっと調合に工夫をらして来た香辛料がそうだが、その他にも他の店では絶対に入手出来ない数々の香辛料を、潘誕はひそかに料理に使っていた。

 それは、華鳥の父である飛仙当主ひせんとうしゅ華翔かしょうが、遠い西国や海を渡った異国から、金に糸目を付けずに買いあさって来た香辛料である。

 華翔は、新しい香辛料を入手するたびに、それを潘誕の店へと送って来た。

 中には、目の玉が飛び出るほど高価なものもあった。

 胡椒こしょうと呼ばれる天竺てんじくの香辛料は、遠い西国では、一袋が同じ砂金一袋と交換されていると言う。

 そんな高価な香辛料を、華翔は惜しげもなく潘誕へと送って来る。

 しかも、気に入ったものは、幾らでも追加の希望をかなえてくれる。

 実は華翔は、元々の蔵書集めの趣味に加えて、食道楽にはまるようになっていた。

 華鳥が、潘誕にとついでからである。

 美食の楽しみを知った華翔は、料理には料理人の腕に加えて、使う香辛料の多彩さが重要であることに気付いた。

 それからである。

 ある時から、それまで以上に頻繁ひんぱんに、多種多彩の香辛料が店に届くようになったのは。

 華翔は、潘誕に対して全ての香辛料を使いこなす事を要求した。

 しかも料理の値段は、どんな高価な香辛料を使っても普通におさえろと、華翔は言って来た。

 料理を美味うまく出来る香辛料が使い放題で、しかもそれを使った料理を安く客に提供出来るのなら、潘誕には全くいなはない。

 新しい香辛料が届くたびに表情を輝かせる潘誕を見て、華鳥はふと疑問を持った。

 何故なぜ、父はこのような事をするのか、と。

 道楽にしては度が過ぎている気がするし、集めた香辛料ををあきないとして売る様子もない。

 ある時、同伴客を連れて店にやって来た華翔に、華鳥はその疑問をぶつけてみた。

 華鳥の問いに対して、華翔はいとも簡単に答えを返した。


美味うまい料理っていうのはな、何よりも強力な交渉道具なんだよ。至高しこうの料理の前では、どんな黄金財宝も及ばねぇ。女がそばにいなくても人は生きていけるが、食い物がなくちゃ生きてはいけねぇ。それが途轍とてつもなく美味うまいもんなら、そこから離れられなくなるのが人情ってもんだ。さっき俺が連れて来た客だがな。南方で海産物を一手に手掛てがける大店おおだなの当主だ。取引の交渉にずっと難儀なんぎをしていたんだが、帰りぎわの奴の顔を見て、此奴こいつは落ちたと確信した。おめぇの亭主のお陰だ。」

 それを聞いた華鳥は、内心呆れた。

 三年前に、飛仙はその拠点を成都に移していた。

 耀春が生まれて、成都に居た方が孫の顔を見に来やすいからだろうと思っていたが、どうも違ったようだ。

 その頃から、華翔は店の定休日を狙って、ちょくちょく客を連れて来るようになっていた。

 あきないの交渉の為だったのね。

 店で食事をしている時は、商いの話なんて全くしていないのに…。

 やっぱり、この父という人、どうにも食えない人だ。

 そう思いながら、華鳥は別の質問を華翔にぶつけた。

何故なぜ、香辛料を売らないのです? そのような美味おいしい料理が作れるのなら、買い手は沢山たくさんつくでしょうに。」

 そう尋ねる華鳥に向かって、華翔は鼻を鳴らした。

「世の中に出回でまわっちまえば、希少価値きしょうかちが下がるじゃねぇか。おめぇの亭主の料理の腕は一流だ。俺は、それに更にはくをつけてやってるんだぜ。希少なものほど、人は欲しくなる。当たりめぇの事だ。せわしない普段の営業日を避けて、彼奴あいつの料理をゆっくりと堪能たんのうしたけりゃ、定休日に俺と一緒に店に来なくちゃなんねぇ。そうなると、その後の商談は最初から俺の優位で進むってもんだ。こういう立ち位置を作れるなら、多少の投資なんて安いもんだ。」

「それじゃぁ、この店で料理を安く出させているのは何故なぜなんです?」

「そりゃあ、出来るだけ大勢の舌の肥えた連中に、おめぇの亭主の料理を食って貰いたいからだ。値段の高い高級料亭ばかりに入りびたっている連中は、本当の食通とは言わねぇ。本物の食通って言うのは、自分の舌で美味うまいもんを探す奴のことだ。そういう連中にまれれば、亭主の料理の腕も上がるってもんだ。」

 何処どこまでも計算高い華翔の腹の内に、華鳥は舌を巻いた。


 華鳥が、馴染みの常連客達と味付け談義をしているところに、厨房から潘誕が顔を出した。

 そして暁軍ぎょうぐんの兵隊らしき一同が囲むたくへと向かった。

「今日で引退だそうですね。長い間ご苦労様でした。」

 潘誕がそう言って頭を下げたのは、既に初老の域に達した兵士だった。

 その初老の兵士は、潘誕の顔を見ると笑いながら手を挙げた。

「お陰で、良い兵隊生活が過ごせた。特に潘誕。お前との出逢いは生涯忘れる事はないだろう。お前の武術の才は、俺が預かった兵達の中では飛び抜けていた。王平おうへい様が、お前を手元に置いたのも当然だ。お前が軍を辞めた時には、何とも勿体無もったいないと思ったが…。」

 そう言いながら、その初老の兵士は客の接待をしている華鳥を見詰めた。

「しかし、仕方あるまいな。あのような絶世の美女を嫁にしてしまったのだから。妻子の為に生きると決めたお前の気持ちは良く分かる。お前があの方をめとった時には、兵達全員が、羨望とねたみに包まれた。高嶺たかねの花どころか、普通なら絶対に手が届かぬ天女てんにょだからな。」

 先輩だったその兵士の言葉に、潘誕は面映おもはゆい表情を見せた。

「しかし軍を辞めた後に、この店を開いてくれた事には本当に感謝しているぞ。お前が居なくなって、残された兵達全員がもう美味うまいものが食えなくなったと落ち込んだからな。俺もそうだ。だがこの店が出来たお陰で、その後も美味いものには不自由しなくなった。その上、あの天女様とも店で親しく会話をわせるようになったのだから。これには全員が感謝している。」

 その言葉に、卓を囲んだ兵士全員がうなづいた。


 初老の兵士は、ふと店の扉の外を伺う様子になった。

露摸ろぼに最後の挨拶をしても良いか?あの白い狼は、最後の三年間、俺の守り神だった。この三年間、遠隔地の山賊退治に出掛ける時には、必ず露摸に会いに来てその守護を貰った。お陰でこうして何事もなく、今日を迎えられた。」

 それを聞いた潘誕は、直ぐに入り口に歩み寄って扉を開けた。

 そこには、全てを察した様子の露摸が端座たんざしていた。

 初老の兵は、直ぐに露摸の元に歩み寄った。

「露摸。今迄ずっと俺を見守ってくれた事、感謝する。この後は、残った兵達と、何よりもこの暁の国を守護してくれ。それが俺の最後の頼みだ。」

 露摸は、兵士の言葉を聞くとわずかに頭をれた。

 露摸を囲む兵達全員が、その白く輝く毛並みから立ち昇る何かを感じた。

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