第2話

 松風蒼斗(まつかぜあおと)。

 それが自分の名前だ。

 十九歳、去年高校を卒業したばかり。本来は大学生という年齢だが、残念ながら学力も金も足りず、大学には行っていない。

 両親は、ごくごく普通のサラリーマンである父、そして専業主婦の母、家計はいつだって苦しく、蒼斗自身も、そんな両親の力になりたいと思って、高校卒業と同時に就職活動を開始したけれど、残念ながらほとんどの企業から不採用の通知が届いた。

 結局、蒼斗に出来る事は、バイトをして少しでも金を家に入れる事くらいだった、特に頭が良いわけでも、運動、芸術、音楽などと言った分野で特殊な才能があるという訳でも無い、そんな蒼斗が企業に就職しようと思っても、上手く行く道理も無いし、バイトも正直かなり限られた物しか出来ない。

 結局、蒼斗が選んだのは、自宅近くのコンビニのアルバイトだった。

 毎日、朝の九時から夜の十時まで、高校を出たとはいえ未成年の蒼斗がそこまで働いても良いのか、とは思ったけれど、特に誰かに何かを言われるわけでも無かったから、きっと問題無いのだろう、と、蒼斗は気にもしなかった。

 実際、蒼斗は店の中で、積極的に動いて様々な仕事をこなし、色々な仕事を覚えた、もう店長並みに仕事が出来ると評判だった、客にも愛想良く接し、それなりの金も得ていた、所詮はバイト、という立場だから、正直あまり大した額では無いけれど、それでも家計はそれなりに助けられていた。


 そうだ。

 蒼斗は、いつの間にか閉じていた目を開けた。

 自分は……帰らないといけない。

 両親の待つ家に。

 自分がいなければ、家計は廻らない。

 そして。

 蒼斗は両親の事を、心から愛していた。

 自分を育ててくれたし、大切にもしてくれた。

 そんな両親の力になりたい、と、心から思っていた。

 だから……

 こんなところにいる場合じゃ無いんだ。

 蒼斗は思って、ゆっくりと扉に近づいて行く。

 ノブを掴んでガチャガチャと回すが開かない、蒼斗は舌打ちした。

 そもそも……

 そもそも自分は、どうしてこんな場所にいるのだろうか?

 蒼斗は、もう一度目を閉じた。

 思い出せ。

 一体、何があったのかを……

 ぼんやりと、頭の中に浮かんで来る。


 ある日の夜。

 バイトを終えた蒼斗が自宅に帰ろうと、コンビニの裏手に止めてある自分の自転車に近づいて行った時だ、本当はバイクででも来たいのだけれど、生憎と免許を取る金も、バイクを買う金も家には無い、バイクに乗れればそれなりの距離を移動出来るし、職探しも幅が広がるから、出来る事ならいつかはどうにかしたい、とは思っているのだが……

 そんな事を考えながら、自分の自転車に近づいた時だ。

「……?」

 蒼斗は、そこで眉を寄せた。

 自転車の前篭、荷物を入れる為の篭の中に、何か銀色の筒の様な物が入っていた。

 それは、何かの缶だった、スプレー缶のような……

 蒼斗は顔をしかめる、こういう事はたまにある、酔客や、礼儀を知らない輩が飲み終えた缶ジュースやらの空き缶を、篭の中に捨てていくのだ。

 大方その口だろう、蒼斗は舌打ちと共にそれを手に取り、店の中のゴミ箱に捨てに行こうとした。

 だが……

 その次の瞬間。


 しゅううう……


「っ!?」

 何か、ガスが抜ける様な音が響く。

 慌てて手に持った缶を見る、その途端に……

 白い煙が、蒼斗の視界を覆っていた。

 そして。

「なん、だ……これ……」

 煙を吸ってしまったせいだろう、急激な眠気に襲われ、膝がガクガクと震え、立っていられなくなる。

 身体から力が抜け、手に持った缶が地面の上に転がり落ちる。

 そして。

 蒼斗はその場に、どう、と膝を突いていた。

 視界の隅に、この店で働くようになって一年半くらいになるが、その間一度も見たことが無い、そればかりか蒼斗が、産まれた時からずっと暮らしているこの街でも、一度も見た事が無い、黒塗りの高級外車が映った。

 こんなコンビニには似合わないその車の助手席の扉が開いて、誰かが出て来る。

 それが誰なのか認識するよりも早く。

 蒼斗は、その場に俯せに倒れて意識を失っていた。


 蒼斗は頷いた。

 そうだ。

 自分はそうして、あの車に乗せられて、ここに連れて来られたのに違い無い。

 蒼斗は、拳を握りしめた。

 つまり自分は、誘拐されたのだ。

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