第4話

二人用の公園のベンチは、三人座るとちょっと狭い。

莉久くんが小さいとはいえ、あっちの三人用のベンチにすれば良かったな、と思った。


「ボクのお母さんは、ボクが三歳の時にお父さんと離婚した」

莉久くんは気にせず、足をパタパタ動かしながら話し始めた。

「お母さんとは、それっきり会ってない」

「じゃあ絵馬に書いてある『ほんとうのおかあさん』って……」

莉久くんは何も言わずに頷くだけだった。

「今は、新しいお義母さんがいる。お父さんが、ボクが小学校に入る時にサイコンしたんだ」

「ほう、いいお母さんかえ?」

錦は頬ずえをついたまま言う。

「……たぶん」


子どもの笑い声が聞こえた。

今度は高学年が下校する時刻なのだろうか。子ども特有の走り方の足音が響く。

「たぶん、って?」

「すごくいい人だよ。ご飯もおいしいし、褒めてくれるし……」

莉久くんの表情は、ハッとするほど大人びていた。

「でも、ボクのほんとうのお母さんじゃない。会ってみたいんだ、ほんとうのお母さんに」





「いただきます!」

一夜明け、俺は家で朝飯を食っていた。

橘お手製の朝食は、豆腐とわかめの味噌汁にほかほかの炊きたてご飯、漬物に、皮がパリパリの焼き鮭がのった長方形の皿のすみっこには卵焼きが二切れ。

しかもだし巻き玉子だ、最高。

温かい味噌汁を飲むと、体の芯から溶けていくようだ。


「はぁ〜、めっちゃ美味いっす。感謝!」

「よかった。あっ、そういえば莉久くんのお母さんの件」

橘が、朝飯を食っている俺にコピー用紙を差し出す。

「えっ?もうわかったん?」

「料理研究家ですから、SNSを使えばすぐ出てきました。名前もだいたいの年齢もわかるので簡単でしたよ」

「やば天才だな」


俺は食べていた卵かけご飯と箸を置いて、コピー用紙を受け取る。

SNSのアカウントや出版したレシピ本の写真が印刷されていた。

アカウント名は『菊川彩子 手抜きフルコース!簡単家庭料理 発売中♡』。

アイコンには北欧風のキッチンで青色のエプロンを身につけ、こちらに笑顔を向ける女性の写真だった。

二冊レシピ本を出していて、どちらも家庭料理のレシピ本だ。

そこそこ有名な料理研究家なのか、何度かテレビで見かけたママタレの推薦文が帯で踊っている。


莉久くんからもらった情報は三つ。

お母さんの名前は彩子。

莉久くんを産んだのは二十代後半なので、今は三十代半ばから後半。料理研究家をしているらしい。

たったそれだけの情報から、橘はあっさりと特定したのだ。


「へぇ〜言われりゃ目元が似てんな」

「いえ、確証がないのでできれば写真をもらってきてもらえますか?」

橘は小さめの器に盛られたきゅうりの浅漬けを摘むと、ちゃっかり口に運ぶ。

「写真を確認してから、お知らせしますね」

「へぇ〜何から何まで助かります」

俺はだし巻き玉子を口に運ぶ。とろっとした半熟感があり、白だしの風味がじわりと広がる。

「うまぁ……」




学校への登校前、チャリで本殿への坂道を登る。舗装されて車でも登れるようになっているが、ママチャリで登るには若干キツめの勾配だ。

息を切らしながら登ると、喉の中心だけ冷え冷えして他は熱い。

「ゲェッホ」

本殿の横にママチャリをとめて、錦の部屋の勝手口のドアをあけた。

「錦〜…い!?」


瞬間、女性が目の前にいた。

「あら」

水色のアイメイクに、真っ赤な口紅を塗ったキツネ顔の美人。

視線を少し下にズラせば、大きくあいた胸元が目に入る。

でっか……じゃなくて誰だ、この人!


「朝帰りを青少年に目撃させるなんて、悪いわね」

「あさっ、あさがっ!?」

目ん玉裏返るかと思った。

荼枳尼だきにさん、からかわないでやってください」

女性の後ろから、ひょっこりと錦が顔を出す。


「うふ、おぼこい子は可愛いものだね」

荼枳尼さんと呼ばれた女性は、先のとがった爪のついた人差し指で、俺の首から顎までをゆっくりなぞる。

なぞられたところから、ボボボと音が出そうなほど熱を持った。

「桜幸、神域の件はまかせておきなさい。坊や、またね」

俺は彼女のために勝手口からどいて、呆然と後ろ姿を見送る。


彼女は当然と言わんばかりに、礼も言わずに勝手口から出ていった。

けれど、それが当たり前に感じるほど、彼女はこの場を支配している。

「……めっっちゃ、いい匂いした」

「のんきな奴じゃのう。呆れた」

錦はわかりやすくため息をつく。


「朝イチで来て、朝イチで帰っただけじゃよ」

「ハイハイ。てか誰だよあの美人」

俺は勝手口で靴を脱いで、錦の部屋に上がる。

「わらわの上司みたいなものじゃな。一介の流行神じゃったわらわを、正式な神に推挙してくれた人じゃ」

錦はパステルピンクのローテーブルの上に置かれた茶菓子に手を伸ばす。


「それより、何用じゃ?」

「あぁ、莉久くんのお母さん。見つかったって」

錦は茶菓子の包装を丁寧に剥がすと、中からモナカを取り出す。

「それならさっき橘から聞いたぞい。それゆえ、荼枳尼天に口利きを頼んだのじゃ」

「口利き?」

「さよう」

錦はモナカを食べながらこたえる。


「わらわ達社を持つ神は、それぞれの領地のようなもの──神域がある。それゆえ他の社の神域に入る時には、事前に連絡が必要なのじゃよ」

「へへ、めんどくさそー」

「大抵は神主同士で事足りるのじゃが……今回はそこそこ大きい神の神域ゆえ、荼枳尼天に口利きを頼んだのじゃ」

錦は包み紙を丁寧に折りたたむ。


「で、お主ここで油を売っていていいのかえ?」

「あ?」

錦は部屋の時計を指さす。

「やべっ、時間だ!」

「気をつけるのじゃよ〜」

俺は勝手口から飛び出ると、慌てて自転車にまたがり、転げ落ちるように坂を下った。

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