第5話

 二人が来賓用の部屋に消えてからすぐ、別荘はいつもの日常を取り戻した。二人の従者がどうなったのか気にしつつ、皆が個々の仕事をこなし昼時になると、メモリアは昨晩の事もあり自室で昼ご飯を食べる為、納屋へと続く中庭を歩いていた。


 途中、ライラックの花が咲く池の前に立つアルドの姿を見つけ駆け寄ってみると、彼の横顔は憂いを帯びていた。手を握っていなければどこかに飛んでいってしまいそうな危うさを孕んでいる。話しかけないといけない、そんな気がした。


「あの、アルドさん。大丈夫、ですか?」


 突発的に出てきたのはありきたりな言葉だけだった。彼が大丈夫でない事なんて一目瞭然なのに、それ以外の言葉が見つからなかった。


「彼らは正真正銘、クローリス家の従者でした。キネマログを見せてもらったのです。」


 老執事は紫色に咲き誇ったライラックの花を見つめたまま。充血した瞳をこちらに向ける事なく、言葉を紡ぐ。


「まさか、この歳になってこれほどに後悔するとは……。これが、私の犯してきた罪の重さなのでしょうね。」


「……アルド、さん?」


「こんな老いぼれに、まだ出来る事があるとすれば……。私の、昔話に付き合ってくれますか?」


 やっとこちらを向いたアルドは優しく、悲しく笑っていた。胸を締め付けられる。メモリアはただ頷くだけで精一杯だった。


「私には十五年も前に出て行った妻がいるんです。当時の私は、仕事一筋で家を顧みませんでした。妻は子供の出来にくい体質だったようで、結局私達の間に子供は出来ず、家では妻がずっと泣いていました。そんな彼女を見たくなくて家に帰りたくなかったのもありました。」


 アルドは老いた手でライラックの紫色の花弁を撫でた。まるでとても大切な物を愛でているかの様に。

 

 微かな記憶に残る妻の髪色に似ている。

 顔も声も忘れてしまっていた彼女に。


「妻に夫として声を掛けてやるべきだったのに、当時の私にはそれが出来ませんでした。決して怒っていた訳ではないのです。ただ、なんと声を掛けていいのか、分からなかったんです。朝から晩まで、ずっと泣き続ける彼女を過ぎる時間に任せっきりにしてしまった。」


 こんな夫を人生のパートナーにはしたくない。誰だってそう思うだろう。

 

 彼女もそうだった……。

 それは仕方のない事。自分が招いた結果に過ぎない。


「こんな私に愛想を尽かした彼女は、机の上にたった一つ、キネマログを残して家を出て行ってしまったのです。」


 残された大きな家と小さなキネマログ。

 彼女を追いかけようとも、探そうともしなかった。この結論を出した彼女だ。だったらその意志を尊重しよう。


――そうやって現実から逃げたのだ……。


 家は売りに出し、キネマログを見ようともしなかった。どうせ、キネマログに記録されているのは私への罵倒だろうと思ったから。


「それから五年経って、聖戦が起きました。それから更に十年必死に生きていたら、キネマログはただの石に変わっており、その存在自体をすっかり忘れてしまっていました。昨日まで……。」


 昨日、訪れた旅人がキネマログと口に出さなければ一生思い出すこともしなかった変わり果てた石ころ。


 それは、ただの興味本位で。

 主人の留守を申し付けられた私の責務でもあると。

 映録石キネマログ復元師リカバリーを名乗る奇妙な従者二人の正体を暴くつもりで提示した。


 私を罵倒しているであろうキネマログを見せてくれと。その結果が、まさかこんな真実を知ることになるなんて。夢にも思わなかった……。


『こんにちは、アルド。』


 映し出された映像に映る一人の女性。

 見間違うはずがなかった。


『貴方が、この映像を見ることは限りなくゼロに等しいでしょうね。それでも……』


 淡い紫色の髪。愛らしい声。ブラウンの瞳。

 ずっと忘れてしまっていた妻が、そこに。

 鮮明に、映し出された。


『それでも、どうしても覚えていて欲しかったの。』


 充血した瞳、痩せこけた身体。長らく家から出ていなかった為か、不健康に見える肌。


――嗚呼、ああ……。


 あの時の彼女が、

 こんなにも……、弱っていたなんて。

 なんて罪深い事をしてしまったんだ。

 

『ごめんなさい。私は不出来な妻でした。』


――違う、違うんだ……。


 私の方が、僕の方こそ、ダメな夫だったんだよ。


『貴方には幸せになって欲しいの。私なんかより可愛いお嫁さんを貰って、愛らしい子供を授かって、流れる月日を一緒に笑って過ごせる、そんな、そんな……、幸せを。』


――違う、そうじゃない……。


 もっと僕を罵倒して貶していて欲しかった。僕はそのぐらいの事をしていたのだから。なのに、君は、


――なんて、悲しそうに笑っているんだい……。


『心から、愛していたわ……アルド。』


 彼女の瞳は笑っていて、頬を一粒の涙が掛けて行った。

 記憶の中の彼女はずっと、泣いていた。それ以外の表情なんて覚えていなかったはずなのに。映像を見た瞬間、霧が晴れたように彼女との思い出が思い出される。


 彼女に出会った時の胸の高鳴り。

 愛を誓い合った教会。

 ライラックの花束を満面の笑みで受け取る妻。


 嗚呼、ああッ……!!

 なんで忘れてしまっていたんだ。


 どうして彼女を追いかけて行かなかったんだ。

 一生を幸せにすると誓ったのに。僕の愛を注ぐと誓ったはずなのに。


 彼女はずっと僕を愛してくれていた。ずっと僕を見ていてくれていたというのに。


 僕は、一度だって彼女に真っ直ぐ愛を語った事はない。

 たった一言、「愛している」と言えていれば、彼女は出て行かなかったかもしれないのに……。


――僕は、なんて愚かなのだろう。


「キネマログに残されていた映像は、それで全てでした。妻は私に愛想を尽かしたから出て行ったのではなく、愛していたから出て行ったのです。」


「そん、な……。」


「馬鹿げた話ですね。お二人の正体を暴こうとした愚行で自身の無能さが露わになったのですから。」


 メモリアは何も言えず、アルドが咲き誇るライラック花を妻であるかのように愛でる姿をただじっと、見ていた。


「これは愚かな老人の言葉です。受け取り方は任せます。思い込みとは怖いものです。記憶とは儚いものです。人間が覚えておける物事なんて本当にちっぽけです。ですが、忘れてはいけない事が確かにあるのです。」


 アルドの瞳には熱が帯びる。真剣な表情と一粒の涙が違和感なく共存していた。


「私みたいになってはいけませんよ……。」


 取り返しがつかなくなるその前に、貴方は進みなさい。彼の瞳は訴えてくる。強い意志がこもった言葉はメモリアの胸を貫く。


「貴方だってまだ取り戻せるかも知れませんよ?」


 その声は二人の後ろから。

 太陽に照らされたシルバーの長い髪を振り乱したマヤが息を切らして立っていた。


「先程は、その、カルルが大変失礼を致しました。」


「いえ、私こそ。大人気ありませんでした。」


 何故か二人ともが気まずそうに頭を下げ合った。


「メモリアさん、一つ仕事をお願いしても?」


「え、あ、はい。」


 話の続きが気になるがアルドからの願いなら断れない。メモリアは氷水とタオルを持って来賓用の部屋に向かった。


「失礼致します……って、どうなさったのですか!」


 扉を開けた先に、カルルの姿を驚く。

 ソファに全身を預けて寝転ぶ彼の左頬は真っ赤に腫れ上がっていた。


「どうしたもこうしたもない、見たまま。あのジジイに思いっきり殴られた。」


 あの親切で丁寧なアルドが?

 ありえない。厳しいことを言う時もあるが、決して人に怒りをぶつける様な人ではない。あるとすれば、彼が心から怒るなにかに触れた時ぐらいではないだろうか。

 目の前いるこの男ならそれぐらいやりかねない。原因があれば絶対にこの男だ。


「と、とにかく頬をこれで冷やして下さい。」


「ああ……。ところであいつは?」


 タオルで頬を冷やしながらカルルは歯切れ悪そうに口を開く。


「あいつとは一体誰のことですか?」


「マヤだ。ジジイに会いに行ったか?」


「あ、はい。」


「そうか、それならもう大丈夫だろ。」


 この人は落ち着いて喋る事が出来たのか、メモリアの率直な感想だった。第一印象がアレだっただけに、アルドに殴られたら殴り返して家をめちゃくちゃにすると言い出してもおかしくないと思っていたから意外だった。


「大丈夫って、なにがです?」


「文脈からなぜ分からない、あのジジイだ。」


 あ、やっぱりこの人苦手かも知れない。

 メモリアはタオルを持つ手に今さっきより力を入れて彼の左頬に押し当てた。


「痛いっ。お前、いい女だな。」


 鋭い八重歯を見せて恍惚な表情を浮かべるカルルに寒気を感じる。アルドが殴った気持ちが痛いほど理解できた。


「それで、何が大丈夫なのですか?」


「ジジイの嫁を迎えに行くように説得しに行ったんだ。」


「えっ、でもアルドさんの奥様はどこにいるかも分からないって。」


「港町のマルタにいる。」


「なんで、そんな事を知っているんですか!?」


「はぁ、簡単だ。キネマログに映っていた家具、植物、着てきた服装。あのジジイの出身地から遠くなく、神経質になった精神を癒せる所。尚且つ女が一人で行ける場所なんて、ここからの距離を考慮するとあそこぐらいだろ。」


 カルルは推測ではなく断定した。自慢するでもなく当たり前の出来事を話しているように喋るのでメモリアは空いた口が塞がらない。


「す、すごい……。」


「問題はあのジジイが重い腰を上げるかどうかだが、マヤなら大丈夫だろ。」


「マヤ様を信頼されているのですね。」


「信頼なんてする訳がないだろ。人に付け入るのはあいつの専売特許。この僕に唯一ないものだってだけだよ。」


「はぁ、そうなのですね。」


「あれと合うのは女の趣味ぐらいなもんだ。」


 ふんっと鼻を鳴らしそっぽを向くカルルだが、耳が真っ赤になっていたのをメモリアは見逃さなかった。マヤとの相性は存外悪くないのかも知れない。口にでは嫌っていても二人は似たもの同士なのだろう。


「それでお前はどうするんだ?」


「……え?」


「持ってるんだろ、キネマログ。」


 その言葉にピクリと肩を震わせた。

 メモリアはまだ自身に決断出来ないでいる。アルドに言われた事もあるが、恐怖心があるのも事実。


「私、は……。」


「どっちでもいいが、僕たちはもうこの村を訪れることはない。王都行きの馬車がくるまであと二日だ。映像を見るなら僕の気が変わらない内に持ってくる事だな。」


「…………はい。」

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