第13話 フリ妻は勝負下着を買う
一定のサイクルで訪れる、大人女子への変身願望。
誕生日や年のはじめに、それまでの自分と決裂し、新たな自分に生まれ変わろうと目標に掲げる。
大人女子への第一歩として、靴やバッグ、アクセサリーのちょっといいものを買ってみたり、髪型や香水を変えてみたり。
誰かに「おっ、いいね」、と言ってもらえるのを待っている。たとえ社交辞令だと分かっていても、気づいてもらえるのは嬉しいものだ。
つまり、誰かに見せるわけでもない下着は、いちばん手を抜きやすい。
紗英はもう何年も、快適さを重視した下着しか買っていない。
そんな紗英の勝負下着は、気合い用である。
買ったのは、友里子と旅行へ行く前。一緒に買い物に出かけて、ノリでお揃いの赤い下着を買った。
それ以来、旅行や大事な仕事の日は、気合を入れるべく、赤い下着で武装するようにしている。ちなみに、先日の同窓会にも、この
これが紗英にとっての勝負下着である。
『友里子、お願い。助けて!』
紗英からのSOSに、友里子はすぐに応えてくれた。
土曜日の昼下がり、いつもの茶房でティータイムセットを注文し、作戦会議をはじめる。
「問題は、コタさんが勝負下着に気づくかってことよ。いつもと違うタイプを買わないと、ただ新しい下着を買っただけになっちゃう」
紗英は、うんうんと大きく頷いた。
「コタさんの好みは、可愛い系でしょう。今持ってるのは、そっち系ってことよね?」
「えっと、うーん。どうかな……」
「何よ、はっきりしないわね。自分のことでしょう」
「く、……ろかな」
「え?」
「だから、黒なの。全部」
「……マジか」
紗英は下着を黒と決めている。
「言いたいことは分かる。でも、黒って便利なのよ。ぱっと見てシンプルでもちゃんとして見えるし、上下ばらばらにつけてもセットに見えるし」
実用性の高さが気に入っている。
おのずと、引き出しは黒一色である。隅のほうに、友里子と買った赤い下着を入れてある。
もちろん、航太郎は紗英の引き出し事情を承知している。
だから、今回の「勝負下着を買う」というミッションはしごく簡単で、黒以外を買えばいい。
「で、紗英のことだから、またヘンなことで悩んでるのね」
さすが親友である。紗英をよく分かっている。
「勝負下着は相手を喜ばせるものでしょう? わたしのばあい、それはコタじゃなくて浮気相手(フリ)なわけよ」
「なるほど。相手の好みが分からないって言いたいのね」
「そうなの。だったら、可愛い系じゃなくてもいいんじゃないかしら?」
「却下。それだとコタさんに伝わらないわ」
友里子はにべもなく否定した。
「だって、わたしが可愛い系なんて、ぜったいおかしいでしょう?」
自身のアイデンティティとして、可愛い系ほどかけ離れているものはない。
航太郎の好みに合わせて、柔らかい色合いを選ぶことはあっても、やはりモノトーンのほうが「らしい」と思っている。
正直、「勘弁してほしい」というのが、紗英の本音である。今まで浮気のフリするためにいろいろやってきたが、これは恥ずかしい。
人に見せない下着だからこそ、それを身につける自分に意味がありすぎていたたまれない。
しかし、友里子はそんな紗英を一刀両断にする。
「だ・か・ら、勝負下着なのよ? というか、可愛い系でそのままコタさんに
友里子は、ニヤニヤと意地の悪い笑顔を見せる。
紗英は、口に入れたわらび餅のきな粉で、ごほっとむせた。
「……今は、そういう話じゃないのよ」
「じゃあ、どういう話よ?」
「自分が可愛い系の下着をつけるところなんて想像できなというか。ひとりで買いに行ったら、黒買うのが想像できるというか」
紗英がごにょごにょと言うと、友里子は苦笑いを返した。きっと同じことを想ったに違いない。
「分かったわ。私が選ぶから、紗英はお金だけ出しなさい。どうせなら、いいものを買おう」
なんだかんだ、ノリノリである。
友里子に頼んで本当に良かった。紗英はほっと胸を撫で下ろした。
その日の夜、紗英は、買ったばかりの下着を片づけていた。
「新しい下着買ったの?」
いつのまにか、航太郎がお風呂から出ていて、後ろから紗英に声をかけた。紗英はこっそりやるつもりで、心臓が飛び跳ねた。
「この前は、ジム用のしか買わなかったから」
「……ふーん」
「ダイエットも上手くいってるし、お洒落したくなっちゃった」
航太郎は納得したようなそぶりを見せながらも、じっと紗英の手元を見ている。
シルクのような光沢の、高級感あふれるレースのついた淡いピンクがひと組。パステルブルーの生地に、透けるレースの花模様がひと組。
可愛いけど狙いすぎていない、ぎりぎりのライン。友里子のセンスの良さをうかがわせる。
「いつもと違う」
「たまには、こういうのもいいかなと思って。友里子と選んだの」
実際には、友里子が選んだのだが。
「へえ。そんなに可愛いのつけて、俺を誘惑する気?」
航太郎は、紗英の頭をわしゃわしゃと撫でてソファに座った。鼻歌まで歌っている。
紗英はドキドキしていた。
「友里子、あんた
次の日、航太郎が仕事に出ると、紗英はボイスレコーダーを取り出した。
いちど夜に外へ出てから、紗英は夕食後のウォーキングが日課になっていた。紗英が留守にするあいだ、家の中にもボイスレコーダーを仕掛けている。
メモ一件。
紗英は再生ボタンを押した。
流れてきたのはテレビの音。「散歩に行ってくる」「行ってらっしゃい」という、出かけるときの会話まで早送りする。
テレビの音と、航太郎が冷蔵庫から飲み物を取り出す音が残っていた。
紗英は、違和感を覚える。あまりにも航太郎の声がしない。
「なんかこのトリックおかしくね?」
「ほんとコイツお調子者。ギター壊れして我に返るんだぜ」
「うわっ、めっちゃビックリしたわ」
「見たか? 今の顔」
普段一緒にテレビを見ているとき、航太郎はうるさいくらい話しかけてくる。
紗英は、「もうちょっと静かにテレビ見られないの?」と言いたいのを我慢している。そして、じっくり見たい番組は、録画してひとりで見るようにしている。
それなのに。
「わたしがいないあいだ、ずっと無言っておかしくない?」
理由を考えて、ピンときた。航太郎はテレビを見てないのだ。「サト」とのやり取りに熱中して、テレビに反応していないに違いない。
しかし、音しか拾えないボイスレコーダーでは、本当のところは分からない。
紗英は、何か方法はないものかと考えはじめた。
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