第12話 フリ妻は心折れそうになる
『明日から一泊二日で出張になった』
昼過ぎ、カフェにいた紗英のスマホが震えた。航太郎からのメッセージだ。
先日の「わたしも行こうかな」事件からひと月。日帰りも含めたら、もう三度目。
今までほとんどなかった出張が、連続している。航太郎は、だんだんと遠慮がなくなっている。
だが、それは紗英も同じだった。見て見ぬフリも限界に近い。こうして昼間に出かけることも増えている。
「大丈夫ですか?」
「ええ、すみません。それで、おいくらですか?」
紗英はスマホを伏せると、無理やり笑顔を作った。
「部長が突然『行くぞ』って言うから、急に出張だよ。部長となんて面倒くさいから、ほんと行きたくねえ」
航太郎は、泊りで出張のときに「部長と」「同僚と」とつけるようになった。
そう言われたら、「わたしも」とは言えない。紗英は釈然としないながらも、「行ってらっしゃい」と見送ることしかできなかった。
友里子は最近忙しいらしく、お茶に誘うのも気が引ける。
紗英はジャージに着替えて、スマートウォッチを手にした。時計のベルトに引っ掛かって、横に置いてあったリボンが床に落ちた。
林原からもらった、イタリア国旗のお守りだ。
「連絡先知ってたら、今すぐ呼ぶんだけどな……」
恨みごとがこぼれて、首を振る。首を振って、諦めた自分に失望する。
人に頼ることも、自分を変えることも、結局のところ紗英には無理なのだ。
「やめた。変なこと考えるのは
紗英はリボンを棚に戻すと、家を出てジムへ向かった。黙々と体を動かして、嫌なことを頭から追い出す。
平日に週三日、ジムに通いつづけた成果は表れている。こうなると、フリではじめたダイエットも楽しくなってくる。
今は太ももに隙間を作るのが目標だ。
レッグプレスマシンの重りを元に戻し、自分が触れたところを備え付けのタオルで拭いておく。別のマシンへ移動しようとしたところで、後ろから声がかかった。
「お水忘れてますよ」
振り向くと、女性がペットボトルを手に立っていた。紗英よりも十ほど年上と
「どうも。ありがとうございます」
紗英はこの女性に見覚えがあった。午前中の同じ時間に、夫婦でよく見かける。
どちらかといえば、奥さんのほうが主導権を握っているようで、旦那さんはときどき困った顔をしながらつき従っている。
控えめだが、いつもきちんとお化粧をして、背筋をぴんと伸ばして歩く姿は、どこか育ちの良さを感じさせる。
紗英はこの奥さんのことを、密かに「マダム」と呼んでいた。
上品な口元と笑った顔が驚くほど旦那さんと似ていて、「長年連れ添った夫婦は顔が似る」という言葉がぴったりの二人だった。
リタイアするには早すぎる年齢である。にもかかわらず、仲良くジムに出勤している二人を見て、紗英は羨ましくも微笑ましく思っていた。
ウォーキングを終えてロッカールームに行くと、マダムと目が合った。お互い頭を下げる。
「よく会いますね」
興味が湧いて、珍しく紗英から声をかけた。マダムは薄い唇を弧にする。
「今度、お友達と富士山に登ることになってね。ご
「富士山ですか。楽しそう」
「あら、興味ある?」
「五合目観光くらいなら、行けそうかな……」
「正直なのね。同じこと言ってる」
マダムは男子ロッカーに目をやる。
「仲いいですね」
「ついでに、旦那のお腹もどうにかしようと思って。なのに腰が重いから、無理矢理引っぱって来てるのよ」
瞳の中にイタズラな微笑みが浮かんだ。人差し指を唇に当てて小首を傾げるようすは、小動物のようでもあり、コケティッシュでもある。
そのようすに、紗英は釘付けになった。これは男じゃなくても
マダムは、紗英にマネできない可愛らしさを持つ女性だった。
それ以来、ジムで顔を合わせるたびにマダムと言葉を交わすようになった。新しい交友関係に、ジムへ通う紗英の足取りも軽かった。
その日も、トレーニングを終えてロッカーから荷物を取り出すと、航太郎からのメッセージが届いていた。
『明日から一泊二日で四国出張になるかも』
『部長次第だけど』
『四国確定です』
時間をおいて三通。紗英は小さくため息を吐いた。四度目ともなればもう諦めの境地だが、聞き慣れない地名に不信感が
「四国ねえ……取引先なんてあったかしら?」
もちろん、航太郎の勤め先の事情など紗英の知るところではない。たまたま、今まで話題に上らなかった可能性だってある。
しかし、いちど考えはじめると、家に帰ってもなかなか気持ちは収まらなかった。
「この食材、週末に回せるかしら」
冷蔵庫の中身を見て呟いた。明日は、航太郎の好物である、鶏手羽元と大根の煮物を作ろうと思っていたのだ。
「ごめんな。取引先の都合で、あさっての十一時しか時間が合わないから、前乗りすることになってさ。四国なんて行ったことないし、面倒で嫌なんだよ?」
帰宅した航太郎は後ろから紗英に絡みついた。首筋に温かい唇が触れる。言葉とは裏腹に、声には楽しげな音が乗っている。
「お土産お願いね」
四国初上陸の言葉どおり、航太郎は次々に写真を送ってきた。新幹線、特急列車、駅弁、瀬戸大橋――。
部長と一緒とはいえ、座席は離れているらしい。列車の旅を楽しんでいるようだ。
夕方には泊まるホテルの写真と、位置情報が追加された。ビジネスホテルというには立派なホテル。調べてみたら、温泉も完備されている。
夕食には豪華な懐石。普段は飲まない日本酒の
紗英はダイニングテーブルを見た。今日は腹いせのつもりで、特上寿司を買ってきた。それでも写真の料理には遠く及ばない。
「わたしも、どこかへ行こうかな」
紗英はおひとり様が苦手だ。よく知る場所ならともかく、ひとり旅ともなれば、富士山以上にハードルが高い。
友人の顔を順番に思い浮かべる。友里子のようなキャリアウーマンか、子供に手のかかる新米ママか。どちらにしても、突然のお誘いは迷惑に違いない。
紗英は棚の上のリボンを見た。
「いやいやいやいや。ないない」
紗英は頭を振って邪念を追い払った。
彼なら、紗英のために都合をつけてくれる――妙な確信があった。だからこそ、誘ってはいけないことも自覚している。
「頭冷やそう」
食器を片して外へ出た。もうすっかり秋も深まって、夜は長袖でも寒いくらいだ。だが、頭に血が上った紗英には心地いい風が吹いていた。
どうせなら、と普段あまり歩いたことのない道に入った。
五年住んでいても、夜になって明かりが灯ると、いつもの通りも違って見える。目的地を私立図書館にさだめ、道中を楽しむことにする。
「へえ、ここはパスタ屋からラーメン屋になったのね」
外まで行列ができていた。知らないお店を発見し、ガラス越しに中を覗きながら歩いた。今の紗英には、これが精一杯のひとり旅だった。
そしてその夜、夕食の写真を最後に、航太郎からの連絡は途切れた。
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