第11話 フリ妻は逢瀬の邪魔をする

 浮気、とくに不倫のばあい。家族とひとつ屋根の下で暮らしているわけだから、パートナーの目をかいくぐり、逢瀬の時間を確保することが重要になる。


 逆にいえば、パートナーが家にいなければ、そのぶん自分も動きやすくなるわけで……。

 つい、パートナーの予定を詳しく確認してしまうのは、仕方のないことだ。


 ところが木村家のばあい、航太郎は毎日同じ時間に家を出て、同じ時間に帰ってくる。残業も飲み会も出張もほぼない。じつにホワイトな職場である。

 こんなんで、いつ浮気相手と会っているのか、少々不思議だ。


 考えられるのは仕事中。

 ホワイトな職場は、じつに自由な職場でもある。

 フレックスタイム制で、遅刻や早退、外回りからの直帰も自己判断で許されているという。


 くわえて、テレワークが一般的になりつつある世の中。パソコンとインターネット環境さえあれば、どこででも仕事はできる。


 航太郎が自宅でテレワークすることはない。浮気相手が家にいる人なのか、別の場所で待ち合わせているのかは分からないが、そういうことなのだろうと紗英は考えている。


 しかし、今は一旦それを置いておく。

 浮気のフリする紗英は、航太郎がいつ家を空けるのかを確認せねばなるまい。ルーチンみたいな生活だから、返ってくる答えは分かりきっていたとしても。


「ねえコタ、今の部署だと出張はないのかしら?」


 たずねた自分が言うのもアレだが、ほとほと怪しい。


「ないけど。なんで?」

「いえべつに。聞いてみただけ」


 当然のごとく、航太郎は怪しんでいる。

 気持ちはよく分かる。もし紗英が逆の立場なら、「はあ?」となるだろう。

 探偵さんには申し訳ないが、この作戦には無理がある。




 ところが、紗英がそういた二週間後、またしても事件は突然やってきた。


「来週の金曜日、出張になった」

「ええッ」

「ごめん、何かあった?」

「いや、ありませんけど……」


 わたしがいたから?

 もしかして、行ってもいいと思った?

 不倫旅行のアシストしちゃった?

 でも、だからって、ちょっと大胆過ぎないかしら。


 紗英は内心で、盛大なるツッコミを入れてしまった。


「泊りになる?」

「……そうだな。そうなるかも、しれない」


 航太郎からは、なんとも歯切れの悪い返事がきた。

 そしてあろうことか、そのままスマホを持ってトイレにお隠れになった。


「まさか……?」


 あからさまな態度に、さすがに紗英も苛立ちを隠せない。


「ああそうですよね。相手に聞いてからじゃないと決められないものね。聞いたそばからトイレにこもっちゃって……。ハイハイ、どうぞ確認してください」


 こんな恨み節がこぼれても仕方のないことだ。

 そして、航太郎がトイレから戻ってくると、すかさずこんなことを口にしてしまった。


「ねえコタ。金曜日ってひとりで行くの?」

「……うん」

「へえ。じゃあわたしも一緒についていこうかな」

「は?」

「だってほら、最近旅行もしてないし。土日で観光してきたら楽しそうだわ」


 航太郎がフリーズして、のどから変な声が漏れた。

 それでも、紗英は自分がおかしなことを言っているとは思わない。


「前は誘ってくれてたじゃない? あの頃は無理だったけど、今なら行けるわ」


 紗英がまだ働いていたころ、航太郎は出張があると、「有給取って紗英も一緒に行く?」と冗談めかして誘うことがあった。もちろん、紗英が「行かない」と言うのを分かっていて誘うのだ。

 航太郎にはそういうところがある。


 だから今回は、「仕事を辞めて時間もあるし」と、紗英からカマをかけてみたのだ。

 さあ、どうする?


「まだ、仕事がどうなるか決定じゃないよ」


 航太郎は、消え入りそうな声で呟いた。

 苦々しい顔したのを、紗英は視界のすみで確認した。




 次の日、出張が日帰りになったことを告げられ、紗英が一緒に行く話は、完全になかったことになった。

 航太郎からも、「これ以上は食い下がるなよ」という圧を感じる。


 こうなれば、もういちど紗英がやることは――。


「出張の日は朝早いの?」

「うん」

「帰りは遅くなる?」

「うん」

「じゃあ、晩ごはんはいらない時間になるわよね? 最初から用意しないから、そのつもりでいてね」

「……うん」


 航太郎の声が、どんどん低くなっていく。

 浮気のフリをしているから、予定を詳しく聞いているだけ。その日は紗英も、浮気相手に会いに行くフリをしようと思っている。

 それだけなのに。


「えっと十六時にアポだから、それが終わってから帰るとだいぶ遅くなると思う。ここで乗り換えて……、最寄り駅降りてから歩いて二十分か。午前中は事務所に顔出すから、朝は七時の新幹線に乗らないと間に合わないな。乗り換えがもう少し簡単にできるといいけど」


 航太郎はスマホで検索しながら、わざとらしく詳細をぺらぺらと話しはじめた。


 浮気をまったく疑っていないときから、航太郎は出張先で撮った写真を送ってきたり、位置情報を知らせてきたりすることがあった。

 当時は、紗英を安心させるためだと素直に信じていた。


 しかし、今は違う。

 すべてが嘘とは思わないけれど、真実とも思わない。


 紗英は用心深くなった。誠に遺憾ながら。




『悪い、今日残業になった』



 週が明けて、出張を金曜日に控えた火曜日、いつもの「今から帰る」メッセージが残業のお知らせに変わった。

 三十分くらいと言うので、連休明けだしそんなこともあるだろうと思って、帰宅した航太郎を迎えた。


「今週はずっと残業になりそうだ。三十分くらいな。出張で使うプレゼン資料を作らないといけないんだけど、部長のダメ出しがうるさくて」

「お疲れさま。大事な仕事なのね。晩ごはんはどうするの?」

「家で食べるよ」


 航太郎は、スーツから着替える間もなく早口で告げた。その視線は、紗英の反応をうかがっているようにも感じる。

 紗英が「出張について行く」などと言ったせいで、一泊旅行のなくなった「サト」はお怒りに違いない。


 紗英はさりげなく航太郎の上着の臭いを嗅いだ。だが、車の芳香剤の香りしか嗅ぎ取れなかった。


「だいたい、毎日三十分の残業なんてあるのかしら? 定時直前に仕事振られたとか、電話がかかってきたとか、それくらいの仕事量よ。前もって分かってる仕事なら、がんばれば定時までに終わらせられるわよね。わざわざ宣言するようなことかしら?」


 極めつけに、晩ごはんは家で食べるとか、二人はいったいどういうデートをしているの? 一緒にいるならごはんくらい、うちの旦那に食べさせてあげてほしい。そう思わずにはいられない。


「よろしくお願いしますよ、ほんとに……」


 紗英は顔も知らぬ「サト」に、いらぬお節介を焼いた。


 ところが、「毎日残業」と言っていた水曜日の昼過ぎ、航太郎から緊急のメッセージが送られてきた。



『先輩がこっちに帰ってきてる。今日か明日、メシ行くぞって。紗英もそのつもりでいて』



 お世話になった会社の先輩で、航太郎はこの人に頭が上がらない。紗英のことも気にかけてくれていて、一緒に誘ってくれる。いつも忙しく「予定は未定」の先輩だから、今日になるか明日になるかは先輩次第。

 これでは二人の逢瀬も中止だろう。


「……ご愁傷様」


 航太郎と「サト」に手を合わせた。

 先輩との会食の続報が入ったのは、夕方だった。



『メシは明日になったので、今日は定時で帰ります』


『残業なくなったの? 了解です』


『今から帰ります。先輩からいつ呼ばれるか分からないから、午後から巻いて仕事した』



 だったら、最初から残業宣言する必要はなかったのでは? 呆れそうになって、そもそも浮気の口実だった、と思い直した。


 次の日、先輩は回らないお寿司をごちそうしてくれた。航太郎の浮気を邪魔してくれたことも含めて、先輩には感謝しかない。

 しかし、いい気分に水を差すように、帰りのタクシーで航太郎が呟いた。


「金曜日雨か……」

「けっこう降りそうね。コタは出張でこっちにいなくて良かったわね」

「いや、向こうも雨っぽいんだよ」


 航太郎はスマホを見つめたまま口を尖らせた。


「そう?」


 スマホで天気を調べると、金曜日の出張先の天気は「曇り時々雨」。そこまで気にする予報でもない。

 出張と言いながら、この辺りで屋外レジャーでも予定していたのか。もしくは、まったく別の地域へ行く予定だったのか。


 先輩との会食がなければ、ボイスレコーダーが役に立ったかもしれない。そんなことを考えながら紗英は自宅まで帰った。


 出張だと言った金曜日。「サト」と喧嘩でもしたのか、早い時間に「今から帰る」メッセージが届いた。

 航太郎いわく、「朝早かったから、直帰させてもらった」そうで、晩ごはんも自宅で食べるという。


 焦ったのは紗英のほうだった。浮気相手と出かけるフリする予定でいたのを、急遽きゅうきょ自宅の掃除に変更する。それこそ浮気の証拠が残らぬように、髪の毛一本残さぬように、丁寧に磨き上げた。


「おかえり」


 炊飯器のメロディが鳴るころ、航太郎が帰ってきた。


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