第10話 フリ妻はボイスレコーダーを仕掛ける

『気が変わるかもしれないから、確実な証拠を押さえておいたほうがいい』



 友里子の忠告を、紗英はきちんと覚えていた。

 確実な証拠を手に入れられるのは、やはりスマホだろう。メッセージや写真、SNSから見つかる可能性は高い。

 手はじめに、航太郎のSNSから「サト」という名前を検索する。が、それらしい人物はいない。


「サトじゃなくて、サトコ、それともサトミ?」


 しばらく思いつくままに入力してみたが、結局女性だと思われるアカウントをすべて確認した。

 それでも、「サト」らしきアカウントを見つけることはできなかった。


 航太郎にそれとなく探りを入れて分かったのは、かなり慎重に浮気を隠している、ということだ。

 スマホのロックはもちろん、SNSはすべて裏アカウントを作り、さらに承認した人間だけに閲覧を許可する、「鍵アカ」にする徹底ぶり。


 こうしてスマホを完全に防御されていると、明確な証拠を集めるのはなかなか難しい。


 もちろん、航太郎のスマホから確認してしまえばいちばん早いのだが、それでは証拠として扱ってもらえない可能性がある。探偵事務所では「プライバシーの侵害」、あるいは「違法捜査」という言葉を使っていた。


 紗英が浮気のフリをはじめてから、航太郎も何かを感じとったのか、さらに行動に気を配っているフシがある。

 正直、普通の方法では航太郎のシッポをつかめる気がしない。かといって、探偵を雇うのは尻込みしてしまう。


 そんなわけで、紗英は今、航太郎がスマホで誰とどんなやり取りをしているのか、確認する方法はないものかと日々頭を悩ませている。


 はじめに思い浮かんだのは、隠しカメラだった。

 しかし、航太郎をピンポイントで録画できる場所というのは、なかなか難しい。さらに、スマホ画面を読みとれる画質でなければならない。


 航太郎にバレたら元も子もない。浮気調査でいちばん大事なのは、「こちらが調査していることを相手に悟られないようにすること」という探偵の言葉が頭をよぎる。


 あくまでも紗英は、航太郎の浮気に気づいていないていでいなければならない。



 次に思いついたのがボイスレコーダーである。

 インターネットで調べてみると、GPSや小型カメラとくらべて三千円とお手頃である。

 会社での会議や大学の講義にも使えると書いてあって、かなり広い空間でも声が拾えるらしい。何より、置いておくだけでいい手軽さが気に入った。


 さらに、連続五二時間ほど録音が可能。タイマー機能までついている。あらかじめ時間を設定しておけば、航太郎の前で録音ボタンを押す必要がない。


 紗英にとってはいいことづくしの機械だった。

 それでも、一日じっくり考えてから購入ボタンを押した。

 翌日に届いたボイスレコーダーは、紗英の人差し指くらいの大きさしかなかった。


 仕掛けるのは車の中。車通勤の航太郎が、毎日かならずひとりになる場所であり、浮気相手に連絡する可能性は高いと思われた。




「行ってきまーす」

「いってらっしゃい。車、気をつけてね。今日はカレーだから」


 航太郎を送り出す、紗英の声も楽しげに響いたに違いない。

 実際、紗英は楽しかった。車の中にボイスレコーダーを忍ばせてある。

 たとえ何も録音されていなくても、探偵みたいなマネごとをするだけで、面白くてたまらなかった。


「パンドラの箱を開けてやろうじゃないの」


 航太郎の浮気調査だというのに、紗英は満喫していた。


 ボイスレコーダーは、平日朝七時からと夕方六時からの一時間、つまり、通勤時間帯に繰返し録音するように設定されている。

 昨晩、航太郎が先に寝たので、こっそりと部屋を抜け出して、車に仕掛けたボイスレコーダーを入れ替えた。


 航太郎が家を出ると、紗英はさっそく回収したボイスレコーダーを取り出した。

 タイマー録音はきちんと働いていた。メモ六件の表示に安堵あんどする。聞き洩らさないように、イヤホンを挿して再生ボタンを押す。


 流れてきたのはテレビの音。思ったより大きくてクリアな音だ。

 ゴーというエンジン音がBGMで流れているが、周りの音をかき消すほどではない。走行中も静かなハイブリッド車に感謝だ。


 紗英は六時間の録音を、早送りしながら二時間半かけて最後まで確認した。



『今日は一日中くもりで、ところによってはにわか雨が降るでしょう。折り畳み傘があると安心です』


『今日午後一時すぎ、東名高速で車三台が絡む追突事故が発生しました。この影響により、下り線で一時通行止めとなり……』



 朝の情報番組が三回。夕方のニュースが三回。

 なんのことはない、テレビの音が録音されていた。そのかん、航太郎はひと言も発していない。


「なんか、拍子抜けだわ」


 紗英といるときの航太郎はおしゃべりだ。

 テレビがついていれば、そのおしゃべりはさらに加速する。クイズに答え、ニュースに物申し、歌番組では歌い、映画やアニメのネタバレをする。


 テレビ番組の音しか聞こえてこないボイスレコーダーに、しっくりこない。紗英は首を傾げながらも録音データを消去した。


「結論を急ぐのは、わたしの悪い癖。気長にやらなくちゃ……」


 二、三日にいちど、紗英は夜中に家を抜け出した。ボイスレコーダーを入れ替え、録音を確認する。


 その反復作業をはじめて一か月ほど経ったとき、帰宅中の録音から航太郎のため息が聞こえた。

 ウィンカーの音につづいて、車が進む音がしてエンジンが切れた。



『はあ……面倒くさいな』



 はじめて航太郎の声をとらえた。上司の愚痴をこぼすときの、いかにも不満げな声色だ。

 紗英は、耳に全神経を集中させて聞いていた。そして、聞こえてきた航太郎の言葉に耳を疑った。



『あ、紗英? メッセージみた。パンて何パンが欲しいの、食パン? それともバゲット?』



 金曜日の帰りに、翌日の朝食用のパンを買ってくるよう、お願いしたときの電話だ。

 いつものように、優しく朗らかな会話だったはずだ。帰宅したときも、「はい、どうぞ」と笑顔で渡してくれた。


「嫌なら、嫌って言ってくれればいいのに」


 もしかして、今までも笑顔の下で、紗英に不満を持っていたのだろうか。知らず知らずのうちに、我慢させていたのだろうか。

 だから、浮気に走ったのだろうか。


 紗英だって口では言わないが、航太郎に不満はある。五畳の部屋に私物が増えていくことしかり、テレビのネタバレをすることしかり。

 夫婦といっても所詮は他人。そのくらいは、お互いさまだと思っているのだが、航太郎は違うのか。


 紗英はづいた。

 航太郎の優しさが、実は作られたものだったとしたら。そんな考えが頭を離れなくなった。

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