第9話 フリ妻はダイエットをはじめる
身だしなみを気にするようになるのは、「浮気のシグナル」だそうだ。
誰だって好きな人には可愛く思われたい。デートの前に、手持ちの服でファッションショーをする、アレだ。
紗英は自分のクローゼットを開けた。
半分は通勤用のファストファッション。紗英とおなじく、くたびれて見える。仕事を辞めたことだし、思い切ってこれを処分することにして、ポリ袋に詰めた。
残った洋服はちぐはぐしていた。紗英の好きなモノトーンと、航太郎好みの可愛い系。まるで、二人分の洋服を収納しているかのように、まとまりがない。
服はあるのに着て行く服がない、とはこのクローゼットのことだろう。
「さて、どうしよう。浮気する人のクローゼットねえ」
イメージとしては、ブランド物に身を包んだ、派手なタイプだ。
「いや、浮気をするなら目立たないように、地味にするのかしら?」
紗英は頭をひねる。
洋服のテイストでも変えてみようか、と思いはじめたとき、着替える紗英の姿を見て、航太郎がしみじみと言った。
「紗英、下腹ぽっこりしてきたな」
開いた口がふさがらなかった。航太郎にはこういうところがある。デリカシーにかけるのだ。
仕事を辞めてから体重が増えたのは本当で、今もスカートを履きながら、ウエストがきついと自分でも思った。とはいえ、自覚していても、人からは言われたくないのが乙女心だ。
だがしかし。「これはチャンス」とばかりに、紗英はおねだりする。
「ジ、ジムに……スポーツジムに通いたいです」
浮気のシグナルにあがっていた、「ダイエットをはじめる」という項目を思い出したのだ。
ダイエットがすべて浮気に繋がるとは思わない。しかし、「スカートがきつくなった」のと同じように、「浮気」もダイエットのきっかけになるのだろう。
浮気相手に会うときは美しくありたい。それは身だしなみだけでなく、体も含まれるに違いない。
「家にいるんだから、動画見ながら自分でやってみれば?」
航太郎は、簡単には首を縦に振らなかった。
「それだと、サボっちゃうと思うのよね」
「通うとなると、毎月お金がかかるだろう」
「だからこそ、ちゃんと行く。行かなくなったら、すぐ辞めるから」
「いや、でもなあ」
航太郎は黙り込んだ。
紗英は、ここが押さえどころと
「コタだって、太った奥さんより、きれいな奥さんのほうがいいでしょう?」
「俺はべつに……さっきはああ言ったけど、紗英が太ってるなんて思ってないよ」
「嘘、お腹ぽっこりって言ったくせに」
「……ごめん」
「それに、このまま太ったら服も買い替えることになるし、そっちのほうがお金かかるよ」
航太郎はしばらく難しい顔をしていたが、やがて両手を上にあげた。
「分かった。引き落としは俺の口座からでいいよ」
こうして紗英は、近所の二四時間トレーニングジムへ通う許可を勝ち取った。
無事ジムに入会した紗英は、航太郎を仕事へ送り出したあと、家事を済ませたらジャージに着替えて家を出る。
タオルと水分補給の飲み物だけ持っていけば、靴を履き替える必要もない。昔とくらべて敷居が低くなったトレーニングジムは、滞在も平均一時間と短めだ。
おかげで会費も安くてありがたい。
初日、紗英はストレッチからはじめた。だが、前屈をしても指先は床に遠い。周りは新顔に興味津々なのか、視線が痛い。
「おかしいわね。これでも昔はバレリーナだったのに」
五歳までだけど。
平日昼間のジムは、紗英よりも年配の人が多い。だから油断していた。紗英のほうがいくらかマシだろうと、タカを
気をとり直して(逃げるように?)マシンゾーンへ移動する。
どれからはじめればいいのか見当もつかず、カウンターのお兄さんに声をかけた。
「集中して鍛えたいところ、あります?」
「足とお尻に効くマシンをお願いします」
時代は美尻。それくらいは紗英だって知っている。
お兄さんが教えてくれたのは、レッグプレスマシン。すごく足に効きそうな名前が気に入った。
レッグプレスマシンは、座った状態で斜め上についている板を両足で押す。シンプルなトレーニングだ。
紗英は、膝の裏が九〇度になるようにシートをセットし、ハンドルを握って足に力をこめた――びくともしなかった。
気をとり直して、もういちど。血管が切れそうなほど足に力をこめるが、やはり一ミリたりとも板が動く気配はない。
「もう少し、軽いウェイトからはじめましょうか」
お兄さんは苦笑気味にそう言って、マシンの横に回り込み、ウェイトを下げてくれた。紗英はいたたまれない気持ちになりながらも、どうにか二十回三セットをやり遂げた。
太ももとお尻の次は「下腹ぽっこり」の解消。
SNSで、いわゆる「腹筋女子」を見たときから憧れていた。ただし、憧れるだけじゃ腹筋は割れない。当たり前だ。
マシンに仰向けになり、十回ほど体を起こした。それだけで胃の辺りが引き攣る。
見かねたのか、近くにいたオジサンが紗英に声をかけてきた。
「体じゃなくて、足を動かすほうが腹筋鍛えるのに楽なんだよ」
「なるほど」
「こうやって寝ころんで、そろえた両足を上下左右に振る」
オジサンは親切に実演してくれる。見た目は紗英の倍くらい年を重ねていそうなのに、若々しい動きだ。
負けじと紗英も、おなじ方法で、腹筋二十回を三セットやり遂げた。
ここまでで、すでに三十分以上滞在している。
残りはランニングマシン。
といっても、走るのではなくウォーキング用にセットする。マシンの前側を高くして、坂道を登るように負荷をかけて歩く。
十五分早歩きしただけで、全身から汗が噴き出した。先ほどのレッグプレスマシンの疲労が溜まっているのか、すねと太ももがつりそうになる。
紗英は早々にギブアップして、傾斜をなだらかにした。
嫌になるほどハードだとつづかない。何事も「またやろう」と思えるくらいがちょうどいい。たぶん、おそらく、きっと……。
ウォーキングを終えると、クールダウンのストレッチをして、スポーツジムをあとにした。
帰り道、お尻が麻痺したようにじんじん熱い。膝がぷるぷる小刻みに震えた。これが「生まれたての小鹿のよう」というやつに違いない。
「うう……ッ。浮気のフリをしたいだけなのに、なぜこんな苦行を……」
自分で決めたこととはいえ、早くも紗英は後悔していた。
スポーツジムに通いはじめて三週間が過ぎたころ、紗英の体にも変化があった。
レッグプレスマシンのウェイトを上げても足で押せるようになったし、お腹にえくぼが見えるようになった。心なしかヒップアップもした気がする。
さらに三か月もすると、明らかに体が軽くなった。
試しに、先日のスカートを履いて航太郎と買い物に出た。
やはりウエストはきつくない。しかし、肝心の航太郎は、まったく紗英の変化に気づいていないようだった。
「太ったことには、すぐ気がついたくせに」
それならば。今度は休みの日に、家でヨガのポーズをとってみた。ヨガ用のトレーニングウェアは、体のラインがはっきり出る。
それでも航太郎は気づかない。
「ぜったいに、見返してやるわ」
くじけそうなときは、航太郎の「下腹ぽっこり」という言葉を思い出して、ヤル気に変えた。
この時点で、紗英はすっかり忘れていた。このダイエットは、航太郎を見返すためではなく、浮気のためであることを。
理由はどうあれ、近年まれに見る美ボディを手に入れたのだから、結果オーライということにする。
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