第8話 フリ妻はスマホを手放さない
家にいるとき、航太郎はかたときもスマホを手放さない。
ズボンのポケットに入れているか、目と手の届くところに置いてあるか、どちらかである。そして、置いてあったとしても、スマホの画面はかならず下を向いている。
では、どうやって大事なメッセージを確認しているのか。
答えは、スマートウォッチである。スマートウォッチとは、スマホに連動し、通知とその内容を表示してくれる。
だから、スマホが手元になくても、着信があればすぐに気づく。そして、返信が必要な相手だったら、スマホを持ってトイレにこもる。
航太郎は、そういう仕組みを作っているようだ。
「コタのマネくらい、やれるわよ」
負けず嫌いの紗英だったが、すぐにため息をつくことになった。
長年のクセとは恐ろしいものである。最初は画面を下に向けて置いたはずなのに、少しするともう忘れて上を向いている。
スマホを使うたび、強く意識しなければつづかない。
「浮気してる人って、こんなにスマホの扱いに注意しながら生活しているのね。尊敬するわ」
本来ならリラックスするはずの自宅で、これほど神経をすり減らすとは。浮気者の生態は、やはり紗英には理解しがたかった。
結局、毎回スマホを伏せて置くことを諦めて、航太郎のいる前では、スマホを触ること自体をやめた。
「スマートウォッチって、すごく便利なものだったのね」
二人の誕生日が近いからと、航太郎がお
数年前、トイレに行くときも航太郎がスマホを手放さない、と気づいたときに口にした。
「ねえコタ。トイレにスマホ持ってくの、やめてくれない?」
航太郎は、ただでさえお腹が弱くてトイレが長かった。浮気を疑ったわけではなく、純粋に早く出て欲しかったのだ。
「トイレの中で手持ち無沙汰だから」
当時は、そんな言葉でかわされた。
「まさか三年近くたって、自分が同じことをするハメになるとはね」
紗英は愚痴るように、友里子へ報告した。
「何が困るって、全部よ。スマホ持ってトイレ入ってどこに置けばいいの? 置かなきゃ、おパンツも下げられないんですけど」
電話の向こうで、友里子が大笑いした。
家の中でスマホを持ち歩くことにして、紗英がいちばん困ったのは、やはりトイレだった。
今までの人生で、トイレをそれ以外の用途で使ったことなどない。世間では、新聞を読んだり漫画を読んだりする人がいるらしいが、紗英はそういうのとは無縁に生きてきた。
誰かに連絡したいわけでも、イチャつきたいわけでもない。
なんども言うが、紗英はただ浮気のフリをしたいだけなのだ。
だから分からない。落ち着かない。
「で、こもるってどれくらい? 五分? 十分? それ以上は勘弁してほしいわ。ほんとに手持ち無沙汰だから」
紗英が首をひねりながらリビングに戻ると、航太郎と目が合った。
ああ。目の前に答えがあった。
それからしばらくのあいだ、紗英は航太郎のこもる時間を計ることにした。
・午後六時三〇分 スマホ持ってトイレ 十三分
・午後七時三四分 ごはんのあとスマホ持ってトイレ、中で着信 十五分
・午後九時二九分 スマホ持ってトイレ 二四分
・午後十一時五分 スマホ持ってトイレ 十二分
スマホにメモしながら、悲しい気持ちになる。
こうして得た情報から、紗英は十分ほどトイレにこもることにした。
スマートウォッチが震えるたびに、ちらりと見る。だいたいはSNSの通知なのだが、そんなことはおくびにも出さず、スマホを手に立ち上がる。罪悪感が押し寄せる。悪いことはしていないのに、ただフリをするだけで、紗英は毎回緊張していた。
「騙してゴメンね。でも、そうされる不快感、コタにも分かってもらえるよね」
最初のうちは、トイレの中でただ時間がすぎるのを待っていた。だんだん慣れてくると、SNSをチェックするようになった。
すると、気づけば十五分くらい、簡単に
一週間もすると、航太郎も気づいたようだった。紗英がスマホを持って立ち上がるのを横目で見ている。
でも、何も言わない。
言わせない。
言えるわけがない。
「だって、コタもやってるよね」
「コタだけには言われたくない」
「そっくりそのままコタに返すよ」
紗英が返す言葉は決まっている。文句があるなら言ってみろ。返り討ちにしてくれる、と待ち構える。
しかし、航太郎は見ているだけで、何か言うことはなかった。
お風呂も一緒だ。
航太郎の言い訳は、「風呂入りながら、アニソン聞きたいから」だった。
たしかに、音楽は聞こえてくる。リビングまで聞こえる大音量だ。
「近所迷惑だよ。ボリューム下げたら?」
「大丈夫だろ、これくらい」
航太郎のお風呂は短い。せいぜい十五分かそこらである。たったそれだけの時間も我慢できないほど、音楽が聞きたいものか。
そのせいで、スマホを水没させたこともある。「そこまでして?」というのが紗英の本音である。
本当に音楽を聞きたいだけなのか、お風呂に持ち込む口実にしているのかは分からないが。
「だったら、わたしだって同じことしてもいいわよね」
開き直った紗英は、お風呂の中で大声で歌った。
すると、すぐに航太郎が飛んできた。脱衣所から、湯船の紗英に声をかける。
「紗英、マンションじゅうに音痴がバレるぞ」
「な……ッ!?」
人が気にしてることを。
許すまじ航太郎。
それにくらべて、寝るときは随分と
紗英はスマホを枕の下に忍ばせて寝ることにした。仕事をしているわけでもない。昼間のうちに充電器に
「紗英もベッドにスマホ、持ち込むようになったんだ」
いちどだけ、航太郎が指摘した。
今まで
航太郎が、紗英の行動をきちんと見ている。
そう思うと胸が躍った。面倒でも、「スマホを見られたくない妻」のフリをするのも、無駄ではなかったのだ。
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